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ひろさちや・著『一遍を生きる』を読んで

コメ価格上昇問題は一向に解消しない。これは農水省がウソを言っているせいではないかの疑惑が出ているhttps://news.yahoo.co.jp/articles/83a73c3dc14642cd5f0340e105b604ae69bc765b?page=1 というのだ。どうやら大抵のマスコミもコロッと騙されているようなのだ。
真相は、生産量減少で既に需要量を下回っているというのだ。それにもかかわらず減反政策を未だ進めようとしているのか。コメ価格維持ではなく、高騰しているにもかかわらず、未だ反国民的行動・政策を執ろうとしているのだ。要は、農水省も実態を把握できてはいないのではないかという疑惑になりかかっている。こうなると最早、アホ!バカに着ける薬はない!事態は深刻ではないか!?
農水省は24年産米は18万トン増産できたと言い、集荷量で21万トン前年より不足している、と言っている。これは差し引き約40万トンどこかへ行った?ことになる。それが新規参入の転売ヤーの買い溜めだというのだが、1万トン1年間買い溜めるのに1億円の資金が要るのに目先のことにそんなに資金を用意する奴が居るだろうか?しかも、コメのトレーサビリティは確実にする法規制があるので、新規参入の転売ヤーの買い溜めは確実にフォローできるはずだという。農水省はそういう由々しき事態に調査もせずに新規参入の転売ヤーの買い溜め説を流しているのだ。
農水省も明らかに日本のディープ・ステイトなのだという、馬脚を現しただけなのだ。それともやっぱりアホ!なのか?



さて、今回紹介するのは日本仏教のひろさちや氏の“祖師を生きるシリーズ”の『一遍を生きる』https://books.kosei-shuppan.co.jp/book/b601794.htmlである。
これまで仏教の“お勉強”の中で、読んだ祖師(“祖師を生きるシリーズ”に限らない)は、確か最澄、空海、法然、親鸞、道元だったと思う。世にいう8祖師のうちまだ5人か。この内、念仏系だけでもコンプリートしておくか、・・・てな訳で一遍を読んでみることにしたのだった。一遍は私には、日本史の教科書で、踊る念仏・時宗の祖師、という知識しかなかった。何で踊るのか?それだけで何やら妖しい雰囲気で異端の臭いがする。だが、この際、念仏コンプリートで読んでみるべし・・・念仏にこだわるのは、我が家の宗旨が、あの謙信も恐れた越中の一向宗だったこともある。
いつものように、以下に同書の概要(紀伊国屋書店Webサイト)https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784333028641 を記す。

【出版社内容情報】
一遍上人(1239-1289)の生涯と思想を紹介しながら、その生き方や考え方が現代に生きる私たちにどのような示唆を与えてくれるのかを解明する。「いかにして仏教を人生に活かすか」を長年探究してきた著者の思索の集大成。
【内容説明】
社会から見捨てられた伝染病患者や女性、「不浄」とされた人々へも救いの手を差し延べた、“反体制”の仏教者。書き下ろし「祖師を生きる」シリーズ第5弾。
【目次】
まえがき
第1章 一遍という人
第2章 すべてを捨てる覚悟
第3章 一遍と踊り念仏
第4章 鎌倉から京都へ
第5章 四天王寺から当麻寺、そして故郷へ
第6章 一遍の最後の旅
第7章 一遍の念仏の理論
第8章 一遍に生き方を学ぶ
一遍略年譜
【著者等紹介】ひろさちや[ヒロサチヤ]https://:www.koseishop.com/c/book/ippan/bukyou/50066 
1936年(昭和11年)、大阪府大阪市に生まれ、北野高校を経て、東京大学で印度哲学、仏教学を学び、気象大学校で教鞭を執る。
教員生活の傍ら、「ひろさちや」のペンネームで平易な言葉で多数の入門書を執筆し、一般の人々に仏教を身近な物として再認識させた。ペンネームの由来は、ギリシア語で愛するを意味するPhilo(フィロ)と、サンスクリット語で真理を意味するsatya(サティヤ)の造語である。本名名義での著書・訳書もある。
超宗派の仏教信者の集まりである「まんだらの会」を主宰していたが近年「まんだらの会」活動を終了した。本来の仏教を伝えるべく執筆と講演活動を行なっている。
東京都内の自宅にて肝臓がんのため2022年4月7日(木)に死去。85歳没。

