The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
君子危うきに近寄らず
今年最初の記事にコメントがあり、それが契機で 多少 考えさせられるところがあったので コメントさせてもらうことにしました。それは教育問題に関してのことであり、それが 日本人全体の劣化につながっているのではないか、と。
教育問題は難しい課題です。様々な価値観をどのように客観的に 場合によっては主観的に人々、特に 何も知らない子供達に伝えるかの問題だからです。ですが、それが独断と偏見に満ちていれば 問題となります。ところが、何が独断と偏見なのか、その“仕訳け”の基準が 曖昧なので 難しい問題になると思うのです。
一般的に受け入れられている“常識”となった知識を 国家的統一的な価値観として一律に全国民に“教育”するのが本来なのですが、“常識”と定まっていない知識を どのように伝えるかが問題となります。あるいは、“常識”だとされた知識であっても 後世に違っていたということになると これは問題となります。
したがって 一般的になった知識であっても 国家的統一的な価値観としてではなく、各地の地域の独自意識に沿った様々な 教え方で伝える方が 多様な価値観を守る上で、良いのではないかということから、各自治体に教育委員会を設立し、運営することになったものと思っています。これは 戦前教育の反省からなされたのですが、その教育委員会なるものが、その本来の目的を忘れ、形骸化してきています。しっかりした、自立した意識・考え方で、委員会を運営する覚悟が無く、横並び、お上頼みでやっていこうと言う 依存型姿勢で運営されてきています。これも教育荒廃の一因ではないかと思っているのです。
特に歴史教育は 価値観によって様々な歴史解釈が存在しえるため 取分け近代については現在に直結する問題であるため、どのような立場に立って教育するのが適切なのか、非常に難しいことかも知れません。政治的に左右の対立が激しい時代には 混迷せざるを得ない状況があった、と思っています。そういう訳で、明治以降 特に戦後の歴史については そういう面倒な議論を避けるため教育カリキュラムから意識的に外されていました。そのため、歴史的認識としては特に重要な 現在につながる様々な事柄についての根拠を知らない人々が増えてしまったのだと思っています。このことも又、日本人の社会認識の“愚民”化を促進した要因と思っています。
社会的には そのような問題があると思うのですが、実際には“教育”とは もっと 人々が自分の問題として引き付けて考える必要があるのではないか、と思うのです。
つまり、“自民党・官僚政治の愚民化政策が作り出した愚民”という認識では この問題は解決しないと思っています。
教育問題こそ、自分はどうするのか、自分の身の回りの子供達や若い人達を どのように育てるかの問題につながっていると思うのです。ところが、こういう意識が 最近 特に乏しくなってきたように思うのです。
例えば 人々の公共の場でのマナーの悪さが 最近 非常に悪くなって来たように思うのですが、これは相互に 態度の悪い人を注意する空気が希薄になってきたことが 大きな要因ではないかと思います。マナーの悪い人に率先して注意して その場で改めさせる雰囲気が無くなってきているのです。1980年代以前は、結構 マナーの悪さに対し、非難の目があり、時に注意する声もあったように思うのですが、最近は それが全く無くなってしまった印象です。例えば、最近は ショルダー・バックや中にはリュック・サックを電車内では手に持たずに 肩に掛けたまま乗車する人がほとんどですが、以前は そういうことをすると明らかに嫌な顔をされたように記憶しています。そして普通の人は、その雰囲気を察知して そういう行為を改めたものです。しかし、最近はKYという言葉が示すように、周囲の不快感を感じ取れないのか 平気で不快な行為をし続ける人が出てきて、それに対し声を出してまで注意する人がいなくなりました。それが またKY度を上げると言う悪い循環になったのではないかと思うのです。
つまり、最近は その場をやり過ごして関わらない、その意識が 社会的に蔓延して 様々な問題が放置され 解決せずに先送りされて 結局 緊張感のない社会が醸成され、日本人や日本社会全体の劣化につながったような気がします。その結果 今や、年配者すらマナーが悪くなって、率先して悪行を為しているような観すらあります。最近の年寄は“最近の若いものは・・・”ということすら口にしなくなりました。これは 最近の年寄自身がワカモノ化して小さな利得に味をしめていることにもあるような気がします。
この目前の非を非として非難しない現象を“劇場民主主義”と呼んで 日本社会の大きな欠陥だと指摘した人がいました。
教育問題は そういった足下で、“あなたなら、どうする?”という根本的課題に関わっていると思うのですが いかがでしょう。自民党政権や官僚も 戦後体制も 放置され、先送りされ 劣化してしまいました。そういった 放置、先送り自体が 結果として自分達自身を堕落させることにつながっているのだと思うのです。日本社会全体が どんどん劣化して行っているような気がしてなりません。かつての世界第2の地位を占めた大国が どんどん劣化していることと重なるイメージです。
しかし、これは 結構 難問だと思います。私も 電車内で態度の悪い人に どう接するべきか、その人に注意することで逆切れされ危害を加えられても 周囲から見捨てられる可能性のある社会では 関わらない方が 良いのではないかと思っていますので・・・・・。君子危うきに近寄らず!
