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“リベラル・アーツ”とは?

安倍首相の第1次内閣からの通算の在職日数が先週6日で2720日となり、初代総理大臣の伊藤博文と並び、歴代3位の長期政権になった。しかし成果無き長期政権との冷めた声も根強くある。アホノミクスも目くらましでしかなかった。
得意とされる外交も結局成果なく、北朝鮮拉致被害者救出のライフ・ワークも何処へやら。
今週はイランへの“米国特使”としてのお出ましとのこと。最高指導者ハメネイー師に会見できるかどうかが鍵とされるようだが、確証は得られているのか否か、政権側は明らかにしていない。確証無くても“親分”の命令には従わなければならない悲しさ。“仲介”ならば本来は米国に対しても注文を付ける度量が必要で、そうでなければ“特使”でしかない。格下の“特使”ならば、ハメネイー師も相手にはしない可能性は大きいはずだ。会えたとしてもその内容が問われる。トランプ来日時、この点を十分に言い渡されて“特使派遣”となったものと見られる。トランプ氏の人使いの巧さではないか。
安倍氏もこれにこければ、北朝鮮からも相手にされない可能性が出てくるのではないか。正に火中の栗拾いだ。失敗した場合、日本人はどのように評価するのか。愚が愚を評価する愚を犯さないことを祈りたい。

一方では、アホ議員に対する糾弾決議を全会一致で可決したという。これで一件落着か。それで“正義”は果たされたのだろうか?
何だかイジメと同じ精神構造ではないか。個人攻撃で終わって済むのかという思いを強くする。これでもう二度と同じようなアホ議員は出てこない、と言えるのだろうか。もっと再発防止を根本的に考えなければならないのではないか。
そもそも議員は選挙で選ばれている。これは重い。だからこそ一旦選出されれば、その身分・地位は“何人たりとも犯すべからず”となっているのだ。それを個人攻撃のようなことで糊塗して終わらせ、責任回避するのか?これこそアホの構造。
酷いのは同議員の母体組織だった“維新の会”の対応だ。同議員を維新の会の議員候補として承認し、議員活動までさせていた責任は取らないのか。選挙民を騙した罪をどう贖うのか、反省の気配はなく、除名して知らん顔。そもそも“維新の会”の推薦する人物は当初から極めつけの際者揃いに定評がある。これまで同会の再発防止策は聞いたことはない。要するに、また同じことをする可能性は大きい。
それが大阪で勢力を持ちつつあることに、大阪の危機を感じるがどうだろうか。他にインチキはないのか。そもそも“都構想”そのものがインチキ、大阪人を騙す“構想”ではないのか。
都市という基礎自治体は強化するのが民主主義確立の歴史の原則であり、府県を強化し道州制を目指すのは非民主的な“分割して統治する”帝国統治の発想ではないのか。民主主義はギリシアのポリスで生まれ、中世の商業を支えた自治都市で封建領主との闘争で“都市は人々を自由”にして発展してきた。これが“都市自治が民主主義の学校”と言われる歴史的所以だ。

