The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
テレビ・ドラマ“歸國”を見て
いつまで経っても 8月下旬に至っても暑い、暑い・・・。この暑さで元々無い、思考力がさらに衰える。この夏は本当に終わるのだろうか。
という訳で、このブログも もう少し お休みしたいとの甘えも出てくるのだが、それでは 読者に見捨てられる原因になる。真面目に対処しなければならない、と思い直して再開。
それにしても、取上げるべきテーマは 私の頭に湧いてこない。無印良品で買った、頭を冷やす冷媒付きヘッド・ギアをはめてはいるが、一向に思いつかない。
そのような中で 先々週 ボーっとテレビを見ていて、TBSが 次のような事前PRしていた“終戦ドラマスペシャル・歸國”に大いに期待し見てしまった。
“戦後10年目の日本人と、戦後60余年たった現在の日本人の生き方、心情は、それこそ極端に変わってしまった。戦後10年目に帰還した英霊は、日本の復興を喜んだかもしれないが、あれよあれよという間に、経済と科学文明の中で己を見失って狂奔している今の日本人の姿を見たら、一体、彼らは何を想うのか。怒りと悲しみと絶望の中で、ただ唖然と立ち尽くすのではあるまいか。”
大いに期待したのは、“ドラマのTBS”が当代随一の脚本家・倉本聰(以下敬称略)を起用して制作したというから どのように 英霊達が現代の世相を批判し、するどく抉るのか、それが、我が頭脳に ヘッド・ギアの冷媒以上の刺激をどのように与えるか、と期待したからだ。
その想定も 振るっている。“8月15日、終戦記念日の深夜。静まり返った東京駅のホームに、ダイヤには記されていない1台の軍用列車が到着した。そこに乗っていたのは、60余年前のあの戦争中、南の海で玉砕し、そのまま海に沈んだ英霊たちだった。彼らの目的は、平和になった故郷を目撃すること。そして、かの海にまだ漂う数多の魂に、その現状を伝えることだ。永年夢見た帰国の時。故郷のために死んだ彼らは、今の日本に何を見たのか……。”
ところが、まず、見始めて、やたら CMが入ったのには閉口させられた。気分が乗ってきたらCMなのだ。TBSはどの程度 気合を入れて制作・放映しているのか、といぶかしい思いからスタートした。
やがて、英霊に 現代の首相が靖国参拝しないことを批判させている場面が出てきて 少々 まいってしまった。靖国問題への現代日本人への批判は あの程度では内容が無く、軽い。靖国問題は 現代日本にとって、そんなに軽いものではなく、単純な問題でもない。今年は閣僚も参拝しなかったが、それには様々な背景と理由がある。
この件に関して、私には 大いに疑問に思っていることがある。それは、よく右寄りのオピニオン・リーダーと思しき人々は、あの“英霊”のように 日本の首相や閣僚が 靖国参拝をしないことを批判するが、天皇陛下が参拝なさらないことを批判しているのを聞いたことがない。これが不思議なのだ。靖国神社は、本来 “朝敵”への戦いに従事して残念にも戦死した将兵の御霊を祭るための神社だ。そこへ、陛下が 全くお出ましにならないのは 何よりも“深い理由がある”からだ。そこには、まさに当事者であられた昭和天皇の強い ご決意があったと言われる。そこには 日本を不利に陥れる外交・政治問題が含まれているから それを憂慮なさっておられたと思われる。天皇は 政治的に中立であるべきで、しかも 日本を不利に陥れるような行為は慎むべきだと ご認識なさっておいでだったのだろう。今上陛下は 昭和天皇の “強いご意志”を 踏襲なさっておられる。昭和から現代にいたる靖国事情は変化していないからだ。首相や閣僚が 靖国参拝をしないことを批判する者は、この「陛下の“強いご意志”」にそって、その障害を取り除く作業をした上で、なお問題が解決しないのならそれを批判するべきだが、一向にそういう改善策を提案していない。それは 私には無責任な姿に見えるのだ。
こういった 複雑な問題を このドラマは 感情的に簡単に片付けてしまっている。
