goo

本郷和人・著『合戦の日本史』を読んで

首相訪米トランプ面会、大過なく終わってホッと一息、と言ったところか。宗主国当主に植民地総督の謁見の成功?
まぁ、元々トランプ氏にとって日本の存在が目障りではなかったので、そんなに騒ぎにはなるまいと見ていたが、やっぱりその通りだった。基本的に日本の貿易収支が不調で、対米では黒字のようだがそもそもが大した大きさでもないのでトランプ氏にとっては目障りではなかった。本当はトランプ氏にとって経常収支の方が問題なのに、不思議に彼はそれを気にしてはいなかったので、問題にはならなかった。それより、対米投資が巨額であることに、目を奪わせる作戦は見事であった。対米投資が巨額だというのは、日本の対米経常収支がいかに巨額であるかの証であるにもかかわらずなのだ。
また、“日鉄のUSスチール買収”についても前日にトランプ氏がUSスチールのCEOと面会していた時点で、これで大丈夫と分かっていた。それをここでも、“日鉄のUSスチール買収(日本のUS買収)”を「投資」へと読み変えさせたのもお見事!
世界がこのサギまがいの面会をどう評価し、その真相をトランプ氏が知った時、どうなるかは・・・だって!ホントウのことを言えば怒り出すに違いないから!・・・まぁ、良かった!良かった!

八潮市の道路陥没事故、とうとうマスコミの報道対象から外れてしまった。転落したトラックの運転手の救出より、救出側の安全を重視した結果、未だに運転手の救助が出来ていない。恐らく・・・・・・だが、この埼玉県の対応は如何に?!
埼玉に通りかかっただけで、殺される!やっぱり、ダサイタマには住みたくも、近寄りたくもない!寄ればヤバイ!の一言。これを、マスコミは批判していない。この国は一体どうなっているのか?やっぱり、この国の底は抜けっぱなしなのだろうか。

ネットでは、いまだにフジTVで持ち切り。この現象もいかがなものか。最早、新たな改革案が出てくるか、影の実力者の辞任か、関係者実名報道がなければ、或いは、実際のフジTVの崩壊が起きる以外に取り上げる余地はあるまいに・・・・。



さて、今回は本郷和人・著『合戦の日本史―城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』を紹介したい。日本史で画期を成してきたのは合戦であろう。日本史そのものが合戦で成り立っていると私は認識している。
ところが、本書“はじめに”に、戦前・戦中には“歴史学もまた軍部と密接に関わり過ぎたことの反省から、戦後はより実証的かつ科学的な歴史学が目指されるようになりました。そのなかから「軍事史」についてちゃんと科学的に考える研究もでてきてしかるべきだったのだろうと思います。しかし、死者300万人以上とも言われる太平洋戦争というものがあまりにも大きなトラウマとなったためか、歴史学の研究室は、軍事史を正面から扱うことを避けるようになりました。”“歴史に学ぶということは、『失敗の本質』の著者たちのように、同じ過ちを繰り返さないための教訓を引き出すという一面もあります。そのような意味でも、日本の軍事史に改めて取り組むことは重要な作業だと私自身も考えています。”と言っている。
これには当然、私も大いに同意したい。
この同じことは、第一章“なぜ日本史では軍事研究はタブー視されたのか”でも語られる。“日本史そのものが合戦で成り立っている”はずなのに、そういう発想になったのだろうか。“戦後になって多くの大学では「軍事研究はやってはいけない」という雰囲気が漂っていた”というのだ。確かに多くの日本人は“戦争は絶対にダメだ!”と言い思っていたのは事実だが、“戦争は絶対にダメだ”からこそ、“平和のために戦争を研究する”という論理的冷静さが必要だったのではあるまいか。変な感情論が横行していたのだ。
しからば、戦前の軍事史研究がきちんと科学的になされたのか、というと神話が主体の“皇国史観”が力を持ち、武勇伝の“物語”を重視した歴史観が流行った。川中島の武田・上杉の一騎打ちや、桶狭間の信長の奇襲、一の谷の義経の奇襲が大いに語られたが、“実際にこれらがどのように実行されたのか、学問的に価値のある史料からは解き明かされて”いない、という。“文学的、英雄的なロマンを実際の戦争にも当て嵌めてしまった”のだ。(最近ようやく、一の谷がどのあたりで行われたが明らかになってきつつあると聞いている。桶狭間も似たような状況だろう。)その結果が、“元寇の記憶において、いざとなれば、神風が吹き、日本は守られる”という信仰を生み、悲劇的結果に終わったのだ。“最後は精神論のみで戦わされることとなったのも、こうした幻想がまことしやかに語られていたから”なのだ。“その結果、戦後の歴史学は物語としての歴史に傾いた皇国史観を徹底的に批判し、実証性に基づいた科学としての歴史をきちんとやらなければいけない”となった。
ところが、今度はその反動で“戦争が連想される軍事というものは徹底的に忌避された。軍事につきまとう物語性が非常に嫌われ、軍事研究自体を遠ざけ、敬遠する風潮が生まれた”というのだ。私も日本人はこのように感情論に右往左往する癖があるのではなかろうか、と強く思うのである。