川崎の事件の後、“死にたければ一人で死ねば良いのに。”という台詞がマスコミ従業者―ジャーナリストとは呼べない―から発せられた。これは一般人が抱く素朴で単純な発想だが、ここでは“素朴は罪だ”という自覚が求められる。もっと洗練された知的発想を日本のマスコミ従業者は備えて、発言の影響力を考慮して居なければならない。
それを聞いただろう元エリート高級官僚の父親が家庭内暴力を振るう息子を思い余って殺害したようだ。殺害の連鎖が起きたのだ。しかし、先の台詞を吐いたマスコミ従業者の反省の弁は聞こえてこない。それが“正義”なのだろうか。
繰り返すが、そこに“いじめる”側の心理に通底しているものを感じる。これから日本社会がもっともっとギスギスしていくのではないだろうか。人出不足の社会に“「ひきこもり」の40~64歳が、全国で推計61万3千人いるとの調査結果”という不合理で奇妙な状態を何とも感じないのか。家庭が機能不全となり、地域社会が不幸な人々を支援できない日本社会に問題はないのか。“いじめ”で“ひきこもり”となった人をさらに社会全体でいじめる構図でないか。こうした事実を直視しない社会に病理はないのか、それが当然であり健全な社会だと言えるのだろうか。大多数の日本人が引きこもらざるを得なくなったらどうするのか。
地域社会という中途半端な概念を使っているから、いつまでたっても社会的進歩がないのではないだろうか。基礎自治体たる都市自治体がしっかりしていないのが問題なのではないか。日本社会は基礎自治体を軽視し過ぎているのではないか。しっかりした都市自治の強化が必要なのではないか。それができない基礎自治体には都道府県が支援するのか正しいあり方ではないのか。たとえば警察組織は専門性が必要なので町村のような力のない自治体には、都道府県が分担し、消防は広域組合で協力する、そういった都市連合のような形での広域連合が、道州制より自然で有効であろう。ベクトルが上から下へではなくて、下から上に向かうように社会を構築しなければ、日本社会の正常な発展はないのではないか。
先に言ったように、特に“維新の会”否、橋本某氏は基礎自治体を目の敵にし、その解体を目論んでいる。それが正しい発想とは全く思えないのだ。この橋本某氏は冷たい発想をす人だと、あるテレビ・コメンテータは言っていたが、私も同意したい。

日本人全体に“いじめ”の社会心理が蔓延しているように思う。“正義”を振りかざし、集団で個人を責める。ここどものイジメは大人のイジメの社会心理の反映ではないのか。日本人は平和を愛好する優しい人々だとどこかで聞いたように思うが、実態はどうやら、目の前の問題に単純に反応するだけの昆虫脳の人達ではなかろうか。
それは決して真に優しい社会ではないことを肝に銘じるべきではないか。日本社会に“優しい思いやりある民主主義”が成立する強靭な都市自治体が生まれることを心から望みたい。


さて、今週は“リベラル・アーツ”について、少々お勉強したことを報告したい。“リベラル・アーツ”は以前に紹介した丹羽宇一郎氏の“日本をどのような国にするか―地球と世界の大問題”の本の中で出てきた言葉だ。今後、日本で重視されるべき学術として指摘されていたので、気になり次の本を読んだのだった。

芳沢光雄・著“リベラルアーツの学び―理系的思考のすすめ”岩波ジュニア文庫 2018/4/21
小川仁志・著“ビジネスエリートのための! リベラルアーツ 哲学” すばる舎2018/6/15

政治的なリベラルと何か関連あるのか、それと学術とどう関係するのか、もう一つ承服できずに読み漁った。
芳沢光雄氏は①の本の“まえがき”で“(リベラルアーツ)の語源は古代ギリシアからローマ時代に辿ることができ、言語系の文法、修辞学(弁論術)、論理学と数学系の算術、天文学、幾何学、音楽学を合わせた「自由7科」を基礎として発展し、広範な諸問題について垣根を越えた複合的な視点からまとめ、そして解決を目指すもの”であり、“中世のイタリアやフランスの大学から現代のアメリカのリベラルアーツ・カレッジへと受け継がれて”いる、という。その影響を日本で最も強く反映させようとしたのが、東大や国際基督教大学 (ICU)の教養学部だ、という。“職人に対する職業教育と対比する形で、自由人に対する教育というコンセプトが根本”にある、というが“自由人”すなわち社会の上層に居る“奴隷でない”自由な市民つまり知的エリートに対する教育である。この自由人に対する教育というギリシア語のエンキュリオス・パイディアenkyklios paidiaが“リベラル・アーツ”の語源という。

