下流の宴のドラマ放映が終わりましたね。
←ドラマを説得力もって作るのって難しいのかな
私は、家の中にいるとあれやこれやと注意力が分散しているので(^^;; 毎週のドラマを見逃さないで、放映終了と同時にフォローしてるなんて滅多にないことなんですが、今回は、こじろうが毎週「今日だよね」といってつけてくれたんでコンスタントに見ることができました。
怖いものみたさというか…こじろうも私も。
それで、途中からどんどん、原作とは違うエピソードが入ってきて、結末は、似ているようで大きく違うものになりました。というわけで、以下の話は結末について言及しますので、今録画してあってまだ見てないから言わないで~という方はスルー推奨です。
(以下、ネタバレ注意)
話は、翔との結婚を認めてもらうために「医学部に入る」宣言をした珠緒が、二年間の猛勉強を経てほんとうに合格したあたりでクライマックスに。しかしそのまま結婚してめでたし(?)にならないところが林真理子ドラマなわけで…
翔がそこで、実際に医学部に入ってここからも猛勉強とハードワークが待っている珠緒に対して、別れようと言い出すところは原作どおり。珠緒や、珠緒の周りにできるであろう友人たちは、フリーターである翔を見下すようになるだろうし、一方、自分としては、がんばる人といっしょにいるのは、自分が責められているような気がして居心地悪いというのが理由で、これまた原作どおり。
そして、翔は(住むところがないので)実家に戻るし、姉の可奈も、エリートのはずの夫が鬱になってしまい子連れで実家に戻ってくる。そうやって家族四人+可奈の子どもが家に揃って終わりになるところはドラマと原作で一致している。
違うのは翔の母、由美子(黒木瞳)の心情で、これは真逆といってもいい。原作のほうでは、翔と可奈の現状を嘆きつつ、子育ての何がいけなかったのかまったくわからないという、まったくこれまでと変わらない由美子でいて、ラストシーンは孫に新たな期待、まっさらな夢を投影するというホラーストーリーにまとまっている(-_-;;
これだと救いがなさすぎてNHKドラマにふさわしくないという話になったのか…
ドラマのほうでは、ラストに来るまでに、幼馴染の「受験のカリスマ」と一緒に、昔住んでいた、取り壊し寸前のアパートを見に行くというシーンや、翔が珠緒に別れを告げるところを目撃してしまうというシーンを織り込み、由美子自身が、自分の考え方のゆがみや、ほころびに気づくという流れになっている。
だから、これまで見下してきた珠緒が実は「努力のできる人」であったことと、それから一方で翔はフリーター生活に安住してまったく変わろうとしないことを認め、そのように育てたのは自分であるという発言までしている。
出戻ってきた二人の子どもといっしょに、質素な食卓を囲みつつ、さばさばしてむしろ楽しげに、元気な様子で、家族も母の変りようにびっくり、というふうに描かれている。
どっちの展開も小説としてありうるものなのだろうとは思うけれど、このように現実をさっぱりと認識したうえで、また明日に向かっていこうとしている(それがまた空回りではあるにしても)由美子というのは、原作の小説とはまったく異質なものだという印象がある。
林真理子の描きたかったものは、やっぱり何が起こっても、現実と乖離した自分の「中流観」を守ろうとしている由美子であり、性懲りも無く他人(=孫)に自分の未来を率いてもらおうとしているホラーな由美子だろう。
それを離れたらいけないとまで言うつもりはないんだけど…ドラマのラストは、由美子がそのように変り、しかしこれだけのどたばたを経て翔は何も変らず、家を提供してくれる彼女がいなくなればこんどは実家に寄宿し、あくまでたんたんとフリーターをしてゲームをして、というところがなんとなくしっくりこない。
期待されたようには(高認を受けて大学へ)行かないにしても、もうちょっと続けていける仕事に変ろうとするとか、祖母への借金を返せるようにだけはがんばるとか(原作では珠緒の母が一括返済したが、ドラマでは翔が返すことになっている)、この大激震のあと何を思ったのかというのがまったくない。なさすぎる。もっとも、そこを変えたらさすがに別の話になってしまうと思ったんだろうけど。
木に竹をついだような感じで終わられてしまった。なんだか不完全燃焼…
にほんブログ村 中高一貫教育 ←ぽちっと応援お願いします
にほんブログ村 ピアノ←こちらでも
にほんブログ村 ヴァイオリン

私は、家の中にいるとあれやこれやと注意力が分散しているので(^^;; 毎週のドラマを見逃さないで、放映終了と同時にフォローしてるなんて滅多にないことなんですが、今回は、こじろうが毎週「今日だよね」といってつけてくれたんでコンスタントに見ることができました。
