湯島天神は出入り口が多いと常々思ってました。だって、境内狭いのに入り口が4つもあるんですよ。んで、鳥居も複数あるんだよね。
そんな鳥居の一つが、春日通りに向かってあります。神明鳥居です。でかいです。その鳥居を出て春日通りの信号を渡り本郷の方へ歩いてすぐ、麟祥院があります。
院?
これはもしやせんでも伝通院と同じパターンかも?
そうなんですよ。お寺の名前が歴史的に有名な人の法名の場合ってあるんですよね。ちなみに前出の伝通院は、徳川家康のお母さんの於大の方の法名が伝通院でして、そこから寺の名前も伝通院となった場合です。
では麟祥院はどうなのか?
麟祥院さんも歴史上の有名人の法名から来てるんですよ。その人とは??ってブログの記事でバレバレですね。そう春日局です。
文京区が立てた看板発見。『春日局…幼名は福。父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり。正勝・正定・正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)三代将軍徳川家光の乳母として召し出され3000石を賜りました。
家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の精度の確立に尽くしたことは有名です。
寛永5年家光公25歳の折り、疱瘡(ほうそう)にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が快復しました。そのため局は身の終わるまで鍼灸薬餌を一切用いなかったという事です。
寛永6年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。同9年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永20年(1643)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。」だそうで。
ん~~。少し説明不足!
調べました!いつものWIKIで。
寛永元年(1624)、春日局の隠棲場所として創建。はじめ、報恩山天沢寺と称したが。春日局の法号をもって麟祥院と号するようになった。
宗派:臨済宗妙心寺派
開基:春日局
もう一つ、麟祥院は東洋大学の前身である「哲学館」が創立された場所でもあります。
さて。そもそも麟祥院は春日局の隠棲場所だったのですが、彼女が亡くなった後、春日の局の墓が立てられます。ってなことで、現在麟祥院を訪れる人の目的は、春日局の墓を拝見すること!な訳で…。
さ~てと?どこだろう??
実は、行けばすぐ分かると思ったんだけどね、麟祥院の墓域は思ったより広かったのね。し~か~も~。古い時代の墓石があちこちに点在してます。こりゃあ参ったなあ~?と思ってたら、案内板がありました!
ありがたいが…。案内板は卒塔婆ってどない??
………。
気づかなかった!(自分に言い聞かせる)
さ~てと??
んん??
稲葉氏の墓発見!あ。あっちにも稲葉氏のお墓がある~~。
稲葉氏は春日局の旦那さん&息子達です。家光の乳母になる時に離縁されましたが、春日局のおかげで出世してるんだよね。つーかぁ。旦那の稲葉正成って豊臣秀吉の家臣で、秀吉の命じられ小早川秀秋の家臣となった人。まあ関が原の戦いでは徳川方について、小早川秀秋を寝返らせた張本人とも言えるので、徳川の天下になっても肩身が狭いって程じゃなかったんだろうけど、だからといって大名って…。出世し過ぎでしょう~。
ちなみに、息子の稲葉正勝と言えば、相模小田原藩の初代藩主ですよ。どう考えても、春日局のおかげですよね?ってWIKIで検索かけたら、息子の稲葉正勝は家光の小性になってました。が、彼は38歳で死去。小田原藩は稲葉正勝の次男が二代藩主となってます。
更に~!!春日局の三男稲葉正則は、徳川家光と対立した徳川忠長に仕えてました。忠長と言えばあれですよ。
家光と3代将軍の座を争ったあげく、蟄居ー改易ー自害と追い込まれた人物です。家光といえば片っ端からリストラした人でもあります。なのに正則は助命されてるんですねえ。
あ。それた。稲葉氏だった。
だから~春日局の眠る麟祥院に所縁の人びとのお墓があるのは自然な流れってことです。
さて、春日局のお墓に到着しました。
あ。歴史ツアーの人びと発見。やはり語りたくなるよね。去年のNHK大河ドラマ『江』でも登場してましたからね。
ちなみに、春日局のお墓&稲葉一族の墓は小田原の紹太寺にもあります。紹太寺樹齢300年というしだれ桜があります。もう10日もすると満開かも?
右へ行くか左へ行くか(2010年4月29日)の記事長興山紹太寺を紹介してます。初訪問の方はぜひこちらの記事に目を通して下さい。楽に登るか、正式の参道を行くかの分かれ道の画像を掲載しています。
入生田のしだれ桜(2010年4月12日)の記事しだれ桜の撮影ポイントがわかります。この桜の樹形の一番良い姿を眺めるには、脇の坂を登らななきゃなんですが、下から見上げて満足して下山する人も多いんだよね。再訪する人は脇の坂を登ってしだれ桜を見下ろすんだけどね。
さて、この墓石なんかおかしいよね?
実は、墓石の上部に穴があけられてます。これは死んだ後も江戸四方が見渡せるようにってことなんだって!どんだけ家光が好きだったんだろう…。
なので、春日局の墓の扉は…。
徳川の三葉葵の御紋がついております。
ちなみに、右側の家紋は、稲葉氏の「折敷に三」つーか「隅切り角に三」でございます。
あ。そういえば麟祥院って、春日通りに面して立ってます。もちろん春日通りの名前も春日の局に由来するハズです。
ん?数画の局の左手にあるお墓も立派!つーか、これ、正直春日局のお墓より立派!誰のだろう~~。気になるう~~。
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あ~。夏目友人帳と男子高校生の日常のアニメが終わってしまった~。今期一番楽しみにしてるアニメだったのに…。この2つのアニメは放送時間が連続してるから、見るのも連続で見てました。共に次期アニメ化をお待ちします!出来れば、次も連続放送でお願いします。
そんな鳥居の一つが、春日通りに向かってあります。神明鳥居です。でかいです。その鳥居を出て春日通りの信号を渡り本郷の方へ歩いてすぐ、麟祥院があります。
院?
