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徳永洋・著“横井小楠―維新の青写真を描いた男”を読んで

先週の驚きは、Ghosn has gone! 一色。
週初めの月曜夕刻は“ひょうご講座・企業防災の課題と対策”受講だったが、その事実は講師が“先ほど日産のゴーンさんが金融商品取引法違反で検察に逮捕されたということです。”と言ったことで知ったのだった。しかし、講師は講演の妨げになると思ったのか、それ以上詳しいことは言わなかった。
フランス政府がルノーを通して、日産への支配権を強めようとするかのような動きをしていることは、小耳にはさんでいたので、それとの関連ではないかとは思ったが、自宅に戻って見た報道では、そこまでの内容は無く、西川社長の記者会見を生中継していて、あたかもその主張をそのまま報道している程度だった。
しかし、その後やっぱり日産側経営陣のクーデターではないかとの見方が出てきている。大筋ではそうだろうと思われるが、そこでの検察の役割が見え難い。当初は司法取引があったとされたが、その後は日産側の立件もあり得る、などと言う訳の分からない報道も出て来ている。しかも、検察OBヤメ検のTVコメンテーターで、立件は困難という見方も出て来ており、当局の捜査方針がしっかりしたものではないのではないかとの疑問も出て来ている。

最近の検察は どうやら“法的正義”を冷酷に執行する能力が低下しているような印象がある。東電の福島原発事故に対する法的責任を問うことが無かった件や、首相が絡んだ財務省の記録改竄事件では何らかの動きがあって然るべきと思われたが、全く動じなかった。それにもかかわらず、ゴーン逮捕では結構身軽に動いた印象がある。
検察が動いて、拘置所留置に対する被疑者の扱いが国際的に遅れた対応なのをフランスのマスコミは取り上げて報道しているとのこと。これについては、検察もこういう事態を予見していたのだろうか。人権意識の低い中国同様の東洋のサルの国での事件と思われないように対処して欲しいものだ。
以前の検察では、全てぬかりなく対処していた印象があるが、最近は脇が非常に甘いように見受ける。いかがなものだろうか。日本の司法が弱体化してはいないだろうか。

さて週末には、大阪に万博(登録博)の誘致が決まった。何だかこんなことで景気が浮揚するとは思えず、一時的な騒ぎでしかなく結果として無駄遣いに終わる懸念があるのではないか。仏パリが降りたのはそれを懸念してのことではないか。先進国経済には何ら寄与し得るものとはならない時代になっていると認識するべきではないのか。否、関係者御歴々はカジノの目くらまし材料に使おうと全力を挙げたとも見える。それで本当に喜べる話題か。
それにしても、プーチン・ロシアはそれほど世界中に嫌われているのだ。投票前に博覧会国際事務局(BIE)の分担金を支払わずに投票権を失効していた約40の加盟国のうち、二十数か国が支払いを終えて投票権を回復していることが分かった。これはロシアが分担金を肩代わりしたものと推測されていたのだが、それにもかかわらずロシアはこけたのだ。ロシアと親密と思われるアゼルバイジャンすら決戦投票で、親日意識から日本に投票したのではないかと憶測されているようだ。


ところで横井小楠という歴史上の人物を御存知だろうか。熊本方面に儒学や神道の学者が居て、志士たちが頻繁に訪ねていた、というようなエピソードはあったことは、幕末・維新史の中で書かれていたように思うので知ってはいたが、その内の一人が横井小楠だったようだ。NHK大河ドラマ“西郷どん”でも西郷が熊本に行っていたシーンがあったように思う。しかしそれが小楠だったのかどうかは不明だ。だがしかし、実は横井小楠はその程度のone of themの人物ではない。
最近、この人物が知りたく、徳永洋・著“横井小楠―維新の青写真を描いた男”を読んだので、今回多少の紹介をしたい。小楠は明確には攘夷派、開国派のいずれにも与してはいない。その点で長州の頑なな攘夷派とは違っている。そしてこの本では西郷隆盛と横井小楠の直接の接触は語られていない。

かつて明治維新には主導的志士の間に革命後のある種の共通のイメージがあったのではないかと思ったことがある。それでは誰が、そのようなイメージを持たせたのか。これもNHK大河ドラマ“八重の桜”で知った話だが、八重の兄・山本覚馬は、鳥羽伏見の戦い後、薩摩藩邸に収容され、この幽閉中に建白書“管見”を上程、これにより覚馬は維新後京都府知事の顧問になった、という。維新後、天皇が去って寂れゆく京都の復興はこの覚馬の政策によることが大きい。実は覚馬は会津藩砲術指南役の家の長男で、若い時佐久間象山の下で勉学していた。
佐久間象山は西洋砲術家としての高い名声があり、その他蘭学を背景に様々の技術開発に成功し、江戸木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えていて、勝海舟,吉田松陰,坂本龍馬ら後の志士主導者が入門していた。つまり、討幕派、佐幕派に限らず幅広く弟子を抱えたことがあり、そこで志士達に革命後のイメージの素地を養成したのではないかと思い至ったのだった。そのような共通認識があったからこそ、佐幕派の山本覚馬の“管見”を薩摩の小松や西郷が高く評価できたのではないだろうか。そういう推測から一時は佐久間象山が明治維新の思想的素地を作ったのだと、私は密かに思っていた。

だが、実は討幕派、佐幕派に限らず幅広くその考えに支持を集めた学者がもう一人いたのだった。それが横井小楠だ。象山は蘭学の理工系の分野の泰斗だった。しかし、小楠は文科系、“思想”そのものの泰斗であることを最近知った。そして先ほど紹介した本を読んだのだった。
この本の紹介分に言う。“勝海舟曰く『おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ。』日本史の教科書でもろくに取り上げられず、幕末もののドラマで登場することもほとんどない。しかし小楠こそ、坂本竜馬や西郷隆盛をはじめ、幕末維新の英傑たちに絶大な影響を与えた『陰の指南役』であった。”実はこの本では、海舟の台詞に続きが紹介されている。“横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたに、果たして西郷は出てきたワイ”と討幕の本質を語っているのだという。

勝海舟は、私は未だ読んでいないがイザヤ・ベンダサン・著“ユダヤ人と日本人”では維新最大の英傑と評されたらしいが、最近まで本当か?との疑念が多少あったが、最近どうやら、それは正しいのではないか、と思うようになっている。少なくとも、福沢諭吉よりは人物として格上ではないかと、思い始めている。その人物が実際に会ってみて“恐ろしい”と言ったのだから、小楠は大変な人物ということになる。

維新前に主導的志士の間にあったある種の共通のイメージを言語化したものは、“五箇条の御誓文”ではないか。維新後は志士たちは維新政府官僚となって正にこの御誓文の趣旨に沿って革命を進めていった。
この御誓文は、福井藩の参与由利公正が起案し、次いで土佐藩の制度取調参与福岡孝弟が修正し、長州藩の参与木戸孝允が加筆したものとされる。
そして、俗論では坂本竜馬の“船中八策”がベースになっていると説くものがあるが、それは明らかに間違っていることが、この本を読めば分かる。由利も坂本も横井小楠の弟子であり、それまでに小楠が発していた言葉・主に“国是十二条”等を、夫々が夫々の思いの中で整理し直したまでなのだ。そのことが、この本を読めば分かる。
横井小楠は不運にも熊本では目が出ず、幕末の賢侯大名とされる福井藩主・松平春嶽に見いだされ、藩の政治顧問となり福井藩のために活動する。あたかも福井藩全体が小楠の弟子となり、春嶽の政治行動は殆ど小楠の意見に依っていた。それが小楠の活躍の舞台だったのだ。維新後の暫らくは特に岩倉具視の顧問として活躍したとされる。

さて、小楠にも象山にも共通の師匠が居た。それは佐藤一斎という朱子学、陽明学を修めた儒学者である。二人にどのような影響を与えたかは不明だが、二人が所属した幕府の昌平黌の儒官(総長)として指導的立場にあったというのは確かである。佐藤一斎は“言志四録”を著しており、一斎が後半生の四十余年にわたり記したという箴言集(“言志録”、“言志後録”、“言志晩録”、“言志耋(てつ)録”の四書の総称)であり、指導者のための指針の書とされる。西郷隆盛はこの“言志四録”の全1133条を熟読し、心に残った101条を書きとめ、常に傍に置いて愛読していた。その101条は明治21年(1888年)に“西郷南洲手抄言志録”として世に問われているという。
そこに何が書かれているか、それはこれからの私の修養によるが、恐らく“一点の曇りもない心眼で見る”ための心得であろうか。“心眼で見れば”小楠のように何事も“一を聞いて百を知る”ことができ、万一も誤らない判断ができるようになるのかも知れない。従がって小楠は複雑な政治情勢の中で松平春嶽や岩倉具視の政治顧問となれたのであろう。
しからば、佐藤一斎が維新の思想的原点だと言えるのだろうか。今や革命前夜の暗い日本。そのような原点はあるのだろうか。それとも誰かが心眼を磨き、世に問う動きをしなければ、日本は埋没してゆくことになるのだろうか。

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