The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
オーケストラ指揮者のリーダーシップ―朝比奈隆、藤野栄介の著書を読んで
先日、と言っても1ヶ月以上前だったと思うが、ある音大の指揮科の学生の実習の様子を放映していた。実際に指揮をさせ、そのパフォーマンスを見て、卒業が決まるものだったように記憶しているが、学生に対する評価が 全人格的な視点であったため、その指導の迫力に驚倒したのだった。そこで、はじめて オーケストラ指揮者こそ、強烈なリーダー・シップが要求されるものだということに気付いた次第であった。同時に、自らの不明に何たることかと恥ずかしさも感じたものだった。
そしてその後 指揮者として著名な人の著書を色々物色した。しかし、それらの著書は殆どが それぞれの著名指揮者達が時々に感じた四方山話や音楽に関する話題に終始しているような本ばかりのようで、困惑してしまったのだった。さりとて 音楽の専門知識もないので、いわゆる“指揮法”などといった本を読んで悩まされる訳にはいかない。
困り果てて 図書館で見つけたのが、関西に所縁の深い朝比奈隆氏の“指揮者の仕事”だった。標題から 何とか求める内容が書かれているかも知れないと思ったのだ。音楽、特にクラッシックというものに対して 私は殆ど中学生レベルの域を脱していない。なので、こういった書籍に触れることで異領域にかなり分け入った気分を持つことができた。これも読書の醍醐味といったところだろうか。
朝比奈氏は 東京出身で、京都大学法学部で勉学、一旦阪急電鉄に就職。電車の運転も経験した後、2年で退社して京大哲学科に学士入学。この時に 本格的に音楽家になることを目指したとのこと。音楽には子供の頃からバイオリンに親しみ、東京高校高等科時代には弦楽四重奏団に参加していたという。又、サッカー、陸上、登山、馬術に打ち込み多才な側面を見せる。この時 亡命ロシア人指揮者エマヌエル・メッテルの影響を強く受け、京大を目指したとのこと。
バイオリン奏者として、アレクサンドル・モギレフスキーらに師事し修業。やがて大阪室内楽協会を設立し、ビオラ奏者となり、その後 現大阪音大で教鞭をとるようになった。その内に、指揮者を志すようになり音大演奏会で指揮。メッテルの後任指揮者として、京大交響楽団の常任指揮者に就任。
その後は指揮者としてNHK大阪の専属指揮者、上海交響楽団、ハルビン交響楽団の指揮者を歴任。
戦後は、関西における音楽活動の先頭に立つ。特に大阪フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者、音楽監督を務め、そこをベースに海外活動も活発に行う。
この本“指揮者の仕事”は こうした朝比奈氏の半生の思い出と それに併せて、音楽や指揮への考え方や対処法を述べたものである。同氏の強調するのは 交響楽を確立したベートーベンの偉大さである。特に“クラッシックは19世紀で終わった”というかシューベルト、ブラームスで出尽くしており、ワーグナーは要領よく良いところを寄せ集めたのだ、と言っている。これに対し、ブルックナー、マーラーは少し違っていると言っている。そして、シェーンベルク等 前衛作曲家が新しいスタイルを試みたが試作品でしかなく、一般人をとらえることもできなかった、としている。大フィルのブルックナーが有名になっていった背景には、おそらく朝比奈氏のこのような理解によるものがあり、またフルトベングラーとの邂逅も その解釈に大きな影響を受けたと告白している。
とにかく、朝比奈氏の多才さの中で、取り分け音楽的才能が図抜けていて、しかも日本の文化的様相が戦前から次第に西欧化する中で、クラッシック・ファンが増えて行った状況下で 幸運な生涯を送れた人であったと言える。それにしても、大阪で朝比奈氏の育て上げたクラッシックの伝統に、大阪市施政改革の嵐がどのように影響を与えるのか気懸りではある。
ただし、この本では、指揮者としての仕事をエピソードの間に何気なく書かれてはいる。又、リーダー・シップについて それこそ音楽音痴の私には それらしいことが書かれているなぁ、とは分る部分はあるのだが、中々“あぁ、これなのだ!”とピンと来るものは少なかった。
