管啓次郎
『斜線の旅』★★
旅にあり、旅を否定しつつ、さらなる旅をめざす
フィジーの夕方
初めて訪れる土地は、どこもどこか本当らしくない。
メラネシア系フィジー人とインド系フィジー人
砂糖黍
その旅は征服の旅、侵略の旅、探究の旅、抵抗の旅、強いられた旅、無根拠な旅、放埒な楽しみの旅、いろいろな性格のものでありうるだろう。
いまもぼくらの旅のすべてが、その背後に多くの論理的な問題を隠しつつ、見たことのないものを見たい、思ってもみなかった何かを知りたい、見て、知って、自分のものにしたいとう気持ちに立って、構想され、実されてゆく。
どこの土地でも、日没前の三十分間の光には、何ともいえない美しさがある。
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湖とハリケーン
移動は認識を強制する。
いずれにしろ旅をめぐる言葉と写真の大部分は、すでにどこかで見た画像/どこかで聞いた話をぼそぼそとくりかえして終わる。
究極的には、人があるときにある場所にいるということは、それだけで途方もない偶然であり、あらゆる可能な展開につながってゆく稜線の小径なのだと思う。
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ヌクアロファ
「何を見ても何かを思い出す」
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最後の木の島
「持つ者」と「持たざる者」がそのまま「食う者」と「食われる者」に
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オタゴ半島への旅
極周回的
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タンガタ・フェヌア(土地の人々)
われわれの心は言葉に飼いならされ、名前の呪縛に安心する。
海洋性気候。まるで船の上で暮らしているかのように、頭上を雲がかなりの速度で流れ、一日に何度も天気が変わる。荒い、荒々しい。どしゃ降りになると風もまた容赦なく、家をとりかこむ濃密な木々が踊り、吠え、地面に叩きつけられ、裏の斜面を流れる小さな川が滝のように白く水をほとばしらせる。どんよりとした暗く分厚い雨雲の下、世界全体が灰色だ。
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青森ノート
青い森は、青い海でも青空でもある。
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見えないけれどそこにいる、かれら
ヒグマは「日」グマ、太陽熊
土地に根ざして生きるということは、種の区別などなく、土地が与えてくれるおなじものを食べて生きてゆくということでもある。
萱野茂博士
人はつねに手持ちの知識をもって風景にむかう以上、おなじ風景をまえにしても見えるものはまるでちがう。無垢の目はない、それはそう。
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「世界写真」について
言探り
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ほら、まるで生きているみたいに死んでいる
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ここがもし聖地でなければどこが
シンクロニシティ
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もしアメリカがなかったら、いまは
知っていることは、知りうる総和に比べれば取るに足らないほど小さく、どんなかたちであれある全体(たとえば「世界」、たとえば「アメリカ」)を仮想するとき、われわれは漠然としたイメージに立って、判断し、穴だらけのおしゃべりをくりひろげるにすぎない。
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モーテルと地図帳
地図帳が手軽な精神分析を提供する。
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金沢で会う寒山、拾得
詩とは言葉のエコノミーの問題であり、ごく限られた言葉の配列にいくつもの時間と空間が重ねて投影されることにより、読むものの想像力に他ではありえないかたちの運動が強いられる。そこに跳躍が生まれ、光が生じる。
フローラ(植物相)ファウナ(動物相)
空の高さを測れないように、人の背中に貼りつく過去の遠さも測ることができない。
東香山大乗寺
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島と鳥、鳥と果実
ティリティリ・マタンギ
「風たちが集まる場所」「香しい風の神聖な隠れ家」
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その島へ、この海を越えて