一遍と言えば“遊行の聖(ひじり)”のイメージで語られる。遊行とは遊び歩く、行楽のこと?まして念仏踊りを始めたとなると、遊びの要素が大きくなる。だが否、遊には実は次のように多くの意味が含まれている。“①あそぶ。楽しむ。「遊興」「遊芸」 ②勉学などのために他国へ行く。旅をする。「遊学」「漫遊」 ③自由に動きまわる。「遊軍」「遊星」 ④使われずにいる。「遊休」「遊民」 ⑤つきあう。「交遊」 ⑥あそび。ゆとり。よゆう。” そしてここでは②の意味合いが強いはずだ。だから“行楽”すなわち“山野などに行って遊び楽しむこと。遊山 (ゆさん) 。”とは異なる。少なくとも“楽”は抜きのことではないか。だから“遊行の聖”とは“諸国を遍歴して衆生教化につとめる僧侶。行脚僧(あんぎゃそう)。雲水(うんすい)。”となる。

だから、著者は“はじめに”で、“一遍は私たちに、「あなたは、この人生をうまく生きようと思っているようだが、そのうまくといった考え方そのものを捨てごらん。かといって、まずく、下手な生き方をしろ、というのではないよ。うまい/まずいといった物差しそのものを捨てなさい」と教えてくれているのです。”
つまり、この世のすべてのしがらみも捨てて、身一つで生きて見よ、旅をせよ、となる。“――そうだ、一遍の言いたかったことは、われわれは世間を気にすることはない!もっと自由に生きてよいのだ!ということであった――” “そう考えたとき、わたしは一遍が大好きになりました。”と言っている。

一遍の知名度は低いが、日本仏教史学者の大橋俊雄が“一遍やその教団である時衆が市民権を獲得したのは、戦後のこと”であると言ったと紹介し、民芸研究科の柳宗悦が次のように言ったとしている。“今までの著者は法然上人から親鸞上人への進展を述べることで終わっていたのである。しかし念仏の思想は、一遍上人を得てその最後の仕上げを遂げたと私には思える”。
そんなことを言えば、念仏も法然、親鸞が始まりではなく、その前に空也・良源・源信・良忍が居たのではないかと思うのだが・・・日本では古くから念仏思想が結構横行していた?その中で法然、親鸞の寄与度がずば抜けていた?・・・そんなことはややこしいので、ここではお預け。

一遍の“時宗”についても語っている。その意味と由来について、“じつは、それがよく分からない”と言って定説が無いことを示唆し、“ただ"時宗"といった表記が見られるのは、室町時代の15世紀中期以降で、それ以前は"時衆"と書かれていました。”それは六時念仏と関係があると著者の自説を展開。“仏教では一昼夜を六つの時に分けて(4時間ずつ)を交代で不断念仏する。その人々を時衆と呼んだのだろう。”と言っているが、別に“今井雅晴編による『一遍辞典』では、近世以来の時宗教学では、《一遍の思想は臨命終時(命が絶える時に臨む)を重視するので、時衆と名付けた》といった説をとっている。教学は、その宗派の本山が決めるものなのでしかたない”と言っている。こういう話はややこしい説がウソで著者の単純明快な説が当たっているような気がするが、面白い話だ。

一遍は延応元年(1239年)、伊予国道後の宝厳寺で生まれ、幼名・松寿丸、父は河野通広で祖父は通信。河野家は水軍の総帥だった。承久の乱で後鳥羽上皇側だったため、一家は没落。わずかな所領になり、次男の松寿丸は出家させられ、法名を隨縁と名乗った。しばらく故郷の寺で修行し、13歳の時に父の指示で、大宰府の聖達の弟子になった。聖達は浄土教の経典を学ばせるために、肥前清水の華台に1年間学ばせた。聖達も華台も法然の弟子の証空の弟子。なので、浄土宗西山寺派となる。その念仏理論は“一切の邪心なく、念仏すれば浄土に生まれると信じて「南無阿弥陀仏」と称える”こと、これを“白木の念仏”だ、というもの。こうして一遍は14歳から25歳まで聖達の下で半僧半俗の生活をしていた。

河野一族の家督争いに巻き込まれて嫌になり、二人の妾(本人or親族の)の争いの恐ろしさを見、独楽が回っているのを見て輪廻の理を悟り、再出家して信州の善光寺参詣を行う。ここで、二河の図*を描いたという。

*二河の図:唐代の浄土教の大成者の善導の「二河白道」の譬喩を描いた図。群賊悪獣(煩悩)に追われて西に逃げる人の目前に、南に業火の河、北に荒れ狂う水の川の二河があって、その真ん中に一本の細い白い道があり、この道を行くべきか迷っていると、西側に阿弥陀仏が手招きし、後ろの東側から釈迦仏が行けと言っている喩話。

一遍は伊予に戻り、郊外の窪野の窪寺の庵で念仏修行を始めた。この庵の東の壁には善光寺で描いた二河の図を掛けていた。この窪寺で3年過ごし、“十一不二の頌”(悟りの詩)を作った。この第4句:国界平等坐大会は、二河白道の煩悩が追いかけて来る東岸(穢土)から阿弥陀仏の西岸(浄土)を結ぶ白道の喩があるが、実は、東岸即西岸であって、極楽世界と娑婆世界は不即不離、一つであって平等であるに気付いたのだ、という。
その後、伊予国の菅生(すごう)の岩屋に籠って半年を過ごしたという。窪寺で半僧半俗の生活に見切りをつけ、その見切りを岩屋でしっかり確認した、という。

一遍は文永11年(1274年)2月に布教の旅に出た。だが、妻子2名と下人1名、異母弟1名を伴っていた由。文永11年は蒙古襲来の歳だが、一遍関係文書には登場しないという。庶民レベルでは関係のない話だったか。
先ず、摂津の四天王寺で、賦算を始めたという。“賦算”とは、“算(ふだ)を賦(くばる)”ことで、「南無阿弥陀仏」と書かれた名号札(念仏札)を会う人ごとに配ること。この賦算により喜捨を受けることで活動費としていた。
四天王寺から高野山、熊野本宮へと向かう途中、賦算をしているとそれ受け取らない僧が現れた。何故かと問うと、“今、一念の信心が起きない。それにもかかわらず受け取ると、妄語の罪を犯すことになる。”と“信”の本質にかかわることを言った。だが、その僧が受け取らないとなると、他の一般人も受け取ってくれなくなり、喜捨もなくなる。そこで、不本意ながら強引に受け取らせてしのいだという。
だが、そんなことで良かったのか。信心なしで受け取らせるのは単なるビラ配りになってしまう。そこで、熊野本宮大社で第三殿(証誠殿)に籠って神託を受けた。すると長頭巾の白髪の熊野権現から御告げを受けることができた。御告げによれば、“御坊の勧めで一切衆生が往生できるのではない。すでに十劫の昔に法蔵菩薩が正覚を開いて阿弥陀仏となられた時に、一切衆生の往生が確定されている。だから、札を受け取る人の信/不信、浄/不浄にかかわりなくただ配るべし。”と言われた。札を配る相手も差別なく配れ。このお告げにより“いよいよ他力本願の深意を領解した”と悟った、という。
この念仏については、信と行のいずれを優先するかの問題があり、それにかかわる大問題だったという。法然は“念仏為先”と言い、“信によって行(念仏)がなされ、その行によって信が深まる”と考えていた。それに対して親鸞は信を重視して、“念仏を称えようと思う心が起きたその瞬間、既に浄土に救いとられている”と言っている。
この信心は“わたしが阿弥陀如来を信じるのではなく、阿弥陀如来がわたしをして信じさせて下さる”ことによる。それは信心不要論につながると著者は言う。“信心は阿弥陀仏のほうにある”という。“それが一遍の到達した境地”なのだ、と。“自分の心をすっかり捨て去って、ただひたすらに名号(仏・菩薩の称号)によって往生できると考えればやがて確信が生じてくる。これを往生の確信がたつというのだ。”すなわち“念仏が念仏を申すなり”との結論である。これを時宗では――熊野成道(じょうどう)――と呼んでいる、という。
神官が仏教僧に教訓を与え、仏教僧が神社で悟りを得るとは、日本の神仏習合の極みを感じる話だ。そして一遍の遊行では多数の神社に参詣している。しかし、“伊勢神宮や日枝神社、春日大社には参詣していない。・・・これらの神社は国家権力と強く結びついた国家鎮護の神社であり、一遍の考える庶民のための念仏とは相容れないものだからだろう”と言っている。或いは“一遍のような乞食同然の格好では、格式のある神社ではきっと追い返された。一遍はそういうトラブルのあるのをしょうちしていて、行かなかったのだと思う”と言っている。

