The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
久々の東横観光の最終日―川越編
先週当初の報道はトランプの訪日話題満載。この現象に対して、日本のマスコミは日頃批判的でありながら、大歓迎の報道が目立ったが、本人を目の前にすると批判できない弱腰マスコミには違和感があるとの国外の声が聞かれた。一方では、日米貿易交渉は5月決着であったものが、何故か8月となったようだが、それは密約が出来たためとする国内からの声も出ている。日本のマスコミと政権に対する辛辣な見方だが、当たっているのではないか。
その後は川崎の事件に関してばかりの報道だが、そのコメントに思いやりのなさが目立つ。コメンテータ達の想像力のなさ、思いやりのなさばかりが目立つような気がする。仕合せな人間には豊かな想像力を持つ責任があり、その責務を負ったうえで、コメントするべきだと思う。勿論、被害者への思い遣りも最も尊重するべきことではある。しかし、これからのことももっと考えるべきではないか。
一見掘り下げたように見える議論でも、家族関係の問題であるとして終わっている。しかし日本社会の現実的で喫緊の課題は、その家族が崩壊し、地域社会も崩壊していることだ。仕合せなコメンテータはそのことに全く気付いていない。
この事件の犯罪者を注意深く見てみれば、パソコンもスマホも持ち合わせていなかったという。いわばネット難民。現代がネット社会化していることからも落ちこぼれて、恐らくITの何たるかを全く知らず触れたこともない50代の孤独な男だったのではないか。現代社会から置き去りにされ、完璧に落ちこぼれていたのではないだろうか。
特に“死にたければ一人で死ねば良いのに。”という台詞がマスコミ従業者―ジャーナリストとは呼べない―から発せられたらしい。こうした冷たい人々がマスコミに従事している。社会から落ちこぼれた人がこの台詞を聞いた時の絶望感を想像できないのだろうか。そこに何だか“いじめる”側の心理に通底しているものを感じる。これから日本社会がもっともっとギスギスしていくのだろう。精神医学では“拡大自殺”という概念があるようだが、そうした知識が普及してもいないので、平気で冷たい発言が横行するのだ。日本は精神医療で後進国であることを自覚するべきだ。
米国では銃乱射による同じような事件が頻発しているが、日本では“銃社会の問題”と簡単に片づけている。銃を使用できないから被害者が少人数で終わっていて良かったのだろうか。今後、こうした事件が不思議な問題として通り過ぎて行き、安全管理のメッシュを細かくする指示が出回り、教育現場へのみシワ寄せばかりが増えて行くのではないのか。それで健全な子供たちの育成教育に繋がるのだろうか。これでは、本質的な問題解決とはならず、このような事件がますます増えるだろう。そして日本社会は目に見えない速度で、しかし確実に崩壊して行くのではないか、と逆に寒気がする。
週末、Eテレで連合赤軍事件の関係者その後を放送していた。この問題も本質を見極めず放置したために、20年後にオウム真理教事件が起きたのではなかろうか。いずれの事件も社会心理学や精神医学的な分析と反省が無ければ再発するのではないか。分断され孤立化した個人が増加すれば同じような事件は規模は大きくなり増え続けるのではないか。日本社会はPDCAのPDは曲りなりにできても、CAが一人前に十分にできない幼児化した社会なのだろうか。先の戦争の反省も不十分のまま70年以上が過ぎている。目の前の事象だけに反応するような昆虫脳へと退化してはいないか。
話が変わるが、日本のGDPの数値が政権に都合よく修正されているようだ。日銀はそれを嫌って独自に集計しているという。これでは、ついこの間までバカにしていた中国とまるで同じではないか。
だからこそ、こうしたマヤカシアホ政権の下で高級官僚は精神的にまいって覚醒剤をやり、足軽政治家はオバカ放言を繰り返す。アホだが狡猾な政権はそうしたマヌケ政治家をワザと重用する。そして野党政治家はその戦術に引っかかってオバカ放言をとがめるばかりで、一向に本質の議論へ発展させず、くだらない遣り取りで時間を空費している。このように日本の政界は完全に堕落しきっていて、正常に機能していない。それでも政権への支持率は高い。正に病膏肓に入る、付ける薬が無く、末期的だ。