そこで、読んだのが標題の藤野栄介著“指揮者の知恵”であった。これこそ、指揮者は如何にして指揮者たりえているのかを 私のような音楽音痴にも分かるように書かれていて良書であると感じたのだった。
読み終えた本の印象は、さすがに音楽家・指揮者の書いた本で、主旋律が繰り返し登場しつつ、第二テーマと絡まりながら、時に世界のマエストロの実例を織り交ぜつつ、それが最終には高貴な結論というか、著者の目指す高みの境地の開示へといたる、あたかも交響楽を聴いているような印象を受けるものであった。全体のトーンはラベルのボレロのような感じだが、決して単調な旋律の繰り返しではなく、実に巧妙な構成で 難しい指揮者の仕事をズブの素人にも分るように出来上がっているとの印象である。指揮者を目指す若い人には参考に先ず一読を薦めたい本だと思う。
ここでいう主旋律とは、この本で随所に登場する“指揮者は~”、“指揮者の仕事は~”等 指揮者のなすべきことや本分についての記述であり、副旋律と言うべき第二テーマは、オーケストラの楽員との関係性についてであり、世界の著名なマエストロ達がこうしたテーマに具体的にどのように対処してきたかを諸所で明らかにしてくれている。
最初に登場する主旋律は“指揮者の仕事とは、「理想とする音楽を追究し、音楽に自らの生を捧げる」”ことという文章から始まる。そして最後には“優れた指揮者は、そうした(不都合な)状況に不満をもって解決しようとするのではなく、その先にあるもののために指揮を”する。“指揮者が存在する意味は、まさにそこにあって、ひとり一人自分の役割を全うしようとする演奏者に、「演奏する意味」を与え、それを評価し、さらによいものにするための手助けをするために存在する”と言って終わっている。要するに、作曲家の理想とする音楽のイメージを具体的に描き、それを具現化するために公演中の一瞬、一瞬を大切に維持することだと言っている。音楽は時間芸術であり、一期一会の再現プロセスで即興性が求められる。指揮者はその“演奏の一回性”のために研鑽、修養することになるのだ。
また藤野氏によれば、指揮者に必要な能力とは、 “対位法・和声・様式・音感・歌唱・管弦楽法・ピアノ、そして弦楽器の演奏を最低一つはマスターするなど、たくさんの能力を求められる”。“さらに、音楽史と世界史に深い理解と見識を持ち、母国語を含む数ヶ国語が話せることがのぞましく、また、決断力・交渉力マネジメント力など、知識で補えない「人間力」とも言うべきものも必要で・・・・・・つまり、指揮者に必要な能力には枚挙にいとまがない”。“これらは、つけ焼刃的な勉強では獲得できないから、日夜これらの勉強や現場での経験を重ねなくてはならない”。と言っている。確かに、私から見れば、既に超人である。音楽史や世界史、語学が何故必要かというと、それは作曲家の殆どを占める欧米人の感性を理解するのに必須であり、作られた楽曲の解釈というより“再創造”に必要だからである、と説明している。勿論、それらを日本人として解釈し直してみせるという姿勢も必要なのだろう。
次に指揮者とオーケストラ楽員との関係性についてであるが、この部分が私が求めるリーダー・シップの真髄であろう。
楽員は“指揮者の能力や音楽性を懐疑的な目で見ている。”それは、“各楽器の演奏家たちは、楽器の演奏という点では、指揮者がかなうべくもない、「その道のプロフェッショナル」である”からであり、“「これは」と感じる指揮者が指揮する幸運に恵まれる機会より、「またか」という経験が多いから、自ずと初めて出会う指揮者への視線は厳しくなってしまう”からだという。
だが、一方では、“(楽員すなわち)すべての音楽家という存在は、音楽を愛しているものだから”、“多少のいざこざがあっても、感情の波がざわめいても、コンサートではできる限り最上の音楽を奏でようとする”ものだという、いわば演奏家としての職人気質というものであろう。それを真摯にくすぐるところが、ポイントであろうか。だから見え透いた口先のおだては、失敗すると言っている。