さらに、ビートたけしの演ずる上等兵の甥・石坂浩二が勤務する財務研究所などとやらで、ディーリング・ルームのようなものが出てくるが、政府機関のアドヴァイザーと民間のトレーダーとの区別が出来ていないのではないかと疑わせる。このディーリング・ルームのような研究所で、石坂浩二は 政府にアドバイスするために昼夜を分かたず忙しく仕事をする“重要人物”の想定となっているが、実際の政府機関で このような活動をしている機関や人物は居るのだろうか。ドラマや小説には このような現実に全くありもしない機能の機関や人物を登場させると その作品がいかにも安っぽく見えてしまうものだが、作家は きちんと現実を調査・取材したのだろうか。現実を知った上でそれらしい、想定をするというのが常道のはずだが、このシナリオ制作は 全くの手抜きだ。政府機関のアドヴァイザーで“非常に多忙”であることを強調し過ぎて、設定環境を不自然にしてしまうのはあまりにも稚拙だ。
真面目な音楽家だった英霊(小栗旬)に その恋人で盲目になってしまった元小学校教諭(八千草薫)は “今の子供は携帯にかまけて歌を歌わなくなった。”と嘆いて見せている。しかし、現実には 日本の大半の小中学生は携帯電話を所持して登校することは余程のことが無い限り、校則で禁止されているはずだ。作家・倉本は ここでも現実を良く知らないのではないか。世の中の実態を知らずして、一体 現代日本の現実の何を批判しようと言うのか。
現代日本の子供達の問題は“いじめ”だし、それによる自殺だ。子供達の自殺の多い社会は異常だ。社会的には子供への親の虐待が大問題になっている。ここにこそ、現代日本人と日本社会の精神的病理がある。都市自治体が未成熟、未確立の一方、地域社会や共同体の崩壊と、個人の孤立化による精神的荒廃が問題の一端なのだ。おそらく、戦前に比べて 個々の分をわきまえた矜持の喪失も 大きいのではないかと思うが、この点への言及は全く無かった。
この点、倉本は 戦前の社会と現代を見比べて どのように分析しているのだろうか。ドラマ的には こういった最も 肝心な問題を一切 無視している。倉本は、おそらく、何の見識も知見も無く 空っぽではないかと思われる。
だが、むしろ この問題一点に絞って作った方が ドラマらしく良かっただろう。そういう点で、このドラマは総花的過ぎ、一つ一つの問題が 浅薄に扱われ過ぎている。作品としては ピンボケで 全くの駄作だ。
長渕剛 演じる部隊長を 死地に追いやる命令をした上司の将軍の懊悩も 実に軽薄な印象だ。人生には複雑な事情があり、それが思いもよらない形で、重要な公的決断に影を落とすものだが、そういったところを描ききるのも こういったドラマの醍醐味だと思われる。ところが そうした背景は無く、単に勇気のないバカ将軍であったと描いている。浅薄な筋書きだ。
そして、何より違和感を感じたのが、登場した人物というか霊の中に、英霊になれなかったという魂が居たことだ。同じ目線で 戦いに従事し斃れたにもかかわらず、霊魂の間に格差を設ける設定になっている。戦前の軍人中心の度し難い発想を未だに引きずっているのだ。
倉本は 10歳で終戦を迎えているようだが、“一つの時代の小さな証人として遺しておかねばと思い、書き下ろした”などと言っている。しかし、同じような“小さな証人”だった野坂昭如は このようなスタンスで戦争を描いてはいない。倉本は 戦争下の子供時代をそれなりに幸せに過ごしたのではないか。いわば強者の立場で ある意味歪んだ戦争感を 遺そうとしているように思える。繊細さに欠け、真実を 巧妙に歪めて誤魔化しているにもかかわらず、僭越にも“生き証人”を自称するのは 社会に戦争への誤ったイメージを撒き散らすばかりである。
配役にも問題があった。“若い” はずの大宮上等兵がビートたけしで良かったのだろうか。石坂浩二の演技も取って付けたようだった。長渕剛の演技も 見られたものではなかった。特に、長渕は 倉本氏が出演依頼した、というが 酷いしゃべり方であり、酷い演技の歩き方だった。
