12月2日は 実業家 三菱財閥3代目総師
岩崎久弥が亡くなった日
久弥は
1865(慶応元)年
岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として
土佐国安芸郡井ノ口村
(現・高知県安芸市)に生まれる。
父・弥太郎(1835-1885)は 三菱財閥の創設者
1875(M8)年
福澤諭吉の慶応義塾に幼稚舎から入塾。
1878(M11)年
父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、
英語や簿記、法律、経済を学んだ。
慶応義塾普通部を卒業後
1886(M19)年
米国留学
1888(M21)年
アメリカのペンシルベニア大学
ウォートン・スクールに入学
1891(M24)年
帰国後、副社長として三菱社に入る。
1894(M27)年
三菱社の合資会社転換と共に、
叔父・岩崎弥之助(1851-1908)に
代わって社長に就任。
1916(T5)年
いとこの岩崎小弥太(1879-1945)に
社長を譲るまで、三菱財閥三代目
として長崎造船所の近代化や
東京・丸の内地区の開発など
事業の拡充を図り、麒麟麦酒、農政事業、
製紙業などの創業にも関わった。
特に農政事業に関しては
小岩井農場(岩手県)
末広農場(千葉県)のほか
朝鮮半島、スマトラ島、ブラジル
といった海外にまで経営の手を広げた。
また、現在でいう事業部制を
三菱合資会社に導入し、
グループの活性化をもたらした。
1947(S22)年
太平洋戦争後の財閥解体政策により、
3人の息子と共に財閥家族に指定され、
三菱傘下企業の全役職を辞任。
千葉県富里にあった末廣農場の
別邸にて引退生活を送った。
なお 1924(T13)年
アジア学研究のための図書館・
東洋文庫(東京都文京区本駒込)を
設立するなど、様々な社会貢献をした。
また、東京都江東区清澄の清澄庭園、
本駒込の六義園は、それぞれ
1924年と1938(S13)年に
久弥が東京市に寄付している。