カケラノコトバ

たかあきによる創作文置き場です

何処にもない町並み

2013-10-20 15:05:04 | 即興小説トレーニング
 大概の子どもにとって、世界は目に見えるものが全てだ。
 だから、自分がほんの少し目を離した隙に変貌してしまった世界を認めることが出来ない。

 私がまだ小学生だった頃、家の都合で田舎にある祖父母宅に預けられていた時期がある。
 祖父母はどちらかというと私を持て余し、私も気を使って食事や洗濯など必要最低限以外はなるべく頼らないようにしていた。急な転校だったので友達も出来ず、その頃の私は学校や公立の図書館で借りた本を読んでいるか、祖父母宅のある町並みを一人で散歩して夜までの時間を潰すのが常だった。

 昔は宿場町として賑わっていたという町並みには古い造りの建物が残っていて、道路に面した建物の二階には明かり取りの木戸があり、下半分に手摺りのような黒い柵が設えてあった。何でもお大名の行列を窓の上から見るのは無礼と見なされなかったらしく、そこから行列見物を楽しむ旅人の為だとか。

 そんな町並みだから子ども相手の雑貨屋も、赤茶けた電球の光の下で黒く燻された柱と黄ばんだ白壁が囲む室内に古びた棚が並び、塗り絵やシャボン玉遊び、風船や水鉄砲、それにクジ付きの駄菓子など今から考えるといかにも子供だましな品物が並んでいたが、当時の私は少ないお小遣いを握りしめて店番のおばあちゃんに新しい品物を教えて貰ったり、雑誌の付録が入ったお楽しみクジ袋の中身に一喜一憂していたことを覚えている。

 やがて自分の家に戻った私は数年後、再び祖父母の住む町を訪れた。かつて私が預けられていた祖父母の家は住む人を失って借家となり、町並みも随分と変わっていたが、それでもお祭りの日に出店が並んだ神社や町並みのすぐ側を流れる川の姿は変わらぬままに残っていた。そんなわけで町並みを歩いていると、自分でも忘れていた、かつての記憶が次々に甦ってくるのが判る。いつだって一人で歩いていた学校までの通学路、祖母に頼まれて毎日のように玉子と豆腐を買いに行った雑貨屋。懐かしさと共に商店街が住宅街に取って代わられたとき、私はあの頃通っていた駄菓子屋を見付けられなかったことを思い出した。
 もしかして見過ごしたのだろうか?そんなことを考えながら、小学生の足でも端から端まで歩くのに三十分はかからない町並みを何度か往復してみたが、どうしても駄菓子屋は見付からなかった。

 今でこそ、私が小学生の頃には既に老朽化していたと思われる建物が取り壊され、新しい建物に取って代わられたのだろうと考えることが出来るが、当時の私は何度も何度も同じ道を行ったり来たりしながら、この町並みが本当にかつて自分が暮らしていたことがある空間なのか自信が持てなくなってきた。そして、知っているはずで違う町並みに迷い込んだ自分は、元々いたはずの場所に戻れるのだろうかと。
 いきなりそんな不安に襲われた私は、今度は脇目もふらずに現在の祖父母が住む叔父夫婦の家に逃げ帰った。数年前に建てたと聞かされた叔父夫婦の家は確かに記憶通りの場所に存在したし、祖父母も、叔父夫婦も特に家を出たときと変わりが無く、私は自分がきちんと戻ってこれたのだと実感したのだった。

 ただ、今になって、たまに思うのだ。私はあの時『本当に』きちんと元の世界に戻って来られたのだろうかと。そして、もしあの時、きちんと元の世界に戻って来られなかったとしたら、一体どんな人生を歩むことになっていたのだろうと。
コメント