江戸時代の石川島(「江戸散歩)
(「東京懐かし昭和30年代散歩地図」
前回 長谷川平蔵で
人足寄場・石川島に触れたが
石川島は
もと森島 鎧島などと称されたが
寛永年間(1624-44)江戸幕府の船手頭
・石川八左衛門正次の所領となって
石川島と呼ばれ
また八左衛門島とも呼ばれた。
1790(寛政2)年
老中松平定信は
火付盗賊改の長谷川平蔵に命じ
島を埋め立てて
「人足寄場」を建設させた。
1870(M3)年
寄場は廃止し
犯罪者の懲役場となり
石川島の監獄と呼ばれる。
1895(M28)年
巣鴨監獄に移管されるまで続いた。
その後 監獄の跡地は
共同石油タンク 三井建設倉庫ができ
石川邸跡は軍艦建造のための官営の
造船所が置かれた。
それが横須賀へ移転した跡
1876(M9)年
石川島平野造船所となった。
1960(S35)年
播磨造船所と合併し
石川島播磨重工となる。
(IHI資料)
*「人足寄場」は
略して「寄場」と呼ばれ
設立当初は「加役方人足寄場」
と称していた。
単に無宿者(人別帳への
登録から除かれた者)や
引き取り人がいない
刑余者の収容施設の他、
人足として使役し
強制労役所でもあった。
また 収容者には手仕事を習得させ
精神講話によって人間形成を行い
成績の良い者には資金を与えて
社会復帰を図るなどしていた。
天保改革以後は重い追放刑の者も
収容したため
500人以上に達したという。
石川島灯台(中央区佃1)
佃公園の一角
モニメント「石川島灯台」が建っている。
説明文には
「 石川島の灯台は慶応2年(1866)
石川島人足寄場奉行清水純畸が、
隅田河口や品川沖航行の船舶のため、
油絞りの益金を割き、
人足の手で寄場南端に常夜灯を
築かせたもので
六角二層の堂々たる灯台であった。
この完成を最も喜んだのは
近在漁師であった。
このたび佃公園を
整備するにあたり、
モニュメントとして
灯台を建設するとともに、
護岸前面に安藤広重の浮世絵を
レリーフしたものを3題設置して
往時をしのぼうとするものである。」