あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

川越の日枝神社

2011年06月28日 04時06分10秒 | 神社・仏閣
川越の日枝神社は喜多院の山門の近くにあります。そもそもは喜多院の草創時代から境内に祀られ、近江日枝神社を勧請したものといわれます。
トップ画像の右の石柱には<国宝>ってあるんだけどね。奥に見える建物そんなに古くないよね??
でも帰宅後調べたら「本殿は三間社流れ造り、銅板葺き、朱漆塗り。室町末期から江戸初期の朱塗りの華やかな様式をよく残しています。』だそうで…。どこが~??
尚、『現在の赤坂日枝神社は、文明10年(1478)に太田道灌が江戸の地に城を築くに当ってここから江戸城内紅葉山に分祀したことにはじまります。』ん?
突っ込み所満載のような…。江戸城の紅葉山って、ソレ、さっき喜多院で見た徳川家光が産まれた客殿・書院・庫裡の建物があった場所じゃん!それに太田道灌!
太田道灌と言えば、城造りで有名な室町時代の人です。彼が造った城は、岩槻城・川越城・江戸城。ここ川越から江戸に道灌が神社を勧請したのはこのせいか?
WIKIで大田道灌を検索。「岩槻城と川越城(河越城)を築いたのは1457年(異説あり)。んでもって江戸城が完成したのは同じく1457年5月1日だそうです。日枝神社は江戸城の守護として勧請した」って書いてあった。
赤坂の日枝神社。あれですね。訪問したよ~ソレ。あれって、ここから勧請されたものだったのか…。
山王日枝神社の茅の輪設置中(2008年12月21日)の記事そういえば、茅の輪って夏越しの祭で設置する神社が多い。丁度今頃も日枝神社には茅の輪が設置されていることと思います。今年は震災とか原発とか色々悪いことあったから、厄払いに茅の輪をくぐりたいなあ…。話を川越に戻します。
川越の日枝神社はトップ画像の如くしょぼいけど、由来はなかなかなのですね。
次行ってみよう!

成田山川越別院さん。え~と…。マズいような…。何がって、私神田明神さんに参拝してるんですよ。成田山を参拝した人は神田明神を参拝しちゃいけないし、神田明神を参拝する人は成田山を参拝しちゃいけない。というのは常識のハズ。掟を知らない人の為に理由を書くと平将門に由来。
なので、ここは門の外から撮影のみして次行ってみよう!
地図を片手に北上すると、ン?時代を帯びた建物が道路の向こうに見えてきた。
もひとつ。


川越、あなどれん…。なにげに私好みの古建築がそこかしこにあるとはっ!!
うっとりと甘納豆屋さんに入る直前で踏みとどまる。
次っ!次行ってみよう~!!今日の観光はまだまだ先が長いのよ~~~~っ!!

甘い誘惑を振り切って到着したのはかつての川越城の田曲輪門跡地です。画像左奥に見えるのは富士見櫓の跡地。看板発見。
「御嶽神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。
櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりとなっていたと思われる。
今日では木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。
元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応2年(1866)に川越城を測量した時の記録によれば、この富士見櫓は長さ8間3尺(約15メートル)、横8間(約14メートル)あったと記されている。 昭和57年3月」とありました。
周囲にはかつて城の守りだった濠の後が地形にうっすら残ってます。


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