ペンテコステ島の「飛び降り儀礼」をバンジー・ジャンプとして洗練させたのはニュージーランドなのだから、
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桜、花、はじまり、小さな光
アリゾナでは雨が降らない。サボテンが点在する。何もない、何もない。空は青い。土地はすべて空白。岩と砂、風の風景
ピンホール、たったひとつの真円の針の穴。多くの事物に反射した多方面からやってくる光が、そこを通る。潜在的には、世界のすべての風景に、この小さな穴を通過してゆく可能性があるわけだ。
写真のはじまりにあったのは、十世紀にイスラム世界の物理学者イブン・アルハイサムが最初に製作したというカメラ・オプスクラ。やがて十九世紀以後に展開した写真術では、光はレンズというモノを通過するようになった。ガラスは水滴を模倣するようにしてレンズというかたちを手に入れ、そのかたちが個々の光に進路を指示した。けれどもピンホールには、そのモノがない。それはヒトが画像を手に入れたちきのもっともプリミティヴな形式。
時間がたしかに流れたということの痕跡には、どんなものがあるのだろう。たとえば、錆。たとえば、皺。たとえば、花。金属は酸化し錆をつけ、人の顔は生命という燃焼の果てに老化し皺をつけ、植物は生まれ育ち枯れてゆくことのサイクルの中でハナという時間の先端を、極点を、動物たちに見せてくれる。この時間の先端という観点から見るならば、錆もまた花であり、皺もまた花だ。
一見どれほど荒涼としていようとも、砂漠は空白ではなく充満し、生命にみちている。
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島旅ひとつ、また
島は人を。何かの出発点まで引き戻す。引き戻してくれる。
島は狭い。
島が島である秘密の核心は、その狭さの感覚。
島は遠い。
島は遅い。
島は(じつは)開かれている。
守りべき正統性と、それを変更してゆく自在さが、いずれも見られるのだ。
そして最後に、島の決定的な要素。島では海が近い!
島に住むということは海の側につくことであり、海の論理を学びながら生きることであり、海が与えてくれるものに頼って生きるということだ。
ポリネシア、そこはこの地球上でもっとも広い面積に拡散した、最大の文化圏なのだ。
地図を見たり、どこかで見かけて一枚の写真にとりつかれたり、何かの文章の一節が妙に気にかかったりして、無根拠に出発する愚者の一部族。
ただ自分を先導するばかげた観念の泡を、行けるところまで追ってみるだけだ。
ラパ・ヌイのスペイン語はイスラ・デ・パスクアという。復活祭の島。それが英訳されたイースター島として日本では知られている。
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ユートピアからパペエテ
「ユートピア」とまりどこでもない場所
「美術って何かの役に立つんですかあ」
何度でも答えよう。生きるために役に立つよ。覚醒するための役に立つよ。旅が意識を変えるのとまったくおなじように、芸術作品が意識を変える。良いほうにも、悪いほうにも変えうる。つまりそれだけ、強い体験だということ。
肝心なのは、自分が自分の意識をどうするかということだけ。
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ラトロンガ横断、その他の気まぐれ
タヒチ語では挨拶の言葉は「イアオラナ」だ。イアオラナ、こんにちは。ゴーギャンだって知っていた。
「クック諸島」は英語名でも、「ラトロンガ」の名はマオリ語。
旅は無根拠なのがいい、というか、根拠があるつもりでいてもじつはだいたい無根拠なものではないかと思う。
われわれは誰でも何の目的がなくても世界のどこに行ってもいい、という気持ちもある。そもそも無益の旅がかなうかかなわないか自体、単なる可能性の分析の積み重ねでしかない。「自分」という輪郭を一歩出た外に茫洋とひろがる「世界」はすべてが異邦であり、その異邦の泉から何を汲みとってくるかは、行き先が隣町でであろうが一万キロのかなたであろうが、あくまでもその人ごとの一回性の体験だ。そして旅は、ともかく出発してしまえば、あとは偶然まかせ。それを運と呼ぼうが呼ぶまいが、結局は偶然が、きみの行く手をどんどん変えてゆく。出会いを、左右する。
興味がある人は、グーグルの画像検索でAitutakiを調べてみてください。
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武漢
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冬のフランス
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テ・マエヴァ・ヌイ
「爪と骨以外、何も残さない」
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マオリ島の片隅で
(いつかどこかへつづく)