だが、“現在、米中が激突する中で、地政学的に両者の中間に位置する日本において、これまでのように米国頼みで自衛力を軽んじている訳にはいかない――といった方向性も打ち出され、集団的自衛権の一部容認なども行われたわけ”だ。ところが、“自衛隊をはじめとする軍事を無暗に批判するのではなく、科学的にかつ体系的に”議論して方向転換を行うべきであったが、一瞥の反省もなく行われた。
そして憲法は取り残され、日本の法体系はぐじゃぐじゃのままとなった。これはこの国の感情的国民性のなせる業なのであろうか。いわば、国家としての体をなしてはいないのだ。
そうだからこそ、怪しい人物が国務大臣となり、米中の狭間で暗躍することになっているのではあるまいか。

閑話休題、著者は次のように言っている。“現在の日本史における花形はといえば、恐らく外交史だろう”。今や鎖国の実態について議論が盛んだという。クラウゼヴィッツの言うように“戦争は政治の延長だ”となると、“諸外国との関係で言えば、外交とは政治であり、これがこじれた場合には、戦争の可能性が高まってくる。その時にやはり重要なのはリアルな軍事史であり、合戦のリアルを知ること”が大切だ、と言っている。歴史的軍事史の研究は必須なのだろう。

そして、その研究で重要なのは、“合戦(戦争)のリアル”つまり、戦争の当事者は直接に“殺し合い”に対峙しなければならないという現実があるということ。戦術・戦略をシミュレーション・ゲームのようにボタン一つで思い通りに動かすのではない、ということなのだ。“実際の生身の人間を相手にして行われる軍事というものも、深い人間理解なくしては成り立たない”ということを肝に銘じておくべきだと繰り返し言っている。

本書の紹介を例によって紀伊国屋書店のウェッブ・サイトから次のように示す。 
[内容説明]
戦後、日本の歴史学においては、合戦=軍事の研究が一種のタブーとされてきました。このため、織田信長の桶狭間の奇襲戦法や、源義経の一ノ谷の戦いにおける鵯越の逆落としなども「盛って」語られてはいますが、学問的に価値のある史料から解き明かされたことはありません。城攻め、奇襲、兵站、陣形…。歴史ファンたちが大好きなテーマですが、本当のところはどうだったのでしょうか。本書ではこうした合戦のリアルに迫ります。

[目次]
第1章 合戦の真実(合戦とは何か;なぜ日本史では軍事研究はタブー視されたのか;合戦は人間の「命のやりとり」であることに立ち返って考える;合戦における勝敗の大前提;勝利の大原則1 戦いとは数である;勝利の大原則2 経済を制した者が勝利する)
第2章 戦術―ドラマのような「戦術」「戦法」はあり得たか(戦術のリアルを考える;いかに兵の士気を上げるか;奇襲戦のリアルを考える)
第3章 城―城攻め、籠城・補給・築城(なぜ城攻めをするのか;城郭とは何か;籠城とは何か;「本城+1」の戦いとは何か;兵站が勝敗の鍵を握る;築城戦を考える)
第4章 勝敗―勝利に必要な要素とは(合戦の勝敗を改めて考える;敗戦は指揮系統の崩壊によって引き起こされる;農民たちの士気を上げる)

[著者等紹介]本郷和人[ホンゴウカズト]
1960年東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。文学博士。東京大学、同大学院で石井進氏、五味文彦氏に師事。専攻は日本中世政治史、古文書学

