2019年3月9日、東京メトロパスで行く巨木探訪、2本目は南北線目黒駅から徒歩数分の誕生八幡神社のイチョウです。ここは東京都品川区上大崎2−13−36です。だから最寄駅が目黒とは気づかす、東急ワンデーオープンチケットを使って巨木探訪した時に気づけませんでした。だってさ、品川区だったんだもの。で、地図で所在地を入力してびっくり!そこは目黒駅の側だったのです!ってな事で、目黒駅の正面口から東へ約200メートル。目黒通りの向こうに目的の木が見えた。本当にあったよ〜。だってさ、周りはビルばかりなんだ。巨木があると知って探さないと気づかない!

説明板発見:誕生八幡神社のイチョウ(1)(2) 昭和53年2月14日指定
本樹は、昭和45年に移転移築された八幡神社の本殿入口に向かって両側に位置している。これまで道路拡張により3度も移植されたが、よく耐えて旺盛な樹勢をみせている。
本社は、文明年間(1469−1487)筑前(福岡県)宇美八幡より勧請された。
1)は本殿に向かって右に位置し、幹周り3、25メートル。樹高14、5メートル。
2)は左側に位置し、幹周り2,71メートル。樹高11、5メートル。
共に推定樹齢250〜300年である。
双樹とも、目黒通りに面し、ビルに囲まれた中で、樹姿・樹勢ともに良く貴重である。 昭和63年3月15日 品川区教育委員会
境内は狭い。階段下に賽銭箱があります。まずは参拝。続いてイチョウの鑑賞。
西側(本殿左)
東側(本殿右)
同じく東(本殿右)のイチョウを目黒通りに面し正面から撮影。
境内は目黒通りに面して所在し、歩道の端まで下がって撮影してますが、イチョウの大きさを感じれるいい感じの距離を確保できません。

なんとか構図を工夫して、2本が並ぶように撮影した。ふと、八幡神社の右側に通路が奥に伸びてるのに気付き見に行く。

レトロ建物のお寺さんでした。説明板発見:高野山真言宗 永峯山瑠璃光寺 高福院
当院は、もと高野山金剛峯寺の塔頭の一院でありました。弘法大師は高野山を開創された鎮守として各処に弁天さまを祀られました。高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天さまが宝舟を引いてきて山徒を救い給うたことから、その高福にちなんで高福院が建立されました。
現在の品川区上大崎のあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町という町名でした。白金方面からこの地にいたる目黒通りは、馬の背のようにだらだらと長い尾根の道で、それで永峯と言われ、目黒不動尊への参詣道にあたることから茶屋が六軒あったので、そのように呼ばれたと言われています。
寛永(1624−44)のころ、松平讃岐守候は、当地に下屋敷(現在の自然教育園、庭園美術館)を造営されるにあたり讃岐(香川県)が生んだ偉人である弘法大師のお寺を建立しようと高野山に要請しました。そこで高祖院の良尊和尚が、高福院の寺名と舟引の弁天さまをもって東上したのが当院の起源であると伝えられています。やがて大名家の家中の方々が檀家となり、さらには町の人々の墓所となって栄えていたということです。
明和9年(1772)江戸市中を焼き払った大火のために、一切が灰燼に帰してしまった。
現在の本堂は、天保の改革を断行した水野忠邦が千駄ヶ谷の隠田の屋敷内に自ら勤念を凝らしておられた、今に残る棟木によれば天保15年(1844)に移築したお堂です。
明治の廃仏毀釈の時代、当院は疲弊しました。(後略)
去年の12月、目黒の自然教育編の巨木を見物にきました。
目黒・自然教育園は巨木だらけ!(2018年12月19日)の記事 こちらの記事に、松平讃岐守の下屋敷時代の老巨松の画像があります。
自然教育園を訪問した時、すぐそばの誕生八幡神社を知らなかったのです。いや、正確には名前と住所と現在地が私の中で繋がってなかったんですが。
私ら夫婦はどちらも香川県出身なので、今日ここを知り訪れることができて嬉しく思い、高福院さんにも参拝しました。ついでに、あまりに敷地ぎりぎりにイチョウがあって、イチョウの全体図の撮影ができなかったので、目黒通りの反対側へ移動。そして撮影したのがトップ画像です。この時、撮影してる私の背後に、うどん屋があるのにいち早くダンナが気づきました。うどん屋は「こんぴら茶屋」。讃岐うどんのお店です。これも縁だとかけうどんを食べていこうか?とお店の前のメニューを見てびっくり!確かかけうどんが500円超え!!地元ではこの半額かな?やっぱさ〜、白金だからさ、ほとんど所場代だよな〜。とうどんを見送る。ま、時間もまだ早いしな。ってな事で時刻は10時1分。目黒駅に戻ります。次は白金高輪じゃ!でも次の目的の木は所在地の特定ができてないんじゃ!調べても調べてもはっきりしないんじゃ〜〜!!どうなるのか!!