だからこそ、指揮者はその本分を誠実に示さなければならないと藤野氏は言う。つまり、“最初の一振りから自らの思い描く音楽を誠実かつ強烈に提示し、楽員たちを指揮者の音楽(指揮者が作曲家のビジョンだと感じていること)へと巻き込”み、“指揮者が確固たる音楽を内に秘めていることが、オーケストラ側に伝われば、彼らは自然と指揮者の曲のイメージやビジョンを理解し、そのビジョンにみずから一体化しようと”するものだという。また楽員との関係性を保つ上で重要なテクニカルな事柄を結構細かく説明してくれている。
また、楽曲の“再創造”には 指揮者とオーケストラの馴れ合いは不可であり、ある種の緊張関係が必要であるとしている。このため、極端な場合は、本番前のリハーサルをやらないこともあるという。
この藤野氏の本を読んで、改めて朝比奈氏の本に書かれていたことの重要性が理解できるところが随所にあったことが分かった。読むべき本の順序を間違えたようだ。
例えば、藤野氏は“指揮者には楽譜の版に関するある程度の知識が必要で、楽譜(総譜)も作曲家によって信頼できる出版社のものを選ぶべき”だとしているが、朝比奈氏もブルックナーの譜面は、必ず初版を使用すると言っている。これは、朝比奈氏によれば、フルトベングラーに教えられたとのことで、初版譜面でなければ、その骨太な感覚が十分でないからだ、と言っている。
また藤野氏は、“カラヤンも、指揮者とオーケストラの関係を「馬(オーケストラ)に乗って、塀を飛び越えようとする騎手(指揮者)」にたとえている”。“馬をうまくコントロールして、塀の手前で跳躍させることが騎手の役割ですが、馬がまさに跳躍する瞬間、騎手は自分の重さを、つまり自分の存在を馬に感じさせてはいけない”というエピソードを紹介しているが、朝比奈氏も自分の乗馬の経験から 同じようなことを話題にしていた。特に、カラヤンのこの部分は、朝比奈氏が“指揮というのは、最初の合図を出しておいたら、あとはいらない部分もある。あまりバタバタ動くなと、昔よく師匠のメッテル先生から言われたものです。”と言っていることにも符合するように思う。プライドある演奏者に任せることの重要性は藤野氏も度々指摘している。
やっぱり、リーダー・シップの基礎は、取り組むべき課題への真摯な姿勢と、絶えざる研鑽により一目置かれる存在感を示すことであろうか。そして、一から十まで口うるさく指導するのではなく、ある部分は相手に任せる度量の大きさも必要ということかも知れない。その頃合を知るには経験が必要となるのだろう。

そしてその後 指揮者として著名な人の著書を色々物色した。しかし、それらの著書は殆どが それぞれの著名指揮者達が時々に感じた四方山話や音楽に関する話題に終始しているような本ばかりのようで、困惑してしまったのだった。さりとて 音楽の専門知識もないので、いわゆる“指揮法”などといった本を読んで悩まされる訳にはいかない。
困り果てて 図書館で見つけたのが、関西に所縁の深い朝比奈隆氏の“指揮者の仕事”だった。標題から 何とか求める内容が書かれているかも知れないと思ったのだ。音楽、特にクラッシックというものに対して 私は殆ど中学生レベルの域を脱していない。なので、こういった書籍に触れることで異領域にかなり分け入った気分を持つことができた。これも読書の醍醐味といったところだろうか。
朝比奈氏は 東京出身で、京都大学法学部で勉学、一旦阪急電鉄に就職。電車の運転も経験した後、2年で退社して京大哲学科に学士入学。この時に 本格的に音楽家になることを目指したとのこと。音楽には子供の頃からバイオリンに親しみ、東京高校高等科時代には弦楽四重奏団に参加していたという。又、サッカー、陸上、登山、馬術に打ち込み多才な側面を見せる。この時 亡命ロシア人指揮者エマヌエル・メッテルの影響を強く受け、京大を目指したとのこと。
バイオリン奏者として、アレクサンドル・モギレフスキーらに師事し修業。やがて大阪室内楽協会を設立し、ビオラ奏者となり、その後 現大阪音大で教鞭をとるようになった。その内に、指揮者を志すようになり音大演奏会で指揮。メッテルの後任指揮者として、京大交響楽団の常任指揮者に就任。
その後は指揮者としてNHK大阪の専属指揮者、上海交響楽団、ハルビン交響楽団の指揮者を歴任。