1章の冒頭では、“リベラル・アーツ”の歴史的経過を少し詳しく紹介している。“紀元前5世紀から紀元前4世紀の初期にかけて、古代ギリシアのアテナイを中心に活動していたソフィストの教えが7科の起源”で、言語系の3科はプロタゴラス、ゴルギアス、トマシュコラスらによって導入され、数学系の4科はピッピアスによって導入されたという。その後“ローマ時代の紀元前1世紀、哲学者、文筆家、政治家であったキケロとウァロの時代にリベラルアーツ教育は確立”された。
“リベラル・アーツ”の語源のエンキュリオス・パイデイアのエンキュリオスには“円環的という意味があり、自由7科が円を描くように互いに繋がり合っている”ということで、“12世紀アルザスの修道女、ヘラート・フォン・ランツベルグが編纂した百科事典『ホルトゥス・デリキアルム(悦楽の園)』における「自由7科」の図がそれを物語” っている、という。この図はこの本の表紙カバーにデザイン掲載されている。以下図の説明。“中央の円で座った女性は哲学、その下の男性2人は、左がソクラテス、右がプラトン。7人の女性が外を取り囲んでいるが、真上より時計回りに、文法→修辞学→論理学→音楽→算術→幾何学→天文学”となっている。

さらに同氏は複雑化して現代社会にあって「国際化」や「グローバル化」の中で“(単に)語学力を高めたり、幅広い多くの知識をもったりすること”ばかりではなくて、“国際化やグローバル化によるマイナス面をも理解できるような、他者を理解する謙虚な姿勢を身につけること”であると言っている。これだけでも分かったような、さらにもう一つ判然としない。

そして、そのまま芳沢氏の勤める桜美林大学のリベラルアーツ学群でのカリキュラム紹介のような形での論述となっている。その意味で、“リベラル・アーツ”の面白さを紹介するために中高生を対象とする岩波ジュニア文庫に収められているのかと了解した。具体的には、課題とする“頭の体操”のような例題が並列されている。

欧米の大学は歴史的に見てこの“リベラル・アーツ”を中心に広い学識を育成しつつ専門領域を深めるというカリキュラム構成となっているにも関わらず、日本では教養部を軽視して専門性を重視する大学教育となっている。明治期からの性急な欧米に“追いつき追い越せ”の焦りが未だに抜け切れていないという批判もあるようだ。
私が言うのも何だが、日本人は特に歴史を知らなさすぎる。そして歴史的反省もしっかりやろうとしない。最近の高級官僚の記録改竄もその流れの中ではなかろうか。だから、「自由7科」には“歴史”が追加されるべきだと思う。

②の著者・小川仁志氏は公共哲学を専門とする山口大学国際総合科学部准教授である。そして現代のビジネス・パーソンには“混沌とした事態を分析する力/正解がない中で決断する力/難問を解決する力/新しい価値を生み出すカ”が求められるが、そのためには“まず確かな知識を身につける必要がある。そのうえで、その知識を自由自在に活用し、自分自身で思考することが求められるのだ。そんな確かな知識をベースにした強靭な思考力にほかならない。本書では、その思考力を「教養=リベラルアーツ」と位置づけている”という。
そして小川氏は“教養とは、何らかの物や事柄について考えるための基礎となる知識や思考の型のことだ。多様な文化や歴史を知り、世界について考えるための力であり、5年、10年先まで見渡すことのできる思考のベースとなるものを指す。これこそ、私が「教養=リベラルアーツ」と呼ぶもの”であると言っている。さらに、“哲学もまた古典同様長い時間の中で吟味され、それでも生き残ってきた知だといえるわけである。それに、古代ギリシアの哲学者アリストテレスが示したように、哲学はもともとあらゆる学問の母であった。したがつて、今こそ哲学を学び直すことで、教養の基礎固めをすることができる”、として、世界の哲学をこの本で紹介している。
そこでこの本の構成は、“Chapter 1 哲学とは何か?/ Chapter 2 速習!基本の概念/ Chapter 3 21世紀の問題に対峙するための哲学/ Chapter4 もっと「哲学する」ための実践ガイド” となっている。