これはもしやせんでも伝通院と同じパターンかも?
そうなんですよ。お寺の名前が歴史的に有名な人の法名の場合ってあるんですよね。ちなみに前出の伝通院は、徳川家康のお母さんの於大の方の法名が伝通院でして、そこから寺の名前も伝通院となった場合です。
では麟祥院はどうなのか?
麟祥院さんも歴史上の有名人の法名から来てるんですよ。その人とは??ってブログの記事でバレバレですね。そう春日局です。
文京区が立てた看板発見。『春日局…幼名は福。父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり。正勝・正定・正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)三代将軍徳川家光の乳母として召し出され3000石を賜りました。
家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の精度の確立に尽くしたことは有名です。
寛永5年家光公25歳の折り、疱瘡(ほうそう)にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が快復しました。そのため局は身の終わるまで鍼灸薬餌を一切用いなかったという事です。
寛永6年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。同9年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永20年(1643)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。」だそうで。
ん~~。少し説明不足!
調べました!いつものWIKIで。
寛永元年(1624)、春日局の隠棲場所として創建。はじめ、報恩山天沢寺と称したが。春日局の法号をもって麟祥院と号するようになった。
宗派:臨済宗妙心寺派
開基:春日局
もう一つ、麟祥院は東洋大学の前身である「哲学館」が創立された場所でもあります。
さて。そもそも麟祥院は春日局の隠棲場所だったのですが、彼女が亡くなった後、春日の局の墓が立てられます。ってなことで、現在麟祥院を訪れる人の目的は、春日局の墓を拝見すること!な訳で…。
さ~てと?どこだろう??
実は、行けばすぐ分かると思ったんだけどね、麟祥院の墓域は思ったより広かったのね。し~か~も~。古い時代の墓石があちこちに点在してます。こりゃあ参ったなあ~?と思ってたら、案内板がありました!
ありがたいが…。案内板は卒塔婆ってどない??
………。
気づかなかった!(自分に言い聞かせる)
さ~てと??
んん??
稲葉氏の墓発見!あ。あっちにも稲葉氏のお墓がある~~。
稲葉氏は春日局の旦那さん&息子達です。家光の乳母になる時に離縁されましたが、春日局のおかげで出世してるんだよね。つーかぁ。旦那の稲葉正成って豊臣秀吉の家臣で、秀吉の命じられ小早川秀秋の家臣となった人。まあ関が原の戦いでは徳川方について、小早川秀秋を寝返らせた張本人とも言えるので、徳川の天下になっても肩身が狭いって程じゃなかったんだろうけど、だからといって大名って…。出世し過ぎでしょう~。
ちなみに、息子の稲葉正勝と言えば、相模小田原藩の初代藩主ですよ。どう考えても、春日局のおかげですよね?ってWIKIで検索かけたら、息子の稲葉正勝は家光の小性になってました。が、彼は38歳で死去。小田原藩は稲葉正勝の次男が二代藩主となってます。
更に~!!春日局の三男稲葉正則は、徳川家光と対立した徳川忠長に仕えてました。忠長と言えばあれですよ。
家光と3代将軍の座を争ったあげく、蟄居ー改易ー自害と追い込まれた人物です。家光といえば片っ端からリストラした人でもあります。なのに正則は助命されてるんですねえ。
あ。それた。稲葉氏だった。
だから~春日局の眠る麟祥院に所縁の人びとのお墓があるのは自然な流れってことです。
さて、春日局のお墓に到着しました。
あ。歴史ツアーの人びと発見。やはり語りたくなるよね。去年のNHK大河ドラマ『江』でも登場してましたからね。
ちなみに、春日局のお墓&稲葉一族の墓は小田原の紹太寺にもあります。紹太寺樹齢300年というしだれ桜があります。もう10日もすると満開かも?
右へ行くか左へ行くか(2010年4月29日)の記事長興山紹太寺を紹介してます。初訪問の方はぜひこちらの記事に目を通して下さい。楽に登るか、正式の参道を行くかの分かれ道の画像を掲載しています。
入生田のしだれ桜(2010年4月12日)の記事しだれ桜の撮影ポイントがわかります。この桜の樹形の一番良い姿を眺めるには、脇の坂を登らななきゃなんですが、下から見上げて満足して下山する人も多いんだよね。再訪する人は脇の坂を登ってしだれ桜を見下ろすんだけどね。
さて、この墓石なんかおかしいよね?
実は、墓石の上部に穴があけられてます。これは死んだ後も江戸四方が見渡せるようにってことなんだって!どんだけ家光が好きだったんだろう…。
なので、春日局の墓の扉は…。
徳川の三葉葵の御紋がついております。
ちなみに、右側の家紋は、稲葉氏の「折敷に三」つーか「隅切り角に三」でございます。
あ。そういえば麟祥院って、春日通りに面して立ってます。もちろん春日通りの名前も春日の局に由来するハズです。
ん?数画の局の左手にあるお墓も立派!つーか、これ、正直春日局のお墓より立派!誰のだろう~~。気になるう~~。
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あ~。夏目友人帳と男子高校生の日常のアニメが終わってしまった~。今期一番楽しみにしてるアニメだったのに…。この2つのアニメは放送時間が連続してるから、見るのも連続で見てました。共に次期アニメ化をお待ちします!出来れば、次も連続放送でお願いします。