ところで8964、中国の天安門事件の30周年記念日が近づいている。日本ではあまり流されていないが、残虐にも学生を虐殺した遺体の写真が欧米では結構流布されているという。日本のマスコミは北京政府にも忖度するのか。トランプ大統領に忖度し、安倍首相に忖度し、北京政府にも忖度し、これで一体真実が報道で来ているのだろうか。私達日本人は世界の真実を知らずに過ごしているのだろうか。
しかし他方、こういう非人道の北京政府の正体を見抜けずに、あたかもまともな政権であるかのように見做して、ノー天気なコメントを繰り返す、日本の非常識コメンテータにまた苛立ちを覚える。マスコミ従業者出身のコメンテータにこの傾向は多いように思える。かたやネットの進展に伴い、日本のマスコミはどんどん世間から浮き上がった存在になるのではないか。逆にネットをベースにしたミニコミの台頭があるのではないか。テレビでCMの時間が長くなりつつあるが、これは従来型マスコミ衰退の兆候と見て良いだろう。
さて、今回は東京出張の3日目最終日についでに川越を観光したので報告したい。事前にネットで調べた川越1日観光モデル・コースは次のようだった。
東武・川越駅→大正浪漫夢通り→川越一番街→川越市蔵造り資料館→菓子屋横丁→川越氷川神社→川越市立博物館→川越城本丸御殿→川越歴史博物館→川越大師・喜多院→仙波東照宮→中院→川越八幡宮→東武・川越駅
このコースで徒歩移動時間と観光時間を積算すると9時間弱となり、驚愕。予定ではこの日を最後に夕方6時には新幹線に乗車して帰宅の途に就きたいと思っていたからだった。朝8時から活動開始しても、9時間後は17時。否、昼食の時間も必要。川越から東京駅まで約1時間。となると何処かで時間を喰うと夕方6時の新幹線はおぼつかない。それに目玉の川越大師・喜多院で、1時間半も要するという。そんなに広くて見るところ満載なのか。しかも朝早くから行っても商店街の“大正浪漫夢通り”や“川越一番街”、“菓子屋横丁”は店が開いて居まい。そこで順序を逆にして、8時半川越駅スタートとすることにした。そして乗るべき新幹線も18時半発とした。それでもし、途中ででも間に合わないと分かった段階では、残念だが見るべき所を省略する覚悟とした。それに逆コースとすれば少なくとも目玉の“喜多院”は早めにスケュールに入っている。
高田馬場のビジネス・ホテルから7時半前には出発。池袋に向かい、東武東上線の急行に乗る。ほぼ8時半前には川越駅に到着。あらかじめ調べておいた改札内のコイン・ロッカーに荷物を預け、必要なものを入れたサブザックを持って改札を出てスタート。
携帯の地図を確認しつつ、第一目標の“川越八幡宮”を目指す。どうやら川越工業高校の通学路のようで、高校生とつかず離れず歩く。八幡様、着いてみるとまぁ普通の神社。そうではないかとは思ったが、そんなもの。滞在時間20分もかからない。一応、この日の旅の安全祈願。
そのまま中院から仙波東照宮へ。
中院は、“平安時代、淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺仏地院と号した。鎌倉時代、尊海僧正によって再建。無量寿寺には仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院)が存在し、後伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。天台宗の学問所が開かれ関東八檀林の一つとして栄えた。天海大僧正が喜多院(北院)の住職となるまでは、中院が無量寿寺の中心的な役割を果たした。” とある。また、“島崎藤村の義母・加藤みきの墓があり藤村は頻繁に訪れた。島崎藤村の妻となった加藤静子は川越出身で、その母である加藤みきとは大変仲が良く、茶道の師匠であった加藤みきに藤村が贈った茶室「不染亭」や、藤村書の「不染の碑」” もある。
仙波東照宮は“駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬りましたが、その後日光に改葬の途中、4日間、遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要を営みました。そのことから境内に東照宮が祀られ、立派な社殿を造営。ところが川越大火により類焼したため、徳川家光公の命により川越藩主・堀田正盛が奉行となって直ちに再建したものが現在の社殿”ということ。