倉本は 演技指導のための私塾を北海道で開催しているのではなかったのか。その学校で 今までどのような“演技指導”をしてきたのだろうか。確かに そこから出た有力俳優は乏しいという“実績”はあるようだ。四半世紀もこのような教育を施してきて、有力な人物を輩出できていないというのは、優秀な才能を潰している可能性もあると見て良いのではないか。これは言い過ぎか。
だが、さらに驚いたことに、こんな酷いドラマを どうやら若い俳優を使って、舞台で “歸國”と題して延々公演しているというのは 一体どういう神経なのだろうか。
とにかく、薄っぺらい“現代日本への批判”に 大いにがっかりさせられた。事前の宣伝文句に全く不似合いの愚にも付かない駄作だ。見るに耐えない。
何のことはない、“一般人が 抱いていそうなイメージ”を、“お偉い作家”が おこがましくも書いたものなのだろう。要するに 大衆受けを狙ったドラマを作ろうとしたが、人々の人生の真実を描くという覚悟には欠ける いわば“通俗的”以下の内容であった。倉本聰の作品を 見たのは、このドラマが始めてだったが、最近、別のテレビ番組で見た、浅田次郎の小説作りに対する態度とは 格段に落ちる印象だ。現実を きちんと知らず、調査・取材もしない態度は 正に語るに落ちる。そして、むしろ 現代のオチャラケ番組の氾濫の気風を助長させるような倉本氏の番組制作態度こそ 現代日本の批判されるべき対象ではないのか。このような劇作家が 何故 人気があり、その世界でのドンであり続けられるのか 私は 全く理解できない。
このように語るに落ちるようなことを このブログに取上げて読者には申し訳なかったが、“見てしまった”自分のバカさ加減に感情の赴くままに 取上げてしまった。失礼を お許しいただきたい。
だが、単なる時間潰しの駄作を見ることも 鑑賞眼を養うには 必要なことなのかも知れない。とにかく、今後は倉本のドラマは 真面目には見ないことにした。
という訳で、このブログも もう少し お休みしたいとの甘えも出てくるのだが、それでは 読者に見捨てられる原因になる。真面目に対処しなければならない、と思い直して再開。
それにしても、取上げるべきテーマは 私の頭に湧いてこない。無印良品で買った、頭を冷やす冷媒付きヘッド・ギアをはめてはいるが、一向に思いつかない。
そのような中で 先々週 ボーっとテレビを見ていて、TBSが 次のような事前PRしていた“終戦ドラマスペシャル・歸國”に大いに期待し見てしまった。
“戦後10年目の日本人と、戦後60余年たった現在の日本人の生き方、心情は、それこそ極端に変わってしまった。戦後10年目に帰還した英霊は、日本の復興を喜んだかもしれないが、あれよあれよという間に、経済と科学文明の中で己を見失って狂奔している今の日本人の姿を見たら、一体、彼らは何を想うのか。怒りと悲しみと絶望の中で、ただ唖然と立ち尽くすのではあるまいか。”
大いに期待したのは、“ドラマのTBS”が当代随一の脚本家・倉本聰(以下敬称略)を起用して制作したというから どのように 英霊達が現代の世相を批判し、するどく抉るのか、それが、我が頭脳に ヘッド・ギアの冷媒以上の刺激をどのように与えるか、と期待したからだ。
その想定も 振るっている。“8月15日、終戦記念日の深夜。静まり返った東京駅のホームに、ダイヤには記されていない1台の軍用列車が到着した。そこに乗っていたのは、60余年前のあの戦争中、南の海で玉砕し、そのまま海に沈んだ英霊たちだった。彼らの目的は、平和になった故郷を目撃すること。そして、かの海にまだ漂う数多の魂に、その現状を伝えることだ。永年夢見た帰国の時。故郷のために死んだ彼らは、今の日本に何を見たのか……。”
ところが、まず、見始めて、やたら CMが入ったのには閉口させられた。気分が乗ってきたらCMなのだ。TBSはどの程度 気合を入れて制作・放映しているのか、といぶかしい思いからスタートした。
