伝通院は徳川家康の生母於大の方の法名伝通院殿から来てるのですが、徳川家の人びとの墓も一杯あります。
有名どころを紹介しますね。つーか、池上本門寺でも思い知ったんですが、墓所の所在を知ってる人と回らないと、特定はなかなかなかなか。
気づいたんですが、墓石には法名を書いてあるので、前もって法名を調べておいて特定するのが早道のようです。ま。現地で気づいても遅いんですが…。
さて、トップ画像のお墓。こちらは徳川二代将軍徳川秀忠を父に、お江を母に持ち、豊臣秀頼に輿入れした千姫の墓です。
史実をなぞると、彼女は慶長8年(1603)7歳で秀頼と結婚。慶長20年(1615)の大阪夏の陣で、祖父・徳川家康の命により落城する大阪城から救出。
元和2年(1616)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚。翌元和3年(1617)本多家が播磨姫路に移封になる。」
ってことは、姫路城が修繕に入る前に見た千姫の人形、おすすめじっくりコース(2010年1月19日)の記事姫路城西の丸に暮らしていた千姫の化粧櫓の画像を確認出来ます。
これって彼女だったのか~。あ。それた。続き続き。
「寛永3年(1626)に夫・本多忠刻、母・お江も死去し、娘勝姫と共に本多家を出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は竹橋の邸で暮らす。
正保元年(1644)弟・徳川家光の側室夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになる。<家光の厄年に産まれて来る子に災厄がかからないように、江戸城でなく天樹院の元で出産した。ちなみに、この時産まれた綱重は、後に徳川第6代将軍徳川家宣の父です>
彼女はNHKの大河ドラマの常連の登場人物ですね。去年の『江』でも出て来たし~。つーか、売れっ子子役の芦田愛菜ちゃん~「家政婦のミタ」でブレークした忽那汐里ちゃんの豪華リレーが演じておった姫ですよ。
一説には、美貌で名高いお市の方に容貌が似て、とても美しい姫だったそうです。また夫を2人共に亡くしており、父母(徳川秀忠・江姫)にとてもかわいがれていたとかとか。逸話が多い女性です。
根津権現(2009年11月16日)の記事現在根津神社は、かつて徳川綱重の屋敷でした。6代将軍徳川家宣がこの屋敷で生まれました。その時の胎盤が埋められた場所が残っています。
在りし日は壮麗な建物だったんでしょうねえ~。でも現存してるのはこれです。残念無念。
こんな所にも寛永寺の灯籠が(2011年5月18日)の記事こちらの記事で、三代将軍徳川家光の側室お振の方(自証院)の霊室・慶安5年(1652)に作られたものを確認出来ます。時代も近いし、かつてはこんなのが墓石の上に建ってたと思うんだよね。格から言っても、家光の側室より、秀忠とお江の娘の千姫の方が上だし。
明日も伝通院の墓所巡り続きます。
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有名どころを紹介しますね。つーか、池上本門寺でも思い知ったんですが、墓所の所在を知ってる人と回らないと、特定はなかなかなかなか。
気づいたんですが、墓石には法名を書いてあるので、前もって法名を調べておいて特定するのが早道のようです。ま。現地で気づいても遅いんですが…。
さて、トップ画像のお墓。こちらは徳川二代将軍徳川秀忠を父に、お江を母に持ち、豊臣秀頼に輿入れした千姫の墓です。
史実をなぞると、彼女は慶長8年(1603)7歳で秀頼と結婚。慶長20年(1615)の大阪夏の陣で、祖父・徳川家康の命により落城する大阪城から救出。
元和2年(1616)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚。翌元和3年(1617)本多家が播磨姫路に移封になる。」
ってことは、姫路城が修繕に入る前に見た千姫の人形、おすすめじっくりコース(2010年1月19日)の記事姫路城西の丸に暮らしていた千姫の化粧櫓の画像を確認出来ます。
これって彼女だったのか~。あ。それた。続き続き。
「寛永3年(1626)に夫・本多忠刻、母・お江も死去し、娘勝姫と共に本多家を出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は竹橋の邸で暮らす。
正保元年(1644)弟・徳川家光の側室夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになる。<家光の厄年に産まれて来る子に災厄がかからないように、江戸城でなく天樹院の元で出産した。ちなみに、この時産まれた綱重は、後に徳川第6代将軍徳川家宣の父です>
彼女はNHKの大河ドラマの常連の登場人物ですね。去年の『江』でも出て来たし~。つーか、売れっ子子役の芦田愛菜ちゃん~「家政婦のミタ」でブレークした忽那汐里ちゃんの豪華リレーが演じておった姫ですよ。
一説には、美貌で名高いお市の方に容貌が似て、とても美しい姫だったそうです。また夫を2人共に亡くしており、父母(徳川秀忠・江姫)にとてもかわいがれていたとかとか。逸話が多い女性です。
根津権現(2009年11月16日)の記事現在根津神社は、かつて徳川綱重の屋敷でした。6代将軍徳川家宣がこの屋敷で生まれました。その時の胎盤が埋められた場所が残っています。
在りし日は壮麗な建物だったんでしょうねえ~。でも現存してるのはこれです。残念無念。
こんな所にも寛永寺の灯籠が(2011年5月18日)の記事こちらの記事で、三代将軍徳川家光の側室お振の方(自証院)の霊室・慶安5年(1652)に作られたものを確認出来ます。時代も近いし、かつてはこんなのが墓石の上に建ってたと思うんだよね。格から言っても、家光の側室より、秀忠とお江の娘の千姫の方が上だし。
明日も伝通院の墓所巡り続きます。
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