朝早いせいか、階段上のフェンスに囲まれた社殿には鍵がかかっていたので、上に行く気も起きず、次の喜多院の境内へ向かう。
右手に鐘楼門を見ながら、境内を進む。予定は早め。左手には赤い多宝塔。韓国人風の男2人ずれとタイミングが合う。回れ左で、左側に本堂・慈恵堂。とりあえずこれにお参り。未だ9時前。庫裏内には9時以降に入場。
お寺関係者の団体の訪問のようで、寺側が部屋に招き入れ丁寧に対応、説明。家光の生まれた部屋、厠、風呂場と称する部屋を観覧。その後、渡り廊下を経て、先程行った本堂内部へ。仏様の前で拝んだのち、しばらく座り込んでみる。
全体の印象として、申し訳ないが神社仏閣を多数控える関西人には、それほどの感慨は生じない。むしろ古い部屋の維持管理の不十分さを感じてしまう。お庭もきれいではあるが、そこそこにしか感じない。
その後、五百羅漢の御庭へ観覧。売店が入口だが管理者が未だ来ていない。ぼちぼち中学生の修学旅行団体が目立ってくる。さっきの2人の韓国人客が私の後を追うように入ってきた。
喜多院の境内を北側から出ると“川越歴史博物館”だが、未だ10時前閉館中。予定ではここらで昼食だったが早過ぎる。
次の“川越城本丸御殿”へ向かう。予定が早いので、慌てずゆっくり歩いても全く問題ない。スマホの地図を照合しながら移動。中学生の修学旅行の小グループも前を歩いている。
御殿前には観光バス駐車場が合って、小中高生の団体が目立つ。本丸御殿とは言え、どうやらほんの一部の遺構のようだ。明治期の破壊を免れた遺構をかき集めて何とか観光名所にしたもののようだ。
奥には川越藩家老の詰め所があったが、どうやら既に民家の一部に移築されていたものを見つけて、その後、ここへ戻したのだという。中では家老3名の人形が、川越藩の江戸台場の海岸防備の検討会議をしている想定で、陳列されていた。
次が市立“川越博物館”。御殿の北側すぐ。
入ると大きな川越のジオラマ。それと少々気味の悪い天海和尚の像がある。ここは何故か高が居なくなり小中生の団体が目立つ。館員の方から“子供達ばかりで、ごめんなさいネ”と言われて苦笑い。だが、子供達へのジオラマの館員説明で川越の都市構造が概ね理解できて満足したものだった。
それによると、川越は平安時代の無量寿寺が中心となり町が形成されたようだ。その後、そこへ江戸幕府の要人・天海和尚がやって来て、大火により焼失した伽藍の再建を果たした。その時、天海は家光に頼み込んで、江戸城内の建造物の一部を譲り受けたということ。
この寺のすぐ北に川越城が室町時代に大田道灌らによって築城されたようだ。戦国時代は国取りゲームの舞台となり、秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅亡すると、関東八州に家康が入り、川越に徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石で封ぜられ、川越藩が成立し、近世が始まる。
その後は、城下町が城の西側に形成され、町衆の活動が活発化。江戸へ、又は江戸からの物資輸送・商業の結節点としての封建時代の都市機能を果たしたのであり、そして明治期以降に鉄道が町の南端にやって来て、近代以降の発展を遂げた。
大略このように理解できたのだった。これで、何となく大いに知的満足を得た気がした。
未だ昼食には時間がある。少し遠いが川越氷川神社に向かう。
この神社の縁起は古く6世紀半ば大和朝廷黎明期に始まるようだ。従がい、古くから川越の鎮守府的存在だったようだ。しかし残念ながら、その後の歴史に目立つエピソードもあまり無さそうだ。
神社の南側を通るバス通りを西行し、菓子屋横丁に向かった。この途中で、スマホの電気が切れる。慌てることなく携帯電池で充電しようとしたら、充電ケーブルが機能しないものが間違って入っていた。この後、盲目状態で勘で行動せざるを得ない。
“「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸ッ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったとされる。その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角” が人々を呼び寄せている。とはいうものの、明治期そのままの姿でもなさそうで、現代的空気も十分に見られる。
