歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“村川堅固”の別荘は屋根が“堅固”

2008年04月21日 | 建物の話し
先週の続きです。

お寺のような、神社のような“子の神大黒天”の階段を下り、自転車を置いた所に戻りました。

途中で60代の男性とすれ違ったのですが、かなり辛そうな表情でした、休み休み、ゆっくりとした足取りで登って行きました。


足腰に御利益があるのでお詣りに来たのでしょうか、それにしても、参拝の度にこの階段を何度も登り下りしていると、結果として、足腰は間違いなく強化されます。

さて次は?と、ペットポドルのお茶を一口飲んで、自転車に跨ったがり数㍍行った処で、道端の足元に案内板を発見。


700㍍行くと“志賀直哉邸跡”、950㍍行くと“杉村楚人冠碑”とあります。直哉は知っていますが、「楚人冠」と云う方は、いったいどんな人何のでしょうか?

先ずは700㍍先の“直哉邸跡”を目指しペダルを漕いだ途端、何やら“見学施設らしき建物”が、丘の中腹に見えたのです。


少し戻って、入り口に架かった案内板を見ると“旧村川別荘公開中”とあり、“入場料金”には触れていないので“無料”のようです。


“旧東京帝国大学教授”の“村川さんの別荘”だったようです。現在は市の施設になっているようです。


それで、これを読んでいたらて「・・・景勝地と知られた子の神(現延寿院)境内に隣接して・・・」とあるのです。

これからすると、子の神大黒天は“古い名称”で、現在の名称は“延寿院”と云うことになります。となりの何処にも延寿院の文字は有りませんでした。

ますます判らなくなった“子の神大黒天”? いや。“延寿院”?です。
     

兎に角、村川さんの別荘を拝見する事にします。建物は二軒あり、こちらが“元我孫子宿本陣離れ”を解体移築した母屋です。


大正10年(1921年)の移築です。新しい建物を移築する事はあまり有りませんから、建物は明治時代のものかも知れません。

最初に“本陣離れ”との記述からのイメージと、現物の母屋とはかなり落差があります。“本陣”の建物ではなく、あくまでも本陣の“離れ”なのです。

見た目は、ふつうで、何処にでもありそうな、古い木造平屋建ての、田舎の民家と云った感じです。

こちらが新館です。見た目は、“ふつう”ではなく、かなり変わっています。


先ず眼に付くのが“屋根”です。かなり大げさな屋根です。入母屋造りで銅板張りです。

屋根の造りは、どう見ても“神社仏閣”です。かなり“冗談好き”な方と思ったのですが、職業が帝大の教授で、名前が“堅固”ですから、かなり本気で建てたのかも知れません。

それでは、内部の見学です。

ボランティアのガイドさんが居て説明してくれるそうです。

さぁ、どんな方が?、どんなガイドを? してくれるのか、楽しみです。


それでは、また明日。


コメント
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