先日 新聞の訃報欄に かぜ耕士氏 76歳…とあるのを見て 「えッ!かぜさ
ん、死んだんや・・・」と唸ってしまった。かぜさんと親しげに呼んではいて
も訃報欄に名前が掲載される有名人だから 当然面識などありません。こちら
は届きにくい電波をラジオの方向をあちこちに向けて聴いていたリスナーとい
うだけで、それももう40年以上前の昭和の頃の話です。当時は このような
ネット検索など便利なものがないので ラジオから聞こえる優しいかぜさんの
声だけでどんな人なのか想像するしかなかった。いまはもう ラジオの番組名
は忘れていたけど 訃報欄にちょこんと≪深夜ラジオ番組「たむたむたいむ」
で若者の悩みに耳を傾ける兄貴分として人気・・・≫とあり、「たむたむたい
むぅ~」と再度唸った。そうだ、たしかそんな番組名だった。ハガキからの
相談や電話でもあったのか相談者の「もしもしかぜさん・・」と不安げな、で
も聞いてもらいたい気持ちが私にもわかるような フレーズは数年に一度、
フラッシュバックで思い出す。あれは、やはり かぜさんの 雰囲気からくる
ものだったのかな?と何も相談したわけではないけど 相談というより話を
聞いてもらいたい人 の中にいるような存在なんだろう。訃報欄にはかぜさん
は、永六輔さんに学び、1960年代後半から活動。中村八大さんが作曲し
NHKの歌番組から生まれた『涙をこえて』は合唱曲として歌い継がれている、
と書かれていた。『涙をこえて』もうっすらと記憶がある。あれはNHKの
わたしより5,6歳上の世代が好むようなおにーさん、おねーさんが歌い踊って
いた≪ステージ101≫か102…どっちか、スタジオだったかな・・・長姉が
観ていたのを 横で聴いていたのだが、50人くらいの若者が日本のポップスや
外国の歌をよく歌っていた。そのなかに『涙をこえて』もあった。メンバーの
なかに 美形の男性がいて藤島 新 という名前だったとおもう、が よく
『愛の休日』を歌っていた。ミッシェル・ポルナレフが歌った歌だけど、
♬ホリディズぉーホリデイーと 私の耳には聞こえていたのだが・・・
そののち このメンバーに太田裕美さんも参加していたそうだ・・・彼女も
唄って踊ったのか?とその話を聞いたとき 「木綿のハンカチーフ」での
イメージから?と思ったのだけど。かぜさんを検索してみたら ちょっと
想像と違う感じだった。イメージ 伊勢正三さんみたいだと勝手に見た目を
思っていたのだ。深夜番組を当時中学生~高校生の時に そんなに一生懸命
聞いていたはずはない。中3の後半なら クラブ活動も終了していたから
夜遅くても支障はないし、高校時代もそれこそ ボォーっと過ごしていたので
ラジオをベッドの中で聴いていた。コッキーポップをたまに聞いていたから
その前の時間帯にかぜさんの≪たむたむたいむ≫が放送されていたと検索した
ら出ていたので、その流れだったのでしょう。かぜさんの声が優しく 番組も
良かったので 次姉に教えたことを覚えている。姉もラジオを聞いて「かぜ
耕士って 名前 もいいよね」と言っていた。本名は 山田功 さんという
どうしてかぜ耕士と名乗ったか・・。放送作家・作詞家とあります。
どんな人生だったんだろう、きっとあの時代、かぜさんの番組で力づけられた
若者がたくさんいたんだろうな・・・と思った。
今朝早朝のラジオNHKラジオ深夜便のなかで NHKの歌番組特集『ステージ
101』の紹介をしていた。たまたま 偶然 朝の三時台に目が覚めつけっぱな
しのラジオから「涙をこえて」が聞こえてきた。そうそう、この歌声、
当時のテレビ画面を思い出させてくれる。アナウンサーは 番組の構成や
当時の様子を話していたが、このステージ101が のちに『レッツゴー!ヤン
グ』となっていくと言っていた。レッツゴーなんて いまさらこっぱずかしい
ネーミングだな(笑) ステージ101 のほうがまだおしゃれじゃん
ラジオの中からは ステージ101メンバーの塩見大二郎さん・・という名前が
出た。そうそう、いたいた 先の藤島新さんと真逆な雰囲気だった。何人かで
『若い旅人』という曲を歌うのが流れてきた。この歌 聞いたことがある・・
健康的な歌詞に 私は 「くぅ~、これは昭和だ~」と感動したのでした。
これから また私はどこかで「かぜさん・・・かぜ耕士さん・・」とつぶやく
時が来ると思う。日本の小さな村の中の一人の少女に なにかを与えてくれた
そんな気がする。支離滅裂だな・・・
このところ 芸能界の訃報が続いて 関りはないけど テレビのこちらでみて
いた私たちにも 少なからずの悲しみをもたらしました。残念です