この街を出たところで、鰻屋さん“うなぎ専門店・うなっ子”の暖簾が目に入った。丁度、昼食時。うな重をたべようと思ったが、ここの名物・いも重に変更。ご飯の中に小切り芋が一緒に炊きこまれている。何だか鰻が少し脇に逸れた様な・・・。
その後は、テレビでお馴染みの小江戸COEDO街を歩く。“川越市蔵造り資料館”は残念ながら改築中。土産物街である。オッサン・ジジィには土産物は興味が無い。江戸期や文明開化の時代の建物が見える。滋賀の長浜やその他の街でも見たことのあるような建物が見える。そのまま“大正浪漫夢通り”へ入り、ダラダラ駅に向かって歩き出す。方角が正しいのか、スマホが機能していないので、若干の不安を抱きながら歩く。
気付けば本川越駅。ここは西武鉄道。西武と東武が入り乱れている。地場の古くからありそうな喫茶店をさがすが、適当な所が見当たらない。元来た東武駅の近くの商業ビルで今時のチェーン店カフェに入る。ここではスマホも電池切れでいじれず、本も特に読む気にはならず、単に休憩。ここで午後2時前後。別に急いだわけでもないが予定より圧倒的に早く、余りにもあっけなく川越観光は終わってしまった。
元来た東武鉄道で池袋を目指す。急行が来たので、何も考えずに乗った。フトある駅に停車した時、“横浜中華街行き”と聞こえて、びっくりして慌てて降りる。急行ならば全て池袋に行くものと思っていたので驚いたのだ。そう言えば横浜で見たメトロ地下鉄の車両がこの辺りでも走っている。ここでは新木場行きだった。新木場は京葉線ではないか。
京阪神地区では大阪の地下鉄が、神戸や京都を走ることはない。都市機能の進化発展が遅れている。ホームドアの普及も首都圏ではずいぶん進んでいる。首都中心の中央政府の施策がこれ程になっているとは、非常に驚いたことだ。中央と地方の格差は年々拡大している。これで国家機能のリスク分散できていると言えるのだろうか。
池袋のJRの緑の窓口で16時30分発の新幹線に変えて帰神することにした。お蔭で、東京駅で買おうと思った凝った駅弁を買わず、ビールも買わずに帰ることとした。
新幹線の列車待ちで久しぶりに、八重洲ブックセンターに立ち寄り時間調整した。こんなことをするのは20年ぶりだろうか、久しぶりで懐かしい思いだった。
その後は川崎の事件に関してばかりの報道だが、そのコメントに思いやりのなさが目立つ。コメンテータ達の想像力のなさ、思いやりのなさばかりが目立つような気がする。仕合せな人間には豊かな想像力を持つ責任があり、その責務を負ったうえで、コメントするべきだと思う。勿論、被害者への思い遣りも最も尊重するべきことではある。しかし、これからのことももっと考えるべきではないか。
一見掘り下げたように見える議論でも、家族関係の問題であるとして終わっている。しかし日本社会の現実的で喫緊の課題は、その家族が崩壊し、地域社会も崩壊していることだ。仕合せなコメンテータはそのことに全く気付いていない。
この事件の犯罪者を注意深く見てみれば、パソコンもスマホも持ち合わせていなかったという。いわばネット難民。現代がネット社会化していることからも落ちこぼれて、恐らくITの何たるかを全く知らず触れたこともない50代の孤独な男だったのではないか。現代社会から置き去りにされ、完璧に落ちこぼれていたのではないだろうか。
特に“死にたければ一人で死ねば良いのに。”という台詞がマスコミ従業者―ジャーナリストとは呼べない―から発せられたらしい。こうした冷たい人々がマスコミに従事している。社会から落ちこぼれた人がこの台詞を聞いた時の絶望感を想像できないのだろうか。そこに何だか“いじめる”側の心理に通底しているものを感じる。これから日本社会がもっともっとギスギスしていくのだろう。精神医学では“拡大自殺”という概念があるようだが、そうした知識が普及してもいないので、平気で冷たい発言が横行するのだ。日本は精神医療で後進国であることを自覚するべきだ。
米国では銃乱射による同じような事件が頻発しているが、日本では“銃社会の問題”と簡単に片づけている。銃を使用できないから被害者が少人数で終わっていて良かったのだろうか。今後、こうした事件が不思議な問題として通り過ぎて行き、安全管理のメッシュを細かくする指示が出回り、教育現場へのみシワ寄せばかりが増えて行くのではないのか。それで健全な子供たちの育成教育に繋がるのだろうか。これでは、本質的な問題解決とはならず、このような事件がますます増えるだろう。そして日本社会は目に見えない速度で、しかし確実に崩壊して行くのではないか、と逆に寒気がする。