怖いものみたさというか…こじろうも私も。
それで、途中からどんどん、原作とは違うエピソードが入ってきて、結末は、似ているようで大きく違うものになりました。というわけで、以下の話は結末について言及しますので、今録画してあってまだ見てないから言わないで~という方はスルー推奨です。
(以下、ネタバレ注意)
話は、翔との結婚を認めてもらうために「医学部に入る」宣言をした珠緒が、二年間の猛勉強を経てほんとうに合格したあたりでクライマックスに。しかしそのまま結婚してめでたし(?)にならないところが林真理子ドラマなわけで…
翔がそこで、実際に医学部に入ってここからも猛勉強とハードワークが待っている珠緒に対して、別れようと言い出すところは原作どおり。珠緒や、珠緒の周りにできるであろう友人たちは、フリーターである翔を見下すようになるだろうし、一方、自分としては、がんばる人といっしょにいるのは、自分が責められているような気がして居心地悪いというのが理由で、これまた原作どおり。
そして、翔は(住むところがないので)実家に戻るし、姉の可奈も、エリートのはずの夫が鬱になってしまい子連れで実家に戻ってくる。そうやって家族四人+可奈の子どもが家に揃って終わりになるところはドラマと原作で一致している。
違うのは翔の母、由美子(黒木瞳)の心情で、これは真逆といってもいい。原作のほうでは、翔と可奈の現状を嘆きつつ、子育ての何がいけなかったのかまったくわからないという、まったくこれまでと変わらない由美子でいて、ラストシーンは孫に新たな期待、まっさらな夢を投影するというホラーストーリーにまとまっている(-_-;;
これだと救いがなさすぎてNHKドラマにふさわしくないという話になったのか…
ドラマのほうでは、ラストに来るまでに、幼馴染の「受験のカリスマ」と一緒に、昔住んでいた、取り壊し寸前のアパートを見に行くというシーンや、翔が珠緒に別れを告げるところを目撃してしまうというシーンを織り込み、由美子自身が、自分の考え方のゆがみや、ほころびに気づくという流れになっている。
だから、これまで見下してきた珠緒が実は「努力のできる人」であったことと、それから一方で翔はフリーター生活に安住してまったく変わろうとしないことを認め、そのように育てたのは自分であるという発言までしている。
出戻ってきた二人の子どもといっしょに、質素な食卓を囲みつつ、さばさばしてむしろ楽しげに、元気な様子で、家族も母の変りようにびっくり、というふうに描かれている。
どっちの展開も小説としてありうるものなのだろうとは思うけれど、このように現実をさっぱりと認識したうえで、また明日に向かっていこうとしている(それがまた空回りではあるにしても)由美子というのは、原作の小説とはまったく異質なものだという印象がある。
林真理子の描きたかったものは、やっぱり何が起こっても、現実と乖離した自分の「中流観」を守ろうとしている由美子であり、性懲りも無く他人(=孫)に自分の未来を率いてもらおうとしているホラーな由美子だろう。
それを離れたらいけないとまで言うつもりはないんだけど…ドラマのラストは、由美子がそのように変り、しかしこれだけのどたばたを経て翔は何も変らず、家を提供してくれる彼女がいなくなればこんどは実家に寄宿し、あくまでたんたんとフリーターをしてゲームをして、というところがなんとなくしっくりこない。
期待されたようには(高認を受けて大学へ)行かないにしても、もうちょっと続けていける仕事に変ろうとするとか、祖母への借金を返せるようにだけはがんばるとか(原作では珠緒の母が一括返済したが、ドラマでは翔が返すことになっている)、この大激震のあと何を思ったのかというのがまったくない。なさすぎる。もっとも、そこを変えたらさすがに別の話になってしまうと思ったんだろうけど。
木に竹をついだような感じで終わられてしまった。なんだか不完全燃焼…
にほんブログ村 中高一貫教育 ←ぽちっと応援お願いします
にほんブログ村 ピアノ←こちらでも
にほんブログ村 ヴァイオリン
火曜日だけは22時に家にいるようにしていました。
最終回は、思わぬ展開になりましたが、こんな風にほんとうになるのだろうかと私も少し感じました。母親は母親でぜんぜんかわろうとしないというのは原作者の本来の主張ではという気がいたします。
ぐうたらなフリーターのマイペースさにすこしあこがれました。
由美子自身、努力の人ですよね。でも努力の人が努力して育てた子が、努力のできる人には育たなかったというあたりが、私には人間のおもしろさが感じられてツボでした。
努力の人由美子は、翔ちゃん育ての反省を踏まえて今度は孫育てに心血注ぐのでしょうが、彼女が子育てを自分の掌の中で行おうとする姿勢を変えない限り、多少の変化はあるのかもしれないけどたぶんたいして変わらないことが予測され、ドラマの一見ぬるそうな雰囲気のラスト、原作同様ホラー要素満載かと思いました。
