時は移り人もものも変わっていく

2016年10月11日 | Weblog


あれもやりたい、こっちのことも関心があるなどと、好奇心が旺盛な人がいます。私もその一人です。あっちこっちに気があるので、材木屋などと言われるそうです。材木屋には木が多いですからね。発音が同じなので、気=木とたとえて言うのだそうです。

今はあまり言われないですね。あまりどころか、殆ど聞かれません。シャレにも流行があるようです。漢字もそうですね。洒落とは今はあまり書きませんね。いまカタカナを使いましたが、カタカナ表記が多いのでしょうか。

 
                        おとといの朝焼け

昔の人は言葉遊びが好きだったようです。「何か用か九日十日」、「蟻が鯛(ありがたい)なら芋虫や鯨」、「嘘を築地の御門跡」(門跡である西本願寺の別院が築地にあることで)・・・・・・。などなど、今ではピンと来ない言い回しも多くなってしまっているようですが。

 

 

このように、乾燥させるために作った稲を引っ掛けるものを、稲木(いなき)と言うのだそうです。ハザと言う地域が多いようですが、私の地域ではオダと言います。語源は分かりません。稲をひっかけることを、おだ掛けにする、と言います。

さて、話は戻って

今ではピンと来ないということで思い出したのですが、今は親たちが読んだり聞いてきた童話が子どもたちに通じないことが多いのだそうです。
たとえば、囲炉裏など。囲炉裏のある家は殆どありませんね。

童謡だってそうですね。「カラスと一緒に帰りましょう~」なんて歌ったって、カラスなんてのは今は目の敵(かたき)になっている存在です。

 

何か、昔のカラスと今は違うような気がしてなりません。カラスは遠くにいたと思っていたのですが、今はすぐそこ、電線にとまっていたり、フェンスにとまっていて、なかなか逃げなかったり、威嚇さえしてくるような態度を取るときがあります。

 

朝日新聞に夏目漱石の『吾輩は猫である』が連載されていますが、中学・高校生には分からない言葉や事物がかなりあるでしょうね。

名作と言われる小説など、本道に時代が経つにつれて、大変読みづらいものになって行くことは確かだと思います。
物が変わる。言葉も言われなくなる。聞いたことの無い言葉は意味が分からない。見たことも使った事も無い道具は名前も利用法も分からない。ということはどんどん生じてくると思います。