あかない日記

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石川島

2021-05-11 | 出来事・行事

江戸時代の石川島(「江戸散歩)


 (「東京懐かし昭和30年代散歩地図」



前回 長谷川平蔵で
人足寄場・石川島に触れたが


石川島は 
もと森島 鎧島などと称されたが
寛永年間(1624-44)江戸幕府の船手頭
・石川八左衛門正次の所領となって
石川島と呼ばれ
また八左衛門島とも呼ばれた。


1790(寛政2)年
 老中松平定信は
 火付盗賊改の長谷川平蔵に命じ

 島を埋め立てて
「人足寄場」を建設させた。

1870(M3)年 
 寄場は廃止し

 犯罪者の懲役場となり
 石川島の監獄と呼ばれる。

1895(M28)年
 巣鴨監獄に移管されるまで続いた。

 

その後 監獄の跡地は 
共同石油タンク 三井建設倉庫ができ

石川邸跡は軍艦建造のための官営の
造船所が置かれた。

それが横須賀へ移転した跡
1876(M9)年
 石川島平野造船所となった。
1960(S35)年 
 播磨造船所と合併し

 石川島播磨重工となる。

       (IHI資料)

 

*「人足寄場」は 
 略して「寄場」と呼ばれ
 設立当初は
「加役方人足寄場」
 と称していた。

 単に無宿者(人別帳への
 登録から除かれた者)や

 引き取り人がいない
 刑余者の収容施設の他、

 人足として使役し
 強制労役所でもあった。

 また 収容者には手仕事を習得させ
 精神講話によって人間形成を行い
 成績の良い者には資金を与えて
 社会復帰を図るなどしていた。

 天保改革以後は重い追放刑の者も
 収容したため
 500人以上に達したという。

     石川島灯台(中央区佃1)


佃公園の一角 
モニメント「石川島灯台」が建っている。

説明文には

「 石川島の灯台は慶応2年(1866)
石川島人足寄場奉行清水純畸が、
隅田河口や品川沖航行の船舶のため、
油絞りの益金を割き、
人足の手で寄場南端に常夜灯を
築かせたもので
六角二層の堂々たる灯台であった。
 この完成を最も喜んだのは
近在漁師であった。

 このたび佃公園を
整備するにあたり、

モニュメントとして
灯台を建設するとともに、

護岸前面に安藤広重の浮世絵を
レリーフしたものを3題設置して
往時をしのぼうとするものである。」