特に、Chapter 2 では古今の世界の個々の哲学者・哲学を紹介している。最早、“リベラル・アーツ”から脱線して哲学の紹介、哲学入門者書となっている。まぁ、結果的にそうならざるを得ないのか。
ソフィストの考えた「自由7科」には、当然哲学がどこかに入る又は、全体が哲学なのかもしれない。そしてこの哲学は最も現代日本人が嫌い、全く欠落させてきた“面倒臭い”、“正解のない”課題を考える作業である。しかし、最も人生に不可欠の作業なのだ。

先ずは、大上段に振りかぶって哲学の定義に言及し、“哲学とは徹底的に考えることで、言葉によって物事の本質を探究する営みだといってよい。”そして、“哲学は隠れた本質を暴く作業なので、間いかけないといけない。しかも「○○とは何か?」と問いかけるのだ。”と言っている。
“「哲学を学ぶ」ということと、「哲学をする」ということは異なる。哲学を学ぶというのは、単なる知識と歴史の見物にすぎない。これに対して、哲学は思考の探検であった。・・・ただ見ただけ、覚えただけでは何の意味もない。・・・哲学はやってみないと意味がないのだ。・・・それに、哲学の面白さはやってみてはじめてわかる。特に、自分の人生や社会にかかわる事柄について哲学してみると、それがそのまま自分の人生や社会に反映されることになるので、より面白さを味わえるだろう。”

Chapter 3では技術革新が進む現代において、それが生む文明的問題の哲学的考察、グローバリズムへの対応、等々を提示・紹介している。

哲学は「疑う学問」である。これが哲学するということの最初である。疑ったら、今度は新しい情報を関連させる。こうして既成概念を壊しつくし、次に広がった概念を整理する、創造するというプロセスとなる。最後にその思考の結果を言葉にすることである。
“この哲学のプロセスのどの段階においても重要なのは、いい質問をするということである。疑うためにも、新しい情報を関連させるのにも、またそれらを整理し、創造するのにも、「どうして?」「何が?」「どのように?」などと問いを投げかけてきた。ただ、どんな質問でもいいというわけではない。物事の本質を探究するためには、変な質問をしなければならないのだ。”
“色んな角度から質問をすることで、その対象の色んな側面が見えてくるのだ。これは視点を変えてその対象を見るということにほかならない。だからできるだけ複数の視点を持つことで、これまで現れていない姿が現れるのだ。”

後は、その“哲学する”ための実践方法を提示している、珍しく親切な本だ。
確かに、“リベラル・アーツ”は現代日本人に全く欠落している素養であることが間違いないのは十分に理解できた。その要素は私にも間違いなく大いにある。日本のある種欠けた教育を受けてきた一人の日本人であることも間違いない。その欠陥を補うためにこれからもお勉強するものだと、思っているので、今後も御愛顧賜りたい。
そして、“リベラル・アーツ”こそが日本を真に優しい社会にするのに非常に有効で不可欠な基礎学術であり、日本の文明をさらに洗練させるものと信じる。ひょっとして、日本でこの学術の欠落や遅れが“いじめ構造”の遠因ではないだろうか。

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鉄道ビジネスシナジー (軸受GX革命)
2024-01-10 04:23:48
ルパン三世のマモーの正体。それはプロテリアル安来工場で開発されたSLD-MAGICという高性能特殊鋼(マルテンサイト鋼)と関係している。ゴエモンが最近グリーン新斬鉄剣と称してハイテン製のボディーの自動車をフルスピードでサムライよろしくバッサリ切り刻んで、またつまらぬものを斬ってしまったと定番のセリフ言いまくっているようだ。話をもとにもどそう、ものづくりの人工知能の解析などを通じて得た摩耗の正体は、リカバリー性も考慮された炭素結晶の競合モデル/CCSCモデルとして各学協会で講演されているようだ。
 
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