本日、3月18日に開催の同人誌即売会HARU.C.CITY東京に参加します。
会場東京ビッグサイト
サークル名:竹里館出版局(ちくりかんしゅっぱんきょく)
配置:西3ホール ふー35a
開催時間:10:00-15:00
こんにゃくえんまから伝通院へ行くには、善光寺坂を上る道を選択。
ちなみに坂の名前は坂の途中にある善光寺から取ってある。善光寺は慶長7年(1602)の創建で、伝通院の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に改称。従って坂の名前は明治に入ってから付いたらしい。
江戸ってなにげに坂が多いんだよね。ま、鎌倉程じゃないけど。坂を上がっていくと、賑やかなお囃子が聞こえてきた!もしや遂に節分の追儺祭に行き当たったのか?ワクワクしつつ音源を探して足取りも軽い。
む?なぜにここにぽっかりと空間があるのか??
実はこれ…大変意味ある空間でした。空間に隣接する坂上より音が聞こえてくる。
慈眼院・沢蔵司稲荷(じげんいん・たくぞうすいなり)
沢蔵司~?何やらきき覚えのある名前だわ。何故に~~??つーか、どこで??
あ。説明板発見。
「伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和6年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。
「そもそも、余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、長く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう」
と告げて、暁の雲にかくれたという。(『江戸名所図絵』『江戸志』)
そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
『東京名所図絵』には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)洞穴あり」とある。今も霊窟と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。
沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司じゃ稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
また、すぐ前の善行寺坂にムクの老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。
沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り(古川柳)」へえ~へえ~へえ~!!
あ。思い出した。
なんかねえ、この説明板に書いてあるそば屋が毎朝「お初」のそばを供えている。という下り、これって現在もやってるようです。つーか、いつかこのニュース映像を見た事あるもん。
そして、沢蔵司が宿るというムクの木ですが、善光寺坂の途中に二またに分かれている道が残ってます。もちろん間に大きな木がありました。文京区っていろいろ残ってますねえ。
トップ画像は慈眼寺の本堂ですが、よ~く見ると、正面に白い狐の彫り物がなされてます。

境内も稲荷神社の拵えがあちこちに。
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さて、次こそ伝通院~~!!
会場東京ビッグサイト
サークル名:竹里館出版局(ちくりかんしゅっぱんきょく)
配置:西3ホール ふー35a
開催時間:10:00-15:00
こんにゃくえんまから伝通院へ行くには、善光寺坂を上る道を選択。
ちなみに坂の名前は坂の途中にある善光寺から取ってある。善光寺は慶長7年(1602)の創建で、伝通院の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に改称。従って坂の名前は明治に入ってから付いたらしい。
江戸ってなにげに坂が多いんだよね。ま、鎌倉程じゃないけど。坂を上がっていくと、賑やかなお囃子が聞こえてきた!もしや遂に節分の追儺祭に行き当たったのか?ワクワクしつつ音源を探して足取りも軽い。
む?なぜにここにぽっかりと空間があるのか??
実はこれ…大変意味ある空間でした。空間に隣接する坂上より音が聞こえてくる。
慈眼院・沢蔵司稲荷(じげんいん・たくぞうすいなり)
沢蔵司~?何やらきき覚えのある名前だわ。何故に~~??つーか、どこで??
あ。説明板発見。
「伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和6年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。
「そもそも、余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、長く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう」
と告げて、暁の雲にかくれたという。(『江戸名所図絵』『江戸志』)
そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
『東京名所図絵』には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)洞穴あり」とある。今も霊窟と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。
沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司じゃ稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
また、すぐ前の善行寺坂にムクの老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。
沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り(古川柳)」へえ~へえ~へえ~!!
あ。思い出した。
なんかねえ、この説明板に書いてあるそば屋が毎朝「お初」のそばを供えている。という下り、これって現在もやってるようです。つーか、いつかこのニュース映像を見た事あるもん。
そして、沢蔵司が宿るというムクの木ですが、善光寺坂の途中に二またに分かれている道が残ってます。もちろん間に大きな木がありました。文京区っていろいろ残ってますねえ。
トップ画像は慈眼寺の本堂ですが、よ~く見ると、正面に白い狐の彫り物がなされてます。



境内も稲荷神社の拵えがあちこちに。

さて、次こそ伝通院~~!!