戦後は、関西における音楽活動の先頭に立つ。特に大阪フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者、音楽監督を務め、そこをベースに海外活動も活発に行う。
この本“指揮者の仕事”は こうした朝比奈氏の半生の思い出と それに併せて、音楽や指揮への考え方や対処法を述べたものである。同氏の強調するのは 交響楽を確立したベートーベンの偉大さである。特に“クラッシックは19世紀で終わった”というかシューベルト、ブラームスで出尽くしており、ワーグナーは要領よく良いところを寄せ集めたのだ、と言っている。これに対し、ブルックナー、マーラーは少し違っていると言っている。そして、シェーンベルク等 前衛作曲家が新しいスタイルを試みたが試作品でしかなく、一般人をとらえることもできなかった、としている。大フィルのブルックナーが有名になっていった背景には、おそらく朝比奈氏のこのような理解によるものがあり、またフルトベングラーとの邂逅も その解釈に大きな影響を受けたと告白している。
とにかく、朝比奈氏の多才さの中で、取り分け音楽的才能が図抜けていて、しかも日本の文化的様相が戦前から次第に西欧化する中で、クラッシック・ファンが増えて行った状況下で 幸運な生涯を送れた人であったと言える。それにしても、大阪で朝比奈氏の育て上げたクラッシックの伝統に、大阪市施政改革の嵐がどのように影響を与えるのか気懸りではある。
ただし、この本では、指揮者としての仕事をエピソードの間に何気なく書かれてはいる。又、リーダー・シップについて それこそ音楽音痴の私には それらしいことが書かれているなぁ、とは分る部分はあるのだが、中々“あぁ、これなのだ!”とピンと来るものは少なかった。
そこで、読んだのが標題の藤野栄介著“指揮者の知恵”であった。これこそ、指揮者は如何にして指揮者たりえているのかを 私のような音楽音痴にも分かるように書かれていて良書であると感じたのだった。
読み終えた本の印象は、さすがに音楽家・指揮者の書いた本で、主旋律が繰り返し登場しつつ、第二テーマと絡まりながら、時に世界のマエストロの実例を織り交ぜつつ、それが最終には高貴な結論というか、著者の目指す高みの境地の開示へといたる、あたかも交響楽を聴いているような印象を受けるものであった。全体のトーンはラベルのボレロのような感じだが、決して単調な旋律の繰り返しではなく、実に巧妙な構成で 難しい指揮者の仕事をズブの素人にも分るように出来上がっているとの印象である。指揮者を目指す若い人には参考に先ず一読を薦めたい本だと思う。
ここでいう主旋律とは、この本で随所に登場する“指揮者は~”、“指揮者の仕事は~”等 指揮者のなすべきことや本分についての記述であり、副旋律と言うべき第二テーマは、オーケストラの楽員との関係性についてであり、世界の著名なマエストロ達がこうしたテーマに具体的にどのように対処してきたかを諸所で明らかにしてくれている。
最初に登場する主旋律は“指揮者の仕事とは、「理想とする音楽を追究し、音楽に自らの生を捧げる」”ことという文章から始まる。そして最後には“優れた指揮者は、そうした(不都合な)状況に不満をもって解決しようとするのではなく、その先にあるもののために指揮を”する。“指揮者が存在する意味は、まさにそこにあって、ひとり一人自分の役割を全うしようとする演奏者に、「演奏する意味」を与え、それを評価し、さらによいものにするための手助けをするために存在する”と言って終わっている。要するに、作曲家の理想とする音楽のイメージを具体的に描き、それを具現化するために公演中の一瞬、一瞬を大切に維持することだと言っている。音楽は時間芸術であり、一期一会の再現プロセスで即興性が求められる。指揮者はその“演奏の一回性”のために研鑽、修養することになるのだ。