やがて、英霊に 現代の首相が靖国参拝しないことを批判させている場面が出てきて 少々 まいってしまった。靖国問題への現代日本人への批判は あの程度では内容が無く、軽い。靖国問題は 現代日本にとって、そんなに軽いものではなく、単純な問題でもない。今年は閣僚も参拝しなかったが、それには様々な背景と理由がある。
この件に関して、私には 大いに疑問に思っていることがある。それは、よく右寄りのオピニオン・リーダーと思しき人々は、あの“英霊”のように 日本の首相や閣僚が 靖国参拝をしないことを批判するが、天皇陛下が参拝なさらないことを批判しているのを聞いたことがない。これが不思議なのだ。靖国神社は、本来 “朝敵”への戦いに従事して残念にも戦死した将兵の御霊を祭るための神社だ。そこへ、陛下が 全くお出ましにならないのは 何よりも“深い理由がある”からだ。そこには、まさに当事者であられた昭和天皇の強い ご決意があったと言われる。そこには 日本を不利に陥れる外交・政治問題が含まれているから それを憂慮なさっておられたと思われる。天皇は 政治的に中立であるべきで、しかも 日本を不利に陥れるような行為は慎むべきだと ご認識なさっておいでだったのだろう。今上陛下は 昭和天皇の “強いご意志”を 踏襲なさっておられる。昭和から現代にいたる靖国事情は変化していないからだ。首相や閣僚が 靖国参拝をしないことを批判する者は、この「陛下の“強いご意志”」にそって、その障害を取り除く作業をした上で、なお問題が解決しないのならそれを批判するべきだが、一向にそういう改善策を提案していない。それは 私には無責任な姿に見えるのだ。
こういった 複雑な問題を このドラマは 感情的に簡単に片付けてしまっている。
さらに、ビートたけしの演ずる上等兵の甥・石坂浩二が勤務する財務研究所などとやらで、ディーリング・ルームのようなものが出てくるが、政府機関のアドヴァイザーと民間のトレーダーとの区別が出来ていないのではないかと疑わせる。このディーリング・ルームのような研究所で、石坂浩二は 政府にアドバイスするために昼夜を分かたず忙しく仕事をする“重要人物”の想定となっているが、実際の政府機関で このような活動をしている機関や人物は居るのだろうか。ドラマや小説には このような現実に全くありもしない機能の機関や人物を登場させると その作品がいかにも安っぽく見えてしまうものだが、作家は きちんと現実を調査・取材したのだろうか。現実を知った上でそれらしい、想定をするというのが常道のはずだが、このシナリオ制作は 全くの手抜きだ。政府機関のアドヴァイザーで“非常に多忙”であることを強調し過ぎて、設定環境を不自然にしてしまうのはあまりにも稚拙だ。
真面目な音楽家だった英霊(小栗旬)に その恋人で盲目になってしまった元小学校教諭(八千草薫)は “今の子供は携帯にかまけて歌を歌わなくなった。”と嘆いて見せている。しかし、現実には 日本の大半の小中学生は携帯電話を所持して登校することは余程のことが無い限り、校則で禁止されているはずだ。作家・倉本は ここでも現実を良く知らないのではないか。世の中の実態を知らずして、一体 現代日本の現実の何を批判しようと言うのか。
現代日本の子供達の問題は“いじめ”だし、それによる自殺だ。子供達の自殺の多い社会は異常だ。社会的には子供への親の虐待が大問題になっている。ここにこそ、現代日本人と日本社会の精神的病理がある。都市自治体が未成熟、未確立の一方、地域社会や共同体の崩壊と、個人の孤立化による精神的荒廃が問題の一端なのだ。おそらく、戦前に比べて 個々の分をわきまえた矜持の喪失も 大きいのではないかと思うが、この点への言及は全く無かった。
この点、倉本は 戦前の社会と現代を見比べて どのように分析しているのだろうか。ドラマ的には こういった最も 肝心な問題を一切 無視している。倉本は、おそらく、何の見識も知見も無く 空っぽではないかと思われる。
