昨日の続きです。
さぁ、これから、弘経寺の見物とお詣りを致します。先ずは、石畳の参道から本堂を眺めます。そこそこの趣で、それなりの手入れがされているようです。
徳川家康の孫娘である千姫(1597~1666)の墓がある寺にしては、予想外にかなり質素な佇まい。
本堂の屋根は銅板葺き、かなり最近の建物です。
案内板を見ますと、応永21年(1414年)の開基で、その後は、いろいろあって、“了学上人(1549~1634)”により再興されたそうです。
その了学上人が家康、秀忠、家光の三代にわたり厚遇され、“関東十八壇林”の一つとして、多くの僧がここで仏教の修行をしていたそうです。
本堂、山門、鐘楼が昭和歩58年に水海道市の指定文化財となったそうです。でも、しかし、山門も鐘楼も現在はありませんし、本堂も新しいのです。
この説明板が建てられた後に、山門も、鐘楼も、本堂も、全て消滅し、その後、本堂だけが再建され、山門、鐘楼は先ほどの“勧進立て札”で寄進を募っている最中と、云うことなのでしょう。
それにしても、この説明板は、材質も、様式も、かなり新しいタイプのものです。10数年~20数年前ぐらいと推測します。と云う事は、最近になって、山門、鐘楼、本堂が消滅したものと考えられます。
徳川三百年の厚遇の時代が終わり、明治、大正、昭和、平成と世は移ろい、弘経寺は、かなり厳しい状況の中、第二の再興を待っているのでしょう。
真言宗の開祖、弘法大師も見守っています。
こんなお堂も、
そして、この杉の大木。
見上げると、首が痛くなるります。樹高33㍍、幹囲7.53㍍、“来迎杉”と云い、市の天然記念物だそうです。案内板では“樹齢”には触れていません。
私の“勝手な推定”では、樹高、幹囲から樹齢は600年位かも?と、思っております。と、云う事は、寺の開基時に植えられ、その後の栄枯盛衰をじっと見つめていた事になります。
600有余年、いろいろな事があったのです。しばし、思いを巡らしつつ、首を曲げつつ、杉を見上げていたのであります。
最近ですね。この本堂は、
向拝の彫り物。
このような、
よく見かける、
様式です。
飾り金具も新しいです。
さぁ、境内、本堂の見学と参拝を済ませ、いよいよ、次回は千姫のお墓です。
それでは、また明日。
さぁ、これから、弘経寺の見物とお詣りを致します。先ずは、石畳の参道から本堂を眺めます。そこそこの趣で、それなりの手入れがされているようです。
徳川家康の孫娘である千姫(1597~1666)の墓がある寺にしては、予想外にかなり質素な佇まい。
本堂の屋根は銅板葺き、かなり最近の建物です。
案内板を見ますと、応永21年(1414年)の開基で、その後は、いろいろあって、“了学上人(1549~1634)”により再興されたそうです。
その了学上人が家康、秀忠、家光の三代にわたり厚遇され、“関東十八壇林”の一つとして、多くの僧がここで仏教の修行をしていたそうです。
本堂、山門、鐘楼が昭和歩58年に水海道市の指定文化財となったそうです。でも、しかし、山門も鐘楼も現在はありませんし、本堂も新しいのです。
この説明板が建てられた後に、山門も、鐘楼も、本堂も、全て消滅し、その後、本堂だけが再建され、山門、鐘楼は先ほどの“勧進立て札”で寄進を募っている最中と、云うことなのでしょう。
それにしても、この説明板は、材質も、様式も、かなり新しいタイプのものです。10数年~20数年前ぐらいと推測します。と云う事は、最近になって、山門、鐘楼、本堂が消滅したものと考えられます。
徳川三百年の厚遇の時代が終わり、明治、大正、昭和、平成と世は移ろい、弘経寺は、かなり厳しい状況の中、第二の再興を待っているのでしょう。
真言宗の開祖、弘法大師も見守っています。
こんなお堂も、
そして、この杉の大木。
見上げると、首が痛くなるります。樹高33㍍、幹囲7.53㍍、“来迎杉”と云い、市の天然記念物だそうです。案内板では“樹齢”には触れていません。
私の“勝手な推定”では、樹高、幹囲から樹齢は600年位かも?と、思っております。と、云う事は、寺の開基時に植えられ、その後の栄枯盛衰をじっと見つめていた事になります。
600有余年、いろいろな事があったのです。しばし、思いを巡らしつつ、首を曲げつつ、杉を見上げていたのであります。
最近ですね。この本堂は、
向拝の彫り物。
このような、
よく見かける、
様式です。
飾り金具も新しいです。
さぁ、境内、本堂の見学と参拝を済ませ、いよいよ、次回は千姫のお墓です。
それでは、また明日。