カンペキを目指す専業主婦・由美子の抱える闇は、専業主婦固有の問題ではなく、人が人と関わる時どういう立ち位置でいるか、という生き方の問題であるように思い、そこに安易な正解を持ち出さなかったところに、この脚本家の人を見る温かな目を感じました。
深度に多少の違いはあるにしても、登場人物すべてに感情移入できてしまった自分、年とったなと思いましたけどね
原作との対比、読みごたえありました。ありがとう~~。どんなどんでん返しがくるんだろうと思ってたら、そうきたか~。
ドラマだから(^^;翔に大学に行って欲しいとは絶対思わなかったけど、由美子がまったく受け入れられない種類の、しかし彼が主体的に生きる方向には変わって行って欲しかったな。結局母親は変わらないのね的なホラーはホラーとしてありなんだけど、母が変わって、子どもが変わらないって、むしろNHK的じゃない気がする。翔が相変わらずパラサイトでゲーム三昧、うつ病のご主人放って娘まで出戻りなんて、本当に救えないっていうか、おもしろくもなんともない…。あっ、リアル過ぎて面白くないのか??日本も終わりだな~。
私も久々にはまりました。
翔に何ともイライラしながら、ありえるな~って感じの現実感が恐ろしく、母、由美子も、あそこまででは無いにしろ、どの母親にもあてはまりそうな部分があって、さらにリストラ、転職・・、そのリアル感にはまってしまいました。
由美子の最後のセリフ「人に努力させるのがいかに大変か?」にうなづく自分がおります。
ドラマのラストも、あそこまでプライド貫ぬき、家族にも期待し続けてきた由美子が、もう無理と現状を受け入れた途端180度変わるのは、ありえるな~と思ってます。
女って、母親って強いですからね^^;
ただ、翔だけはちょっと納得できません。あれだけの事があっても何も変わらないのは違うかな~と。
でも翔の要素って、今どきの男の子にありそうですよね?息子も頑張らない男子なので><
ドキドキしながら毎回観てました^^;
由美子が教会で翔と珠緒の会話を立ち聞きした後、「この子はそういう子なんです」とやっと翔を理解したのは納得できましたが、家族4人でたくあんとご飯の場面、こんなに簡単に割り切れる人じゃないでしょ~。翔にだって、あいかわらずグチグチいうでしょ~。これは現実的じゃないなと思いました。
教会で珠緒をフッた翔くんはかっこよかった。でも、そこまでできるのなら、もっといろんなことできる子なのにな~と思いました。
そして昨日、原作とドラマのラストが違うのを会社の同僚に聞きました。そして
「あのお母さんとaniaさん、ダブりましたよ。」
って言われました(←え、うそ)。
「aniaさん、子供に求めすぎですよ。」
だそうです。(ううう。反省)
それと、首尾一貫している(しすぎている)翔がなんとも。。私も安きに流れるタイプですけど(^^;; 安楽な暮らしとか、おしゃれとか、欲とか、いろいろやっぱり気になっちゃうしね。
> たしかにそれではコワすぎて、
はは(^^;;
努力によって得られるものがあるというのはだいたいにおいて真実なんでしょうけど、他人を努力させようとする努力(?)ってのはね…
由美子は専業主婦として描かれていましたが、別段、専業主婦特有の問題の話ではないですね。現に私も(ごほごほ)
> 深度に多少の違いはあるにしても、登場人物すべてに感情移入できてしまった自分
あぁ…いえてます
悪人は出てこないドラマですしね
ふはは(^^;;
そうなの、私も翔が大学行くとかアリエネと思ったんだけど、なにしろばあちゃんから「(この成り行きで)300万を珠緒に払わせるなんて男のすることじゃないよ、いつまでかかっても絶対返しなさい」かなんか言われて、「はい」とそこだけはきっぱりいいお返事の翔くんだから、別ルートで収入を増やしたり安定化させたりする工夫をするのかなとちょっと期待してしまいましたよ。
> 「人に努力させるのがいかに大変か?」
これは日々感じているのですけど、でも別にこれは原作にあった台詞ではないですけどね…
珠緒の合格と二人の結婚を祝うために、珠緒の親や受験のカリスマ先生が由美子の家に集まって飲んでいるシーンで、翔が単独で登場して「珠緒は来ません」というところがありますよね(原作にはない)。
そこで、由美子が二人のずれと破局の必然性について語り「翔は変りません」とまとめるんだけど、その長弁舌を傍で聞きながら一言も口を挟まない、自分では語らない翔ってなんなの、と思います。
その前の別れのシーンで見る翔は、自分を見る目もしっかりしていて、それを表現する言葉も確かなんですもの。なんか同一人物の行動に見えません。