だが、むしろ この問題一点に絞って作った方が ドラマらしく良かっただろう。そういう点で、このドラマは総花的過ぎ、一つ一つの問題が 浅薄に扱われ過ぎている。作品としては ピンボケで 全くの駄作だ。
長渕剛 演じる部隊長を 死地に追いやる命令をした上司の将軍の懊悩も 実に軽薄な印象だ。人生には複雑な事情があり、それが思いもよらない形で、重要な公的決断に影を落とすものだが、そういったところを描ききるのも こういったドラマの醍醐味だと思われる。ところが そうした背景は無く、単に勇気のないバカ将軍であったと描いている。浅薄な筋書きだ。
そして、何より違和感を感じたのが、登場した人物というか霊の中に、英霊になれなかったという魂が居たことだ。同じ目線で 戦いに従事し斃れたにもかかわらず、霊魂の間に格差を設ける設定になっている。戦前の軍人中心の度し難い発想を未だに引きずっているのだ。
倉本は 10歳で終戦を迎えているようだが、“一つの時代の小さな証人として遺しておかねばと思い、書き下ろした”などと言っている。しかし、同じような“小さな証人”だった野坂昭如は このようなスタンスで戦争を描いてはいない。倉本は 戦争下の子供時代をそれなりに幸せに過ごしたのではないか。いわば強者の立場で ある意味歪んだ戦争感を 遺そうとしているように思える。繊細さに欠け、真実を 巧妙に歪めて誤魔化しているにもかかわらず、僭越にも“生き証人”を自称するのは 社会に戦争への誤ったイメージを撒き散らすばかりである。
配役にも問題があった。“若い” はずの大宮上等兵がビートたけしで良かったのだろうか。石坂浩二の演技も取って付けたようだった。長渕剛の演技も 見られたものではなかった。特に、長渕は 倉本氏が出演依頼した、というが 酷いしゃべり方であり、酷い演技の歩き方だった。
倉本は 演技指導のための私塾を北海道で開催しているのではなかったのか。その学校で 今までどのような“演技指導”をしてきたのだろうか。確かに そこから出た有力俳優は乏しいという“実績”はあるようだ。四半世紀もこのような教育を施してきて、有力な人物を輩出できていないというのは、優秀な才能を潰している可能性もあると見て良いのではないか。これは言い過ぎか。
だが、さらに驚いたことに、こんな酷いドラマを どうやら若い俳優を使って、舞台で “歸國”と題して延々公演しているというのは 一体どういう神経なのだろうか。
とにかく、薄っぺらい“現代日本への批判”に 大いにがっかりさせられた。事前の宣伝文句に全く不似合いの愚にも付かない駄作だ。見るに耐えない。
何のことはない、“一般人が 抱いていそうなイメージ”を、“お偉い作家”が おこがましくも書いたものなのだろう。要するに 大衆受けを狙ったドラマを作ろうとしたが、人々の人生の真実を描くという覚悟には欠ける いわば“通俗的”以下の内容であった。倉本聰の作品を 見たのは、このドラマが始めてだったが、最近、別のテレビ番組で見た、浅田次郎の小説作りに対する態度とは 格段に落ちる印象だ。現実を きちんと知らず、調査・取材もしない態度は 正に語るに落ちる。そして、むしろ 現代のオチャラケ番組の氾濫の気風を助長させるような倉本氏の番組制作態度こそ 現代日本の批判されるべき対象ではないのか。このような劇作家が 何故 人気があり、その世界でのドンであり続けられるのか 私は 全く理解できない。
このように語るに落ちるようなことを このブログに取上げて読者には申し訳なかったが、“見てしまった”自分のバカさ加減に感情の赴くままに 取上げてしまった。失礼を お許しいただきたい。
だが、単なる時間潰しの駄作を見ることも 鑑賞眼を養うには 必要なことなのかも知れない。とにかく、今後は倉本のドラマは 真面目には見ないことにした。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 今の暑さの中... | 小沢氏の党代... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |