クリスマスというものが、お正月と妙に日程が近かったのって、まぁ元々は偶然だろうけど…
←やっぱりお正月といえばコタツとみかんとテレビ
実際問題、これって重要なポイントになっているよね。
クリスマスで全力ではしゃいじゃっても、すぐ正月が来るから大丈夫、みたいな…
「普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス」(岩村暢子、新潮文庫)を読んで、こういう定点観測のおもしろさがじわじわ来た。思い当たるフシや、意外にも(笑)うちは違うと思うフシなどあり、結局のところ「怖い」ものが何かということはひとことでは言えないんだけど。
定点観測というのは、ふつうのご家庭に、「レンズ付きフィルム」での食卓記録やアンケートインタビュー調査をして食生活の実態に迫るものなんだけど、これが五年の間隔を空けて二度行われたことで、時代というか時流の経年変化の方向がわかるんです。
二度というのは1999年12月/2000年1月と、2004年12月/2005年1月。うちにとっては、はなひめが生まれる直前と、はなひめ四歳のときということになる。
その間の変化をひとことでまとめると、「派手になるクリスマス、しょぼくなる正月」ということなんだけれど、家の中に外に(電飾含む)クリスマス装飾はどんどん増えていき、特に「サンタさんが来る年齢」の上限アップが目立つ。
お節を作る習慣というのは既に薄かったけれど、さらに(自前で)買って食べるということも減っている。そして特に目につくのは、仮に家族全員が家にいても、食べる時間もしくは献立がバラバラであること。
我が家にもまるっと当てはまることとしては、お節を作る習慣がないこと、あと正月飾りなども形骸化し、そもそも飾られていなかったり、意味を知らなかったり。
しかしこれは我が家にとっては2000年とかに始まったことではなく、元から(^^;; で、あえていうなら私が文化の継承をしなかったのではなく、実家にも元々、そんな習慣はない。鏡餅は飾るとあとが面倒(固くなっちゃったお餅)だから省略、お節は特に好きじゃないから作らず、お雑煮だけは父が食べたがるからテキトーに作られていたがほんとにテキトー。インスタント汁物にちょっと焼いた餅をぶちこんでもOKで特に伝統というのはない。
というわけで、2000年どころかほぼ半世紀前からこの本にあるようなトレンディな状況だったんだけど…
この本でいう「普通の家族がいちばん怖い」というのは別にお節が作られないことそのものを指しているわけではなく(たぶん)、日本の伝統文化が失われつつあることを指しているわけですらない(おそらく)。
そうではなくて、食卓の変化に表れている家族や生活の変化が怖いという趣旨だと思う。
サンタさんが中学生にも高校生にもプレゼントを持ってくるというのは、単にクリスマスプレゼントというものがあるという意味ではなく、この調査によれば、サンタさんという存在を信じさせたままで、リアリズムのタッチで演出するということだ。「サンタクロースを信じていないような、夢のない子どもってなんだか心配」「サンタクロースを信じているうちは、ウチの子大丈夫だって、私は思っているんです」「子どもにサンタの夢を与えておくと、大人になっても生活を楽しいものだと思って生きていけるんじゃないかと思うんです」というような。
あるいは、一月一日の朝食に、家族がバラバラな時間に好きなもの(菓子パン、カップラーメン、お雑煮)を食べるような状況について「同じ時間に同じものを」食べさせるような強制はよくないから、という感覚であるとか…(子どもが10歳未満であっても)
お節とかを「見えるように」置いておくけれども、それについて語ったり、あるいは食べさせたりしないことや、仮に子どもに料理をさせる場合でもそれは「自由にさせる(体験)」であって、親子で共同作業をしたり口頭で説明したりはしないとか。
まぁそういうあたりに「怖い」変質が出ているということらしい。
翻って、我が家のあり方というのを考えてみると、今後「お節を手作りする」ような方向性というのはやっぱり考えられないし(^^;; 別にそれはどうしても必要なことじゃないとも思う。でも危うい部分というのもあって、それはそれで考えておくといいことがあるんじゃないかという気もするのだ。
というわけで、つづく。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社
←またろうがイラストを描いた本(^^)

「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)

実際問題、これって重要なポイントになっているよね。
クリスマスで全力ではしゃいじゃっても、すぐ正月が来るから大丈夫、みたいな…
「普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス」(岩村暢子、新潮文庫)を読んで、こういう定点観測のおもしろさがじわじわ来た。思い当たるフシや、意外にも(笑)うちは違うと思うフシなどあり、結局のところ「怖い」ものが何かということはひとことでは言えないんだけど。
定点観測というのは、ふつうのご家庭に、「レンズ付きフィルム」での食卓記録やアンケートインタビュー調査をして食生活の実態に迫るものなんだけど、これが五年の間隔を空けて二度行われたことで、時代というか時流の経年変化の方向がわかるんです。
二度というのは1999年12月/2000年1月と、2004年12月/2005年1月。うちにとっては、はなひめが生まれる直前と、はなひめ四歳のときということになる。
その間の変化をひとことでまとめると、「派手になるクリスマス、しょぼくなる正月」ということなんだけれど、家の中に外に(電飾含む)クリスマス装飾はどんどん増えていき、特に「サンタさんが来る年齢」の上限アップが目立つ。
お節を作る習慣というのは既に薄かったけれど、さらに(自前で)買って食べるということも減っている。そして特に目につくのは、仮に家族全員が家にいても、食べる時間もしくは献立がバラバラであること。
我が家にもまるっと当てはまることとしては、お節を作る習慣がないこと、あと正月飾りなども形骸化し、そもそも飾られていなかったり、意味を知らなかったり。
しかしこれは我が家にとっては2000年とかに始まったことではなく、元から(^^;; で、あえていうなら私が文化の継承をしなかったのではなく、実家にも元々、そんな習慣はない。鏡餅は飾るとあとが面倒(固くなっちゃったお餅)だから省略、お節は特に好きじゃないから作らず、お雑煮だけは父が食べたがるからテキトーに作られていたがほんとにテキトー。インスタント汁物にちょっと焼いた餅をぶちこんでもOKで特に伝統というのはない。
というわけで、2000年どころかほぼ半世紀前からこの本にあるようなトレンディな状況だったんだけど…
この本でいう「普通の家族がいちばん怖い」というのは別にお節が作られないことそのものを指しているわけではなく(たぶん)、日本の伝統文化が失われつつあることを指しているわけですらない(おそらく)。
そうではなくて、食卓の変化に表れている家族や生活の変化が怖いという趣旨だと思う。
サンタさんが中学生にも高校生にもプレゼントを持ってくるというのは、単にクリスマスプレゼントというものがあるという意味ではなく、この調査によれば、サンタさんという存在を信じさせたままで、リアリズムのタッチで演出するということだ。「サンタクロースを信じていないような、夢のない子どもってなんだか心配」「サンタクロースを信じているうちは、ウチの子大丈夫だって、私は思っているんです」「子どもにサンタの夢を与えておくと、大人になっても生活を楽しいものだと思って生きていけるんじゃないかと思うんです」というような。
あるいは、一月一日の朝食に、家族がバラバラな時間に好きなもの(菓子パン、カップラーメン、お雑煮)を食べるような状況について「同じ時間に同じものを」食べさせるような強制はよくないから、という感覚であるとか…(子どもが10歳未満であっても)
お節とかを「見えるように」置いておくけれども、それについて語ったり、あるいは食べさせたりしないことや、仮に子どもに料理をさせる場合でもそれは「自由にさせる(体験)」であって、親子で共同作業をしたり口頭で説明したりはしないとか。
まぁそういうあたりに「怖い」変質が出ているということらしい。
翻って、我が家のあり方というのを考えてみると、今後「お節を手作りする」ような方向性というのはやっぱり考えられないし(^^;; 別にそれはどうしても必要なことじゃないとも思う。でも危うい部分というのもあって、それはそれで考えておくといいことがあるんじゃないかという気もするのだ。
というわけで、つづく。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社

「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)