週末、Eテレで連合赤軍事件の関係者その後を放送していた。この問題も本質を見極めず放置したために、20年後にオウム真理教事件が起きたのではなかろうか。いずれの事件も社会心理学や精神医学的な分析と反省が無ければ再発するのではないか。分断され孤立化した個人が増加すれば同じような事件は規模は大きくなり増え続けるのではないか。日本社会はPDCAのPDは曲りなりにできても、CAが一人前に十分にできない幼児化した社会なのだろうか。先の戦争の反省も不十分のまま70年以上が過ぎている。目の前の事象だけに反応するような昆虫脳へと退化してはいないか。
話が変わるが、日本のGDPの数値が政権に都合よく修正されているようだ。日銀はそれを嫌って独自に集計しているという。これでは、ついこの間までバカにしていた中国とまるで同じではないか。
だからこそ、こうしたマヤカシアホ政権の下で高級官僚は精神的にまいって覚醒剤をやり、足軽政治家はオバカ放言を繰り返す。アホだが狡猾な政権はそうしたマヌケ政治家をワザと重用する。そして野党政治家はその戦術に引っかかってオバカ放言をとがめるばかりで、一向に本質の議論へ発展させず、くだらない遣り取りで時間を空費している。このように日本の政界は完全に堕落しきっていて、正常に機能していない。それでも政権への支持率は高い。正に病膏肓に入る、付ける薬が無く、末期的だ。
ところで8964、中国の天安門事件の30周年記念日が近づいている。日本ではあまり流されていないが、残虐にも学生を虐殺した遺体の写真が欧米では結構流布されているという。日本のマスコミは北京政府にも忖度するのか。トランプ大統領に忖度し、安倍首相に忖度し、北京政府にも忖度し、これで一体真実が報道で来ているのだろうか。私達日本人は世界の真実を知らずに過ごしているのだろうか。
しかし他方、こういう非人道の北京政府の正体を見抜けずに、あたかもまともな政権であるかのように見做して、ノー天気なコメントを繰り返す、日本の非常識コメンテータにまた苛立ちを覚える。マスコミ従業者出身のコメンテータにこの傾向は多いように思える。かたやネットの進展に伴い、日本のマスコミはどんどん世間から浮き上がった存在になるのではないか。逆にネットをベースにしたミニコミの台頭があるのではないか。テレビでCMの時間が長くなりつつあるが、これは従来型マスコミ衰退の兆候と見て良いだろう。
さて、今回は東京出張の3日目最終日についでに川越を観光したので報告したい。事前にネットで調べた川越1日観光モデル・コースは次のようだった。
東武・川越駅→大正浪漫夢通り→川越一番街→川越市蔵造り資料館→菓子屋横丁→川越氷川神社→川越市立博物館→川越城本丸御殿→川越歴史博物館→川越大師・喜多院→仙波東照宮→中院→川越八幡宮→東武・川越駅
このコースで徒歩移動時間と観光時間を積算すると9時間弱となり、驚愕。予定ではこの日を最後に夕方6時には新幹線に乗車して帰宅の途に就きたいと思っていたからだった。朝8時から活動開始しても、9時間後は17時。否、昼食の時間も必要。川越から東京駅まで約1時間。となると何処かで時間を喰うと夕方6時の新幹線はおぼつかない。それに目玉の川越大師・喜多院で、1時間半も要するという。そんなに広くて見るところ満載なのか。しかも朝早くから行っても商店街の“大正浪漫夢通り”や“川越一番街”、“菓子屋横丁”は店が開いて居まい。そこで順序を逆にして、8時半川越駅スタートとすることにした。そして乗るべき新幹線も18時半発とした。それでもし、途中ででも間に合わないと分かった段階では、残念だが見るべき所を省略する覚悟とした。それに逆コースとすれば少なくとも目玉の“喜多院”は早めにスケュールに入っている。
高田馬場のビジネス・ホテルから7時半前には出発。池袋に向かい、東武東上線の急行に乗る。ほぼ8時半前には川越駅に到着。あらかじめ調べておいた改札内のコイン・ロッカーに荷物を預け、必要なものを入れたサブザックを持って改札を出てスタート。