合戦は“その始まりは個人間の喧嘩――どうにも気に食わない相手が居る、だから殴りつける。それが殺し合いになり、武器を使う。互いに武装し合い、味方を引き連れ集団戦になる。相手の命を奪えば終わりにならず、相手の権利を奪うなり、ダメージを与えるなど、さまざまな駆け引きをともなう戦いになる。”これが合戦になる。
命の奪い合いは怖い、飛び道具を使って命を奪う感覚を薄めたいとばかりに、弓矢、鉄砲が登場する。それが合戦のリアルだという。
この本では残念ながら古代は登場しない。著者の得意の平安時代後期から鎌倉時代までの合戦が主体になっている。その当初は“一騎打ち”が常だった。それが、元寇によって一騎打ちはなくなり、集団戦へと変貌する。武器も長刀から槍へと変わっていく。長刀を振り回すと誤って味方を倒してしまいかねない。集団戦に推移するとともに槍で、一方向に突撃するようになったという。
合戦は総力戦へと変わって行けば“戦いは数である”となっていく。しかも、領国の石高で農民兵を動員できる数字は決まってくる。40万石で1万人=100石あたりで2.5人≒100石で3人。
武田信玄は“20年かけてやっと甲斐、信濃の60万石を手に入れたが”、織田信長は尾張57万石、美濃60万石、伊勢北半分30万石、計およそ150万石。“仮に信長と信玄が正面から戦えば、4万人対1万5千人と圧倒的な兵力差”だったことになり、信長が天下統一にリーチを懸けられたのは当然だっただろう、という。

野戦では、兵力差がそのまま勝敗を決する要因になるが、城を構えて籠城すれば、数倍(3~5倍)の敵を相手にできる。その日本史上最初の好例が楠木正成の千早城*だという。但し、兵站の問題は残るが、食料・水の準備があれば戦える。その好例が、後北条氏の小田原城。“総構え”で町が丸ごと白の内側にあるので、城内に田畑もあり再生産が可能なのだ。上杉勢は10万、武田勢は3万で包囲したことがあったが、逆に攻める側の補給が尽きて退却を余儀なくしたという。戦国時代は武将の拠点として重要だった。

*それまでの鎌倉時代までの城は自然の要害を利用した山城で柵などの簡単な防備しかなく、大軍で攻めれば1~2日で陥落するようなものしか無かった。元寇の時の防塁すら人の背丈ほどの簡単な石塁だった、という。

“城とは、①敵対する相手自身が守りを固めている居城と、②周囲に城下町などが発達した領地一帯を統治するための城、そして③敵国との国境線の守りを固める境目の城などがある。”
“なぜ、城を攻めるのかの理由については①敵の命を奪うための城攻め、②敵が持っている経済的な利潤を奪うための城攻め、③敵の領土に侵攻するために行う城攻め”があるだろうという。

著者は“本城+1”の戦い方があるのではないか、と言っている。つまり、居城と相手をほんろうするべき出先の城で戦うというもの。
武田信玄は海津城で謙信の侵攻を抑える一方で、徳川の駿河の侵攻を開始した。
その信玄に対し徳川家康は浜松城に籠城し、二俣城に兵力を集中し前哨戦に据えた。これで後ろを見せた武田軍を浜松城から打って出て包囲するかに見えたが、信玄は待ち構えて徳川本隊を撃退。しかし、二俣城陥落に時間を費やし、その間家康は信長の援軍を得られた。しかし、そのさなかに信玄は亡くなる。
といったような事例が結構あるというのだ。

最後に、著者は次のように言っている。“徳あるたたかい。そんなものがあるのかどうか、ぼくにはわかりません。ですが事実として、人間は戦い続けてきたし、これからしばらくも地球上から戦いがなくなることはなさそうです。ならば、ただひたすら、戦いを開くと決めつけて見ないようにするのは間違いだと思います。自分の内なる闘争本能を理解し、過去の合戦を科学的に分析することこそが、必要ではないでしょうか。戦いの無い未来を創る。そのためにも、冷静な合戦研究がなされるべきだと思えるのです。”
歴史に定量的な要素を持ち込み、武将達の戦力分析してその戦い方を評価しているのは大変面白かった。また“戦いの科学的分析”すなわち戦史の研究は、著者の訴える通り今後も必須のことなのであろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 25年1月に鑑賞...   
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。