説明板発見:誕生八幡神社のイチョウ(1)(2) 昭和53年2月14日指定
本樹は、昭和45年に移転移築された八幡神社の本殿入口に向かって両側に位置している。これまで道路拡張により3度も移植されたが、よく耐えて旺盛な樹勢をみせている。
本社は、文明年間(1469−1487)筑前(福岡県)宇美八幡より勧請された。
1)は本殿に向かって右に位置し、幹周り3、25メートル。樹高14、5メートル。
2)は左側に位置し、幹周り2,71メートル。樹高11、5メートル。
共に推定樹齢250〜300年である。
双樹とも、目黒通りに面し、ビルに囲まれた中で、樹姿・樹勢ともに良く貴重である。 昭和63年3月15日 品川区教育委員会
境内は狭い。階段下に賽銭箱があります。まずは参拝。続いてイチョウの鑑賞。



境内は目黒通りに面して所在し、歩道の端まで下がって撮影してますが、イチョウの大きさを感じれるいい感じの距離を確保できません。

なんとか構図を工夫して、2本が並ぶように撮影した。ふと、八幡神社の右側に通路が奥に伸びてるのに気付き見に行く。

レトロ建物のお寺さんでした。説明板発見:高野山真言宗 永峯山瑠璃光寺 高福院
当院は、もと高野山金剛峯寺の塔頭の一院でありました。弘法大師は高野山を開創された鎮守として各処に弁天さまを祀られました。高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天さまが宝舟を引いてきて山徒を救い給うたことから、その高福にちなんで高福院が建立されました。
現在の品川区上大崎のあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町という町名でした。白金方面からこの地にいたる目黒通りは、馬の背のようにだらだらと長い尾根の道で、それで永峯と言われ、目黒不動尊への参詣道にあたることから茶屋が六軒あったので、そのように呼ばれたと言われています。
寛永(1624−44)のころ、松平讃岐守候は、当地に下屋敷(現在の自然教育園、庭園美術館)を造営されるにあたり讃岐(香川県)が生んだ偉人である弘法大師のお寺を建立しようと高野山に要請しました。そこで高祖院の良尊和尚が、高福院の寺名と舟引の弁天さまをもって東上したのが当院の起源であると伝えられています。やがて大名家の家中の方々が檀家となり、さらには町の人々の墓所となって栄えていたということです。
明和9年(1772)江戸市中を焼き払った大火のために、一切が灰燼に帰してしまった。
現在の本堂は、天保の改革を断行した水野忠邦が千駄ヶ谷の隠田の屋敷内に自ら勤念を凝らしておられた、今に残る棟木によれば天保15年(1844)に移築したお堂です。
明治の廃仏毀釈の時代、当院は疲弊しました。(後略)
去年の12月、目黒の自然教育編の巨木を見物にきました。
目黒・自然教育園は巨木だらけ!(2018年12月19日)の記事 こちらの記事に、松平讃岐守の下屋敷時代の老巨松の画像があります。
自然教育園を訪問した時、すぐそばの誕生八幡神社を知らなかったのです。いや、正確には名前と住所と現在地が私の中で繋がってなかったんですが。
私ら夫婦はどちらも香川県出身なので、今日ここを知り訪れることができて嬉しく思い、高福院さんにも参拝しました。ついでに、あまりに敷地ぎりぎりにイチョウがあって、イチョウの全体図の撮影ができなかったので、目黒通りの反対側へ移動。そして撮影したのがトップ画像です。この時、撮影してる私の背後に、うどん屋があるのにいち早くダンナが気づきました。うどん屋は「こんぴら茶屋」。讃岐うどんのお店です。これも縁だとかけうどんを食べていこうか?とお店の前のメニューを見てびっくり!確かかけうどんが500円超え!!地元ではこの半額かな?やっぱさ〜、白金だからさ、ほとんど所場代だよな〜。とうどんを見送る。ま、時間もまだ早いしな。ってな事で時刻は10時1分。目黒駅に戻ります。次は白金高輪じゃ!でも次の目的の木は所在地の特定ができてないんじゃ!調べても調べてもはっきりしないんじゃ〜〜!!どうなるのか!!