携帯の地図を確認しつつ、第一目標の“川越八幡宮”を目指す。どうやら川越工業高校の通学路のようで、高校生とつかず離れず歩く。八幡様、着いてみるとまぁ普通の神社。そうではないかとは思ったが、そんなもの。滞在時間20分もかからない。一応、この日の旅の安全祈願。
そのまま中院から仙波東照宮へ。
中院は、“平安時代、淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺仏地院と号した。鎌倉時代、尊海僧正によって再建。無量寿寺には仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院)が存在し、後伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。天台宗の学問所が開かれ関東八檀林の一つとして栄えた。天海大僧正が喜多院(北院)の住職となるまでは、中院が無量寿寺の中心的な役割を果たした。” とある。また、“島崎藤村の義母・加藤みきの墓があり藤村は頻繁に訪れた。島崎藤村の妻となった加藤静子は川越出身で、その母である加藤みきとは大変仲が良く、茶道の師匠であった加藤みきに藤村が贈った茶室「不染亭」や、藤村書の「不染の碑」” もある。
仙波東照宮は“駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬りましたが、その後日光に改葬の途中、4日間、遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要を営みました。そのことから境内に東照宮が祀られ、立派な社殿を造営。ところが川越大火により類焼したため、徳川家光公の命により川越藩主・堀田正盛が奉行となって直ちに再建したものが現在の社殿”ということ。
朝早いせいか、階段上のフェンスに囲まれた社殿には鍵がかかっていたので、上に行く気も起きず、次の喜多院の境内へ向かう。
右手に鐘楼門を見ながら、境内を進む。予定は早め。左手には赤い多宝塔。韓国人風の男2人ずれとタイミングが合う。回れ左で、左側に本堂・慈恵堂。とりあえずこれにお参り。未だ9時前。庫裏内には9時以降に入場。
お寺関係者の団体の訪問のようで、寺側が部屋に招き入れ丁寧に対応、説明。家光の生まれた部屋、厠、風呂場と称する部屋を観覧。その後、渡り廊下を経て、先程行った本堂内部へ。仏様の前で拝んだのち、しばらく座り込んでみる。
全体の印象として、申し訳ないが神社仏閣を多数控える関西人には、それほどの感慨は生じない。むしろ古い部屋の維持管理の不十分さを感じてしまう。お庭もきれいではあるが、そこそこにしか感じない。
その後、五百羅漢の御庭へ観覧。売店が入口だが管理者が未だ来ていない。ぼちぼち中学生の修学旅行団体が目立ってくる。さっきの2人の韓国人客が私の後を追うように入ってきた。
喜多院の境内を北側から出ると“川越歴史博物館”だが、未だ10時前閉館中。予定ではここらで昼食だったが早過ぎる。
次の“川越城本丸御殿”へ向かう。予定が早いので、慌てずゆっくり歩いても全く問題ない。スマホの地図を照合しながら移動。中学生の修学旅行の小グループも前を歩いている。
御殿前には観光バス駐車場が合って、小中高生の団体が目立つ。本丸御殿とは言え、どうやらほんの一部の遺構のようだ。明治期の破壊を免れた遺構をかき集めて何とか観光名所にしたもののようだ。
奥には川越藩家老の詰め所があったが、どうやら既に民家の一部に移築されていたものを見つけて、その後、ここへ戻したのだという。中では家老3名の人形が、川越藩の江戸台場の海岸防備の検討会議をしている想定で、陳列されていた。
次が市立“川越博物館”。御殿の北側すぐ。
入ると大きな川越のジオラマ。それと少々気味の悪い天海和尚の像がある。ここは何故か高が居なくなり小中生の団体が目立つ。館員の方から“子供達ばかりで、ごめんなさいネ”と言われて苦笑い。だが、子供達へのジオラマの館員説明で川越の都市構造が概ね理解できて満足したものだった。
それによると、川越は平安時代の無量寿寺が中心となり町が形成されたようだ。その後、そこへ江戸幕府の要人・天海和尚がやって来て、大火により焼失した伽藍の再建を果たした。その時、天海は家光に頼み込んで、江戸城内の建造物の一部を譲り受けたということ。
