角幡唯介
『空白の五マイル
チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』★★★★★
一気に読破
読ませるなぁ・・飾ることのない人柄、ツアンポーに対する熱意が伝わる。
たぐいまれない才能をも感じる。
生と死
後日書き直したいとあったけど、そうしてしまうことによって消えてしまうものがある。
胸がどきどきした文章力
第三章 若きカヌーイストの死
さすが元記者さん(アグルーカでもそう思った)
わたしも同じく死にかけたことがある。
ただそれは自ら挑んだことに対してじゃなく、交通事故という不慮の出来事で・・
「あの時 死んでいたかもしれない」
そこで子供ながらに思ったことはあるけど、重みはなく、その後の人生をひたすら生きて今に至る。
人生の折り返し地点に立つ。
こちら気になる『探検家、40歳の事情』
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リスクがあるからこそ、冒険という行為の中には、生きている意味を感じさせてくれる瞬間が存在している。あらゆる人間にとっての最大の関心事は、自分は何のために生きているのか、いい人生とは何かという点に収斂される。いい人生とは何だろう。私たちは常に別々の方法論、アプローチで、それぞれに目的をかかげていい人生を希求している。カネ、オンナ、権力、健康、ささやかな幸せ、心の平安、子供の健全な発育・・・・・・、現実的には別々のかたちをとりつつも、本質的に求めているものは同じだ。いい人生。死が人間にとって最大のリスクなのは、
そうした人生のすべてを奪ってしまうからだ。その死のリスクを覚悟してわざわざ危険な行為をしている冒険者は、命がすり切れそうなその瞬間の中に生きることの象徴的な意味があることを嗅ぎ取っている。
冒険とは生きることの全人類的な意味を説明しうる、極限的に単純化された図式なのではないだろうか。
とはいえ究極の部分は誰も答えることはできない。冒険の瞬間に存在する何が、そうした意味をもたらしてくれるか。なぜ命の危険を冒してツアンポー峡谷を目指したのか、その問いに対して万人に納得してもらえる答えを、私自身まだ用意することはできない。そこはまだ空白のまま残っている。しかしツアンポー峡谷における単独行が、生と死のはざまにおいて、私に生きている意味をささやきかけたことは事実だ。
冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。
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