教育問題は難しい課題です。様々な価値観をどのように客観的に 場合によっては主観的に人々、特に 何も知らない子供達に伝えるかの問題だからです。ですが、それが独断と偏見に満ちていれば 問題となります。ところが、何が独断と偏見なのか、その“仕訳け”の基準が 曖昧なので 難しい問題になると思うのです。
一般的に受け入れられている“常識”となった知識を 国家的統一的な価値観として一律に全国民に“教育”するのが本来なのですが、“常識”と定まっていない知識を どのように伝えるかが問題となります。あるいは、“常識”だとされた知識であっても 後世に違っていたということになると これは問題となります。
したがって 一般的になった知識であっても 国家的統一的な価値観としてではなく、各地の地域の独自意識に沿った様々な 教え方で伝える方が 多様な価値観を守る上で、良いのではないかということから、各自治体に教育委員会を設立し、運営することになったものと思っています。これは 戦前教育の反省からなされたのですが、その教育委員会なるものが、その本来の目的を忘れ、形骸化してきています。しっかりした、自立した意識・考え方で、委員会を運営する覚悟が無く、横並び、お上頼みでやっていこうと言う 依存型姿勢で運営されてきています。これも教育荒廃の一因ではないかと思っているのです。
特に歴史教育は 価値観によって様々な歴史解釈が存在しえるため 取分け近代については現在に直結する問題であるため、どのような立場に立って教育するのが適切なのか、非常に難しいことかも知れません。政治的に左右の対立が激しい時代には 混迷せざるを得ない状況があった、と思っています。そういう訳で、明治以降 特に戦後の歴史については そういう面倒な議論を避けるため教育カリキュラムから意識的に外されていました。そのため、歴史的認識としては特に重要な 現在につながる様々な事柄についての根拠を知らない人々が増えてしまったのだと思っています。このことも又、日本人の社会認識の“愚民”化を促進した要因と思っています。
社会的には そのような問題があると思うのですが、実際には“教育”とは もっと 人々が自分の問題として引き付けて考える必要があるのではないか、と思うのです。
つまり、“自民党・官僚政治の愚民化政策が作り出した愚民”という認識では この問題は解決しないと思っています。
教育問題こそ、自分はどうするのか、自分の身の回りの子供達や若い人達を どのように育てるかの問題につながっていると思うのです。ところが、こういう意識が 最近 特に乏しくなってきたように思うのです。
例えば 人々の公共の場でのマナーの悪さが 最近 非常に悪くなって来たように思うのですが、これは相互に 態度の悪い人を注意する空気が希薄になってきたことが 大きな要因ではないかと思います。マナーの悪い人に率先して注意して その場で改めさせる雰囲気が無くなってきているのです。1980年代以前は、結構 マナーの悪さに対し、非難の目があり、時に注意する声もあったように思うのですが、最近は それが全く無くなってしまった印象です。例えば、最近は ショルダー・バックや中にはリュック・サックを電車内では手に持たずに 肩に掛けたまま乗車する人がほとんどですが、以前は そういうことをすると明らかに嫌な顔をされたように記憶しています。そして普通の人は、その雰囲気を察知して そういう行為を改めたものです。しかし、最近はKYという言葉が示すように、周囲の不快感を感じ取れないのか 平気で不快な行為をし続ける人が出てきて、それに対し声を出してまで注意する人がいなくなりました。それが またKY度を上げると言う悪い循環になったのではないかと思うのです。
つまり、最近は その場をやり過ごして関わらない、その意識が 社会的に蔓延して 様々な問題が放置され 解決せずに先送りされて 結局 緊張感のない社会が醸成され、日本人や日本社会全体の劣化につながったような気がします。その結果 今や、年配者すらマナーが悪くなって、率先して悪行を為しているような観すらあります。最近の年寄は“最近の若いものは・・・”ということすら口にしなくなりました。これは 最近の年寄自身がワカモノ化して小さな利得に味をしめていることにもあるような気がします。
この目前の非を非として非難しない現象を“劇場民主主義”と呼んで 日本社会の大きな欠陥だと指摘した人がいました。
教育問題は そういった足下で、“あなたなら、どうする?”という根本的課題に関わっていると思うのですが いかがでしょう。自民党政権や官僚も 戦後体制も 放置され、先送りされ 劣化してしまいました。そういった 放置、先送り自体が 結果として自分達自身を堕落させることにつながっているのだと思うのです。日本社会全体が どんどん劣化して行っているような気がしてなりません。かつての世界第2の地位を占めた大国が どんどん劣化していることと重なるイメージです。
しかし、これは 結構 難問だと思います。私も 電車内で態度の悪い人に どう接するべきか、その人に注意することで逆切れされ危害を加えられても 周囲から見捨てられる可能性のある社会では 関わらない方が 良いのではないかと思っていますので・・・・・。君子危うきに近寄らず!
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 2010年、明け... | JALの再建に思... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |