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反省ということ―日本社会における“再発防止”意識

世間で起きている事件に思いを致すと、日本で不毛の失敗の繰り返しが無反省に行なわれる傾向に 無力感を抱いてしまうのは私ばかりだろうか。失敗を繰り返さない反省は、突き詰めれば再発防止、ISO的には是正処置となるが、そういう思考態度が日本社会にしっかり根付いているようには見えない。ひいては、そのことがここ20年にわたる停滞となっているように思う。

政界では何度も脱党してはその度に政党を作っては それを壊して、 結果として縮小再生産となりジリ貧化している“大物”政治家がいる。この行為の日本に与える悪影響ははかり知れない。それは、その無反省な繰り返しにより、国内政治状況が停滞してしまっているからだ。にもかかわらず、どうしていつまでもこのような御仁を政界の“大物”として皆が扱い、一部の人々は崇めて従おうとするのであろうか。しかも、その御仁は 蓄財に関し限りなく真っ黒に近いグレーの印象を漂わせているにもかかわらずである。周囲の人々はそのグレー蓄財を目当てに右往左往しているようにしか見えない。
とにかく、夫々の政治家が選挙のことばかりに目を奪われて、無反省に目先の政策、政局に心奪われていることから生じているトラブルではないのか。だが、その主張が正しく見えることに、ある種ネジレ現象のもどかしさを感じる。

このように日本の政治は90年代から前進せず、そのためか経済も停滞したままのように見える。だが経済界では、個別企業は存続のため停滞してはいられず、海外への進出を図り、90年代の3つの過剰を解消して再活性化しているのが現状だ。一部の関西弱電の戦略失敗等を除き、大方の企業の財務状況は90年代より大幅に改善されて来ている。むしろ、そのために、個別企業による雇用は縮小したままであり、さらには人口縮小のため国内投資にも消極的になってしまい、日本の経済に活気は認められなくなっている。個別の企業が収益金を溜め込んだまま投資、つまり有効に使うことができないでいるのが現状なのだ。活気の無い経済に海外からの投資も活発にはならず、日本の株式市場は海外市場の動向に一喜一憂しているのみで、独自の動き つまり世界経済を牽引する迫力は全く見られない。この点で現在の日本は80年代の経済状況とは全く様相を異にしている。
いや、こういう日本国内の経済状況は、官僚に牛耳られて不合理な規制を撤廃できず、市場を創造したり、既存の市場を活性化できないことから生じているのが本質なのだ。本来、これ以外にも隠れ財源十数兆円を 洗出しその上で増税とする手はずだったものを、官僚の非協力により、増税が先行してしまったのだ。民主党は、政権奪取時 こうした財源を確保して政策を実現させると公約していたのだが、それを真っ先に無視して、官僚と手を結んだのは、あの御仁であった。あの御仁、財務官僚と仲良くすることが特にお好きのようなのだ。当時 民主党幹事長であったあの御仁は 全ての政策決定権を 幹事長に集中するようにし、それによる蓄財ももくろんでいたフシもある。
だから、“国民の生活が第一”というスローガンは、選挙のためだけのものであって、正しい政策のためではないのだ。

こういう不毛な状況に日本を落とし込めているのが、日本の大志無き政治家達である。その政治家達の無反省な繰り返し。そして、その大志無き政治家を選んで来たのは、選挙民である一般国民に他ならないのも事実だ。こういう状況も無反省に繰り返されて、今日に至ったように感じる。

こういう俯瞰的な真相を 伝えようとしないマスコミにも責任はある。マスコミは無色透明であるべきで、そういうことで“真実が伝えられる”というもっともらしい姿勢がこのような結果を生んだのであろうか。何が真実かを見極めることなく、与えられた情報を右から左にそのまま伝達することに生甲斐を感じているかのように見える。したがって、豊富な情報を持つ官僚に手もなくひねられて、思うが侭に操作されているのではないか。不自由な英語力で時々英字新聞を見ることがあるが、何となく日本の新聞と異なる雰囲気があるのは、こんなところに問題の根があるのかも知れない。扱うニュースそのものが違うように感じるのだ。要するに、何が真実か常に考えていないので、枝葉末節の事件・事象と本質的な事件の見分けがついていないのではないか。あるいは、何らかの勢力にコントロールされているのか、そのどちらかではないか。

大津で子供の“いじめ事件”が明るみになった。明るみになった切っ掛けは何かは、知らない。しかし、ネット検索してみると、地元の人々の不満が根底にあり、それが火を噴いたように見える。或いは、真面目で若い市長が 不当な事実隠蔽と埋没工作に義憤を感じたのが切っ掛けであったのだろうか。
いずれにせよ、地元の警察、教育委員会、教職員組合、それらと関連する地元有力者らによる隠蔽が事件発生後9ヶ月も経ってようやく明るみになった。ここで、不思議に感じるのは地元のマスコミの動きだ。彼らは、これまで一体何をしていたのだろうか。そのことについてはマスコミ自身は一切触れず、今となっては正義の味方を装い地元教育委員会や警察の対応を非難している。マスコミはいつもは既存権力に寄り添うが、それが不利になると急に弱者の立場に立つ。事態がどっちに転んでも正義の味方を装うというのが習い性となっている。まるで“いじめ心理”そのもののようにも見える。
どうやら事件の起きた中学校は、10年前にも陰惨ないじめによる殺人事件の舞台となっていたようだ。その後、どのような再発防止がなされたのか。そして二度と起きてはならない事件が、同じ所で起きた時、果たして地元のマスコミは一体何を考えたのだろうか。原因は何で、真相はどうだったのかを見極めようとしたのだろうか。
マスコミが真相報道を怠ったため、地元の噂がそのままネットに流れて、関係のない人がいじめた子供の祖父であり警察関係者として名指しされたという事件も起きている。このことの責任を、マスコミは感じているのであろうか。こういう鋭敏な感性が 今のマスコミには欠落しているのではないか。
昔、日本は“空気”で戦争をせざるを得なくなったのだが、その“空気”を醸成した、というより好戦的世論を煽ったのはマスコミだったと言うではないか。そういう反省つまり“再発防止”を真剣にしたのであれば、最近のマスコミの鈍感さは生まれる余地はないように思うのだが、どうだろうか。社会の木鐸たるべきマスコミの姿勢として、それで良いのだろうか。

それにしても、いじめ事件は世界の何処にもある解決困難な問題だとして安閑としていて良い問題だとは思えない。その陰湿さに日本社会特有の負の側面を覗くような気がするからだ。そういう面への反省・再発防止なくして、社会の発展は望めないと思うのだ。にもかかわらず、いじめ事件は後を絶たない。それどころか、一部週刊誌によれば、大津の事件を引き起こした子供が他校に転校し、そこでも暴力事件を引き起こし、そこの教育委員会も大津と同じような対応をしているという。
反省というより、この場合は再発防止だが、ISO的に言えば是正処置となる。それは当事者の間ばかりではなく、同様な役割を担っている人々にもあまねく適用されなければならないことになっている。そう考えると、これまでのいじめ対策は再発防止にはなっていないことになる。文科省は大いに反省しなければならないが、有効な政策が打たれているか検証するような報道も見られないのは残念だ。果たして、対策の徹底を欠いているのか、それとも対策そのものが甘いのか、本質を突いていないのか、分析が必要だ。

原子力行政についても同様なことが言えるのではないか。福島事故の背景は巨大で、その原因はどこにあるのかマクロな視点、具体的で実際的なミクロな観点からの事実認識と分析が必要だが、そのように意識して調査がなされて来ているのだろうか。あまりにも おざなりな短時間での調査でやり過ごしているところはないのか。国会事故調では今後の継続的な調査が必要だといって閉じてしまっている。これで終わってしまって良いことはないが、事故調としての責任は上手く果たしたかのように見せているのではないか。
誰がどのように責任を持って、最後まで真の原因を粘り強く調査し結論を得るのか そのような体制になっていないことに大きな危惧を感じる。原因調査の着手は遅く、手仕舞いが早すぎるような気がするのは私ばかりだろうか。何故かマスコミもそのような観点を持っていないように見える。
今後のエネルギー行政の方向付けでも、国民的議論と言いながら従来の“やらせ議論”と見える方法論で対処している。結論は第二案にあるかのように見える。反省の無い、真剣みの見えないやり方だ。

日本社会は、失敗したことについて冷徹に現実を見つめ、原因を調査し、その結果を段階ごとに全て公正・公平に議論し評価(レビュー)し、同じ失敗を二度と繰り返さないようにどうするか検証し、対策の妥当性を評価しなければならない。これはISOマネジメント・プロセスのアナロジーだが そういう着実な分析に基づく反省というか再発防止は常に不十分でないか。
第二次大戦の失敗をどのように考えるのか、国家的な検証をせずに今日まで来てしまい、逆に国家戦略的意識を持ち得なくなってしまっている。そのため、そういった反省を徹底的に行ったドイツとは全く違った歩みとなっている。国益とは何か、政治家から国民一般に浸透した意識とはなっていない。そのことが周辺各国による領土簒奪の結果となって現われているように思う。事実、ムネオ・ハウス如きで騒いでいる内にロシアは立ち直ってしまったではないか。おかげでメタン・ハイドレードの豊富な千島は還って来ない。国益とは何か、本質が見えていないために生じたことだ。
大きな事件・事故には、それに応じた規模と深さの調査・分析と反省・再発防止が必要だが そういう意識が乏しく、上も下も日常に追われ、目前の事象への対処のみに心を奪われて、本質的な見極めをせず、対処もしないでいる。そういう日本に危うさを感じるが、いかがであろうか。是々非々で日米同盟を確固たるものとしつつ、尖閣を失うことのないよう巧妙な外交と防衛の姿勢が問われる。肥大化した欲望と根拠なきプライドの餌食に再びなるべきではない。
特に、真実と本質を伝えない日本のマスコミに不信感を覚える。事実と本質が分らなければ、間違った判断を下すことになり、世論は誤った方向に暴走する。今の日本には、そういった反省が強く求められるが、真相報道がいい加減になされてはいないだろうか。あまつさえ、強きを助け、弱きをくじくような姿勢であれば全くの害悪でしかない。日本社会に反省のきっかけを促すべき、社会の良識たるマスコミには余程しっかりしてもらわなくてはならない。
当面、この夏 日本社会は全てを忘れ、オリンピックに狂奔するのであろう。マスコミはその先頭に立つのだろう。それでまた無反省に時間は無駄に過ぎて行く。3S政策とは良く言ったものだ。

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