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2017-06-24 | 司馬遼太郎



司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 13 壱岐・対馬の道』★★


http://publications.asahi.com/kaidou/13/index.shtml



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厳原(いづはらと読)



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九州島の北方、朝鮮にむかい、波濤を浴びてうかんでいるこの二つの島は、古くから「国」の処遇をうけてきた。上代、国郡の制ができたとき、壱岐、対馬、それに多褹(種子島)といういずれも小さな島が、それぞれ一国として遇せられたのは、九州が畿内政権にとって特別な地域だったことを想像させる。

明治四年の廃藩置県で分国が廃せられるまで「国」であった。



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系図というのは、あてにならない。すでに平安末期から武家が自分の家系を偽装したり粉飾したりするのがふつうになっていた。しかし例外として、社家の系図がある。とくに『群書類従』に出ている古い社家の家系は半ば信用していい。



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また系図・・(笑)
でもこれは初耳








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『わがアリランの歌』
この本には、悲惨とか悲痛、悲運、悲哀あるいは悲恋といったたぐいの、辞書のその項のあらゆる熟語があてはまりそうな状況と事態に満ちている。



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“人事文化”も、農と漁とはちがう。

漁業は、太古以来ごく最近まで命がけのしごとであった。技術もむずかしいが、個々の才能によって獲れ高がちがうことは農の比ではない。農は勤勉でさえあえれば、ある程度なりたつ。勤勉は農の徳とされた。

農業は投機のようなものだといわれるほどに年々の気候に左右されるし、手間数もかかるが、しかし基本的には人間が作物を製作するのではなく、自然が稲や麦を伸ばしてゆくのである。あとは村内の人間関係に、多くの時間と神経を、農民たちはつかう。

人事文化の基本は、言葉遣いの劉重さや他人への気くばりだが、漁民が板子一枚下は地獄という波の上にあって魚をとるとき、くそ丁寧な敬語などつかいあっていられないのである。



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人類という普遍的な概念からいえば、民族というのは具体的なだけに、なまぐさい。
同一民族とはやや似た顔つきや体格を共有し、日常のマナーを共有している。大ざっぱな意味で、歴史も共有している。



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杜そのものが神という思想は、古代東アジアにはごく普遍的にひろがっていたにちがいない。



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日本では赤飯はハレの日に供されるが、上古、神々が食べた赤米の名残りであると説く人が多い。



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今日お友達に「司馬遼太郎読んでるOL(今は死語?)見たことない」と苦笑された。
「・・・・・・・・。」

よいじゃなぃよいじゃなぃ
お次はどこかなNO.14




























沖縄からクラブ触っていない・・(反省)
たまにはお勉強を ね。
    結構みたなぁ



ドローとフェイド

「ミートですね」

ボールとの距離は目で見ない「身体のセンサー」で感じるもの!

「わたしはわたし」

「基本の風を信じて」

アドレスで高い所を見るのではなくフラットだと思って前方の斜面に目線を置く

距離のあるバンカーショット
アドレスでハンドダウンしてフェースを開く

目玉はサンドではなくウェッジ

グッと踏ん張ったところのパワーポジション

自分のターゲットを明確に意識するべき「よいイメージ」「思い込み」

しっかり振り抜く「ゆるめないようなショット」

「グリーンに近づくにつれてお金が転がってる(笑)」


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