この境地に達する過程の熊野を去る段階で、一遍は“同行者を追い払い、捨ててしまう”こととした、という。だが、著者はそういう寂しい風景ではなく、妻子をいったん故郷に返し、妻はその後に子供が一人で暮らせる算段をつけた後、一遍を追い、時衆の一人として参加していたのではないかと想像している。そうなれば、当初から一遍が旅立ちで既に巧みにそう企図していたとも思える。

その後、一遍は弟子の信教を得、心細い遊行から離れたという。著者は『アングッタラ・ニカーヤ』に出てくる、釈尊に安蘭若(あらんにゃ:人里離れた森林や原野)で修行をしたいと申し出た優波離(ウパーリ)のエピソードを紹介している。これに釈尊は「あなたに原野はふさわしくない。あなたは教団にあって修行をおこないなさい」と言ったという。孤独に耐えられない人に無理強いしても無駄なことと分かったうえでの話。“一遍もまた、孤独に耐えられない人だった”のではないかという。

一遍と共に遊行するのは30~40人になった。信濃の善光寺に向かうとき、信濃国の伴野か小田切の里で踊り念仏が自然発生的に始まったという。“踊り念仏は、平安時代の空也が始めた”となっているが、確証はない。“一遍がそのまねをしたのではない。踊り念仏は自衆のあいだで自然に発生したもの”であるという。
おどりを舞踊というが、“舞は水平旋回運動を中心としたもので、踊りは上下運動を中心にしている”。“舞は神様を迎えるときに行い、新年の祝いに行う獅子舞がそうで、踊りは鎮魂儀礼の盆踊りとなっている。” “日本の神道では、御先祖の霊は、正月と盆の二度、各自の家に戻って来られる。その霊には、荒御魂と和御魂があって、荒御魂(死後、それほど歳月が経っていない霊魂)を家に迎えるのがお盆であって、正月には和御魂を迎える”と、なっている。

一遍はハンセン病者も差別なく相手にした。そこに女性も大勢含まれた。“男性と女性が一緒に旅をすれば、当然、風紀上の問題が生じる。一遍はその解決に、だいぶ苦労したようだ。にもかかわらず、彼は女性を見捨ててはいない。最後まで、尼僧を遊行に同行させた。”だから、面倒なので女性差別として“女は不浄”として避けたのか、とようやく了解した。男と女の問題は、男自身の問題でもあるのに、専ら女の側の問題として扱ってきたので、それは男の勝手だったのだ。
だが“日本の仏教において、女性の占める役割は大きい”と著者は言う。“日本に仏教が伝来したとき、最初に出家者となったのは女性だった。俗名を嶋という11歳の女性が出家し、善信尼になっている。そしてこの善信尼の弟子として、禅藏尼と恵善尼の二人が出家している。これはたぶん巫女の伝統があったからだ。”と言っている。
“平安時代になって、最澄が桓武天皇と、空海が嵯峨天皇と癒着するようになると、仏教は体制的になり、女性の地位は低くなった。比叡山、高野山は女人禁制だ。”にもかかわらず、“一遍が時衆のうちに女性を加えたのは、反体制の姿勢になる”とも言っている。

この本の最後は意外な言葉で終わっているので紹介したい。それは“希望を持つな!反省するな!”である。
苦楽への対処の一遍の言葉で、“苦を厭うというのは、苦楽をともに厭い捨てることである。苦楽のうち、苦は捨てやすいけれども、楽はなかなか捨てられないものである。楽のほうを捨てるのが、本当の意味で苦を厭うことになる。なぜかといえば、楽のほかに苦は存在しないからである。”
“〈苦しみたくない〉という気持ちを捨てると同時に、〈もっと楽になりたい〉といった気持ちも捨てる”のだ。それが
――希望を持つな!反省するな!――ということだという。
Boys, be ambitious! は良くないのだ。だって“野望を抱け”なのだ。“希望も所詮、欲望にほかならないのです。未来のことは仏にまかせておけばいい。あくせく・いらいら・がつがつとせずに、毎日をのんびり・ゆったり・ほどほどに暮らせばいいのです。”しかも“あまり反省しないでおきましょう。だって、いくら反省しても、過ぎ去った出来事を変えることはできないのです。あなたは「いま」を大事に生きるよりほかないのです。” これ仏教の真髄。

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