また藤野氏によれば、指揮者に必要な能力とは、 “対位法・和声・様式・音感・歌唱・管弦楽法・ピアノ、そして弦楽器の演奏を最低一つはマスターするなど、たくさんの能力を求められる”。“さらに、音楽史と世界史に深い理解と見識を持ち、母国語を含む数ヶ国語が話せることがのぞましく、また、決断力・交渉力マネジメント力など、知識で補えない「人間力」とも言うべきものも必要で・・・・・・つまり、指揮者に必要な能力には枚挙にいとまがない”。“これらは、つけ焼刃的な勉強では獲得できないから、日夜これらの勉強や現場での経験を重ねなくてはならない”。と言っている。確かに、私から見れば、既に超人である。音楽史や世界史、語学が何故必要かというと、それは作曲家の殆どを占める欧米人の感性を理解するのに必須であり、作られた楽曲の解釈というより“再創造”に必要だからである、と説明している。勿論、それらを日本人として解釈し直してみせるという姿勢も必要なのだろう。
次に指揮者とオーケストラ楽員との関係性についてであるが、この部分が私が求めるリーダー・シップの真髄であろう。
楽員は“指揮者の能力や音楽性を懐疑的な目で見ている。”それは、“各楽器の演奏家たちは、楽器の演奏という点では、指揮者がかなうべくもない、「その道のプロフェッショナル」である”からであり、“「これは」と感じる指揮者が指揮する幸運に恵まれる機会より、「またか」という経験が多いから、自ずと初めて出会う指揮者への視線は厳しくなってしまう”からだという。
だが、一方では、“(楽員すなわち)すべての音楽家という存在は、音楽を愛しているものだから”、“多少のいざこざがあっても、感情の波がざわめいても、コンサートではできる限り最上の音楽を奏でようとする”ものだという、いわば演奏家としての職人気質というものであろう。それを真摯にくすぐるところが、ポイントであろうか。だから見え透いた口先のおだては、失敗すると言っている。
だからこそ、指揮者はその本分を誠実に示さなければならないと藤野氏は言う。つまり、“最初の一振りから自らの思い描く音楽を誠実かつ強烈に提示し、楽員たちを指揮者の音楽(指揮者が作曲家のビジョンだと感じていること)へと巻き込”み、“指揮者が確固たる音楽を内に秘めていることが、オーケストラ側に伝われば、彼らは自然と指揮者の曲のイメージやビジョンを理解し、そのビジョンにみずから一体化しようと”するものだという。また楽員との関係性を保つ上で重要なテクニカルな事柄を結構細かく説明してくれている。
また、楽曲の“再創造”には 指揮者とオーケストラの馴れ合いは不可であり、ある種の緊張関係が必要であるとしている。このため、極端な場合は、本番前のリハーサルをやらないこともあるという。
この藤野氏の本を読んで、改めて朝比奈氏の本に書かれていたことの重要性が理解できるところが随所にあったことが分かった。読むべき本の順序を間違えたようだ。
例えば、藤野氏は“指揮者には楽譜の版に関するある程度の知識が必要で、楽譜(総譜)も作曲家によって信頼できる出版社のものを選ぶべき”だとしているが、朝比奈氏もブルックナーの譜面は、必ず初版を使用すると言っている。これは、朝比奈氏によれば、フルトベングラーに教えられたとのことで、初版譜面でなければ、その骨太な感覚が十分でないからだ、と言っている。
また藤野氏は、“カラヤンも、指揮者とオーケストラの関係を「馬(オーケストラ)に乗って、塀を飛び越えようとする騎手(指揮者)」にたとえている”。“馬をうまくコントロールして、塀の手前で跳躍させることが騎手の役割ですが、馬がまさに跳躍する瞬間、騎手は自分の重さを、つまり自分の存在を馬に感じさせてはいけない”というエピソードを紹介しているが、朝比奈氏も自分の乗馬の経験から 同じようなことを話題にしていた。特に、カラヤンのこの部分は、朝比奈氏が“指揮というのは、最初の合図を出しておいたら、あとはいらない部分もある。あまりバタバタ動くなと、昔よく師匠のメッテル先生から言われたものです。”と言っていることにも符合するように思う。プライドある演奏者に任せることの重要性は藤野氏も度々指摘している。
やっぱり、リーダー・シップの基礎は、取り組むべき課題への真摯な姿勢と、絶えざる研鑽により一目置かれる存在感を示すことであろうか。そして、一から十まで口うるさく指導するのではなく、ある部分は相手に任せる度量の大きさも必要ということかも知れない。その頃合を知るには経験が必要となるのだろう。

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