この寺のすぐ北に川越城が室町時代に大田道灌らによって築城されたようだ。戦国時代は国取りゲームの舞台となり、秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅亡すると、関東八州に家康が入り、川越に徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石で封ぜられ、川越藩が成立し、近世が始まる。
その後は、城下町が城の西側に形成され、町衆の活動が活発化。江戸へ、又は江戸からの物資輸送・商業の結節点としての封建時代の都市機能を果たしたのであり、そして明治期以降に鉄道が町の南端にやって来て、近代以降の発展を遂げた。
大略このように理解できたのだった。これで、何となく大いに知的満足を得た気がした。
未だ昼食には時間がある。少し遠いが川越氷川神社に向かう。
この神社の縁起は古く6世紀半ば大和朝廷黎明期に始まるようだ。従がい、古くから川越の鎮守府的存在だったようだ。しかし残念ながら、その後の歴史に目立つエピソードもあまり無さそうだ。
神社の南側を通るバス通りを西行し、菓子屋横丁に向かった。この途中で、スマホの電気が切れる。慌てることなく携帯電池で充電しようとしたら、充電ケーブルが機能しないものが間違って入っていた。この後、盲目状態で勘で行動せざるを得ない。
“「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸ッ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったとされる。その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角” が人々を呼び寄せている。とはいうものの、明治期そのままの姿でもなさそうで、現代的空気も十分に見られる。
この街を出たところで、鰻屋さん“うなぎ専門店・うなっ子”の暖簾が目に入った。丁度、昼食時。うな重をたべようと思ったが、ここの名物・いも重に変更。ご飯の中に小切り芋が一緒に炊きこまれている。何だか鰻が少し脇に逸れた様な・・・。
その後は、テレビでお馴染みの小江戸COEDO街を歩く。“川越市蔵造り資料館”は残念ながら改築中。土産物街である。オッサン・ジジィには土産物は興味が無い。江戸期や文明開化の時代の建物が見える。滋賀の長浜やその他の街でも見たことのあるような建物が見える。そのまま“大正浪漫夢通り”へ入り、ダラダラ駅に向かって歩き出す。方角が正しいのか、スマホが機能していないので、若干の不安を抱きながら歩く。
気付けば本川越駅。ここは西武鉄道。西武と東武が入り乱れている。地場の古くからありそうな喫茶店をさがすが、適当な所が見当たらない。元来た東武駅の近くの商業ビルで今時のチェーン店カフェに入る。ここではスマホも電池切れでいじれず、本も特に読む気にはならず、単に休憩。ここで午後2時前後。別に急いだわけでもないが予定より圧倒的に早く、余りにもあっけなく川越観光は終わってしまった。
元来た東武鉄道で池袋を目指す。急行が来たので、何も考えずに乗った。フトある駅に停車した時、“横浜中華街行き”と聞こえて、びっくりして慌てて降りる。急行ならば全て池袋に行くものと思っていたので驚いたのだ。そう言えば横浜で見たメトロ地下鉄の車両がこの辺りでも走っている。ここでは新木場行きだった。新木場は京葉線ではないか。
京阪神地区では大阪の地下鉄が、神戸や京都を走ることはない。都市機能の進化発展が遅れている。ホームドアの普及も首都圏ではずいぶん進んでいる。首都中心の中央政府の施策がこれ程になっているとは、非常に驚いたことだ。中央と地方の格差は年々拡大している。これで国家機能のリスク分散できていると言えるのだろうか。
池袋のJRの緑の窓口で16時30分発の新幹線に変えて帰神することにした。お蔭で、東京駅で買おうと思った凝った駅弁を買わず、ビールも買わずに帰ることとした。
新幹線の列車待ちで久しぶりに、八重洲ブックセンターに立ち寄り時間調整した。こんなことをするのは20年ぶりだろうか、久しぶりで懐かしい思いだった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 久々の東横観... | “リベラル・ア... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |