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西研・著“NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ”を読んで
政治家は“信なくば立たず”という。前首相もお好きな言葉だったようであるが、その信=神は、殆ど怪しかった。“私利私欲の神”を崇拝していた気配がある。新首相は前政権を引き継ぐとのことなので、それも継承されるのか。
まぁ兎に角、“信なく立ったのか”、新首相はここへきてドタバタと様々な有識者と面会したようだ。中には、消費税減税を主張している人物と財政再建つまり増税論者の正反対の人物とも会ったという。一体、どっちが本心か。どちらかが、見せ球という噂もあるようだ。
新首相が明言した訳ではなさそうだが、新政権の目玉は、①携帯料金の値下げ②デジタル改革(デジタル庁の新設)③少子対策④中小企業再編だという。実は、これら①、②、④が経済改革に集約され、そこから結果③が生まれるという構造になっている。
つまり①、②、④で、景気が良くなれば国民の稼ぎが良くなる。そして特に若い人の収入が伸びれば③は解消する。結婚すれば子供が生まれるものであるが、男女片方の年収が4~5百万以上でなければ結婚をあきらめてしまう。その諦めが少子化につながっている、というのが真相だそうだ。これまで日本の政治はそれを見誤っていたのだという。実は現在では年収4~5百万に該当する若者は15%程度しか居ないという。だからほとんどの若者は結婚せず、結果として少子化しているのだ。貧困化が問題で景気対策が重要なのだが、アホノミクスのように大企業だけが儲けるのではなくて若い人の所得を増やす真の政策が必要なのだ。これが本気でできるのか。かつての“所得倍増”は今や夢のまた夢なのか。
④は日本の企業の99%以上は中小企業で、それを再編するというのはいわゆるゾンビ企業を淘汰し、企業に自助を求める政策であるが、それは一時的に大不況を引起すことになるはずだ。これをどうするのかが、大問題だ。②も結果として非効率なゾンビ企業を淘汰するように作用するはずだ。すると、一時的にもせよ或いは長引くのか分からないが、若者が経済的苦境に陥ることがある。
①は無理矢理すれば投資余力が損なわれ、現下重要な5G投資がスムーズに行われず日本の地盤沈下につながりかねない。そうなれば若者も当然浮かばれない。
“小事に神宿る”というが、その意味で正しく“小さなことからコツコツと”やることは意味があるが、矢張り全体観は大切だ。その全体観をもって神の目で日本の真相を知り、その文脈をたどり、もつれた糸をほぐす、そのような目が新首相に備わっているか否か、それが問題なのだ。結果として下手な改革となり、全てがオジャンになれば、この剣が峰の正念場で最早日本は再起、再浮上はない。既にアホノミクスで時間的余裕はなくなっているからだ。
だが新首相はそのアホノミクスの裏方だったので、多大な期待はほぼできないと思うべきではなかろうか。兎に角“生ごみバケツの蓋”はマッピラゴメンなのだ。前政権のようにアホアホでも困る。だから当面は、息をひそめて期待せずに“御手並み拝見”しかない。
さて、カントに引き続き西研・著“NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ”を読んだので紹介したい。紹介と称して投稿したが、実はこれは私の哲学ノートでもあるが、これを公開してネタにするカタチにした。私の勝手で申し訳ない。
表題が“ツァラトゥストラ”となってはいるが、事実上ニーチェ哲学全般の初学者のための分かり易い紹介本である。まぁ、とにかく難解な哲学なので、浅学の私はこうした入門書から手始めとしなければ、とにかく始まらないのだ。
この本の冒頭の“はじめ”に次の記述がある。
“「私たちはどうやって生きていけばよいのか」という問いについて、これほどまっすぐに記した哲学書はほとんどない、・・・人が悩みや苦しみを抱えたときにどう生きるか―いわば泥臭い、でもとても大事な問題―を正面から扱っているものはそれほど多くはありません。「ツァラトゥストラ」は、生きる姿を真摯に問うている珍しい本で、読むと胸を打つものがあります。”
実は、哲学をこれまであまりやってこなかった私には驚きの事実だ。しかも、哲学は人生のお悩みに答えを求めるために読むものと、教えられていた記憶があるからだ。“世の中の真理”を究めて、お悩み解消が哲学の意義だと思い込んでいたのだ。だが人生をこれまで生きてきて、“世の中の真理”等というものはどうやら、あるようでないのではないかと思っていたのだが、西研教授の本を読み始めて、どうやらヤッパリそんなものはないと示されて納得し始めていた矢先だった。そこで哲学について、改めてこのように言われれば、実はそんなものだったのか、と今更ながら思わざるを得ない。
或いは、従来のニーチェの一般的にイメージが総体的にネガティブあったように思っていたし、その哲学の主要概念が“ニヒリズム(虚無思想)”や“超人”,“永遠回帰”,“権力への意志”であったり、“ツァラトゥストラ”という怪しい人物を主人公に怪しい台詞を言わせて哲学書を著したことや、“その哲学はナチスに利用された”*1というエピソード、或いは、その肖像を見れば目付きの異様な人物、ある種狂人のイメージであるといったこと、等々で若い時にはマルクスよりもはるかに怪しい、と思っていた。否、マルクスは未だ人々によく読まれていて一般的だったが、ニーチェは異様なので意識的に忌避していたところがあった。だから余力があれば“お勉強してみたい”といった程度のスタンスであった。*2ところが、我が信頼すべき哲学者・西研教授のこの評価に驚いた、ということがある。そうとは全く知らなかったのだ。徹底した“人生肯定”の哲学であったのであれば、もっと早くに“お勉強”するべきであった、と残念感が漂う。
*1:ナチスがニーチェ哲学のどういった部分を利用したのかは、従来から興味のあるところだった。
*2:だがこれまで余力があったことも無かった。昔、エルビス・プレスリーがステージ・ショウの記録映画の冒頭の登場シーンでシュトラウスの交響詩“ツァラトゥストラはかく語りき”を採用していたので、ある種のカッコよさがあるのだろうというイメージもあったのは事実だ。
“ツァラトゥストラという名前はゾロアスター教の開祖ゾロアスターのドイツ名”だという。何だか怪しい印象。というのは、このゾロアスター教は高校世界史で初めて知ったものだが、“古代ペルシア人の宗教で、アフラ=マツダ(アフラは神、マツダは知恵の意味;光の神)であり、信者はその象徴の火を崇拝する。また世界は破壊と暗黒(闇)の神である悪神アーリマンとの抗争とみる二元論的世界観である。現在はほぼ影響力を失っている”が、あのクイーンのボーカル・フレディ・マーキュリーはこの信者だったというのも驚きだった。
とはいうものの“ゾロアスター教にニーチェが影響をうけたということはなく、キリスト教とは無縁な名前を用いたかっただけ”で、“「今までのヨーロッパすべてを清算して新しい文化(新たな価値基準と生き方)の礎をつくる」という、ニーチェの壮大な自負のこもった本”だとのこと。
この本“ツァラトゥストラ”の主要テーマは前半は“超人”であり、後半は“永遠回帰”だという。
“超人”は“一種の進化論みたいなもので、人間とは動物から超人に向かう間の存在であり、人間そのものではまだだめで人間を超えていかなければいけない”と言っている、という。ここで“「超人のために没落せよ」という言葉が何度もリフレインされます。「超人にはなれなくても、超人のために超人を用意すべく努力して死んでいけ。自分のあとに超人が生み出されればいい」というような意味”だという。
“永遠回帰”は、“自分の人生を究極的に受け入れて肯定できるか”を問うための思想であると言っている。
次に、ニーチェの人生の紹介がある。ここでニーチェは若い頃に作曲家ワーグナーとかかわり、そこで“悲劇の誕生”(1872年)を出版している。
それで“ニーチェが提示した説が、「悲劇はディオニソス的なものとアポロン的なものが一緒になってできた」というもの”だと言っている。“ディオニソス的とは「生存の恐ろしい闇」であると同時に「陶酔」をも意味”し、“ディオニソス神はローマ神話ではバッカス神で「お酒を飲む神様」ですから、自分が自分でなくなってみんなと一体になって溶け込んでいく”ことを表し“これは音楽の精神”でもある。“これに対するアポロン神は明るくて輪郭と秩序”を示し、“自分という個体の輪郭をしっかり保つものであり、造形芸術の精神”である。ニーチェは“この正反対のものが結びついてできたものがギリシア悲劇である”とした。
“ニーチェは「悲劇によって、人はその苦悩とともに自分という個体を超えて、根底の‘一’に合一することができる」と考え、さらにその悲劇を(楽劇によって)現代に蘇らせた人こそがワーグナーであると捉えて”いたという。
さぁここで、悲劇とは何か。ここでの悲劇はギリシア神話から採ったアイキュロスの悲劇『プロメテウス』のことである。神話ではプロメテウスは天界の神々の火を盗んで人類の生活に便利さをもたらした。しかし、それが原因で高度な文明と共に争いや苦難ももたらされたという。これが思わざる“悲劇”であり、この逸話が“プロメテウスの火”と呼ばれている。原子力はその典型とされる。
「悲劇はディオニソス的なものとアポロン的なものが一緒になってできた」ということ、何だかこれまでの説明でも分かり難い。これを西研教授の盟友である哲学者・竹田青嗣教授は次のように説明している。部分的にかじっただけだが、私には分かり易かったので引用して紹介する。
“ニーチェは、アイキュロスこそは、人間が文明の原理を導くことでさまざまな新しい矛盾や争いを生じさせたという事態をはじめて積極的に是認し、肯定する考え方を示した悲劇作家だった、という。つまり、・・・文明は人間の世界に新しい大きな矛盾をもたらしたかもしれないがそのことを否定すべきではない、むしろこの事態を是認すべきだ、という考え方を明確に打ち出したのである。・・・この矛盾を引受けつつなお生きようと欲する。まさしくここに人間存在の本質がある。”
また、“この欲望こそが矛盾(苦しみ)の根源なのだから、いっそ欲望そのものがなければ矛盾もなくなる”と考えるのが仏教の考え方だが、ニーチェはこうした考え方にはっきり反対したのだ、と。
また“ツァラトゥストラ”を読むうえでキィ・ワードの一つが有名な“ルサンチマン”であるとしている。これは、“フランス語でressentimentと書くが、sentiment(感情)に繰り返しのreがつくので、感情が振り払えず反復するというつくりの言葉”だが、“実際には「うらみ・ねたみ・そねみ」を意味”する。著者は“ニーチェ自身がルサンチマンにとらわれていたと確信”しているという。それは、ニーチェの期待したワーグナーに関して勝手な誤解からの不信感、秀才だったにもかかわらず体調不良からバーゼル大学での教授職の休職から失職、さらには失恋し友人も失うという、立て続けの不運があったのだから、“まさしくルサンチマンはニーチェ自身の問題”であったはずだという。
このルサンチマンが問題なのは、著者なりの言い方では“自分を腐らせてしまうから”であり、ニーチェに即していうと、“悦びを求め悦びに向かって生きていく力を弱めてしまう”問題(悦びの感覚の喪失)がまずあるからだという。二つ目には“「この人生を自分はこう生きよう」という、自分として主体的に生きる力を失わせてしまう”(主体性の感覚の喪失)ことだという。“ルサンチマンという病気に罹ると、自分を人生の主役だと感じられなくなってしまう”のである。
ニーチェは19世紀に“神は死んだ”と“悦ばしき知”(1882年)で言った。ニーチェにそんな影響力があったかどうかは別にして、この宣言は欧米のキリスト教徒には衝撃だったはずだ。キリスト教が人々に要求した“誠実さ”が科学を生み、その科学が神を死に追いやったという文脈だ。20世紀初頭に起こった第一次世界大戦の悲惨さとともに、こうした言葉でヨーロッパ世界は虚無感ニヒリズムに襲われたと聞く。
“神は死んだ”とは、当然“直接にはキリスト教の神が信じられなくなっていくことを指している。それは同時に、これまで信じられてきたヨーロッパの最高価値全てが失われてしまい、人々が目標を喪失してしまう”事態にいたる、これをニーチェは「ニヒリズム」という言葉で呼んだのだ。また“それに代わって人類が目指すものが必要になる。それをニーチェは「超人」と呼び表した”。
著者はこのニヒリズムについて、私たち日本人の場合、“1960年代から70年代半ばまでにかけての高度経済成長期には、個人の夢として「豊かさと自由を求める」ということ”があった。“ところが1980年頃を境にして、こうした目標や夢がどんどん落ちて行く。その大きな要因は、経済的な面で欧米に完全に追いついてしまった。・・・そして人々は「目標に向かってがんばる」という生き方ではなく、「生活を楽しむ」という価値観に移行していった”のだという。そして続けて次のように言う。“80年代から、私たちは個人の夢も社会全体の目標も与えられない時代に突入して”行き、日本社会はニヒリズムの渦中にあるのだと次のように指摘している。“ぼくが身近に接している大学生をみても、以前にくらべて、若者が未来や社会に期待する感度は明らかに落ちている”と。
かつて日本の若者は健全で元気だった。確かに“1960年代から70年代半ばまでにかけて”学生運動は“安保粉砕”や“帝大(帝国主義大学)解体”、“造反有理(反抗には理由がある)”で盛り上がり、活力ある若者の政治意識は最高潮に達したが、“問答無用”の警察力による弾圧で、学生運動は党派の内部抗争に移行し結局70年代半ばまでに自滅した。結果、“曖昧で猥雑な日本国”が生き延び、活力を失った無力感から“小市民的価値観”が蔓延しノンポリ社会となってしまった、というのが実態ではないだろうか。何故か議論を嫌うこの社会体質が問題の根幹にあり、それが“空気を読む”忖度社会の遠因ではないかと、私は考えている。それが返って“息苦しく、活力のない無気力な現在”に至っている。“病膏肓に至る”。このままでは活力のない日本は国際社会からも取り残されてしまうのではないか。
それは、矢張り“コミュニケーションや議論を嫌うこの社会体質”という問題が根底にあったからだと見るべきだろう。だからこそ、著者の西研教授自身も話しやすい諸条件を整えて議論するコミュニケーションの重要性を訴えているのではなかろうか。
閑話休題。最後に非常に難解な“永遠回帰”に取り掛かろう。これは昔、“永劫回帰”と言っていたように思う。なぜ“永遠回帰”に言い換えたのだろうか。語彙の多様性は表現の豊かさを生む。もし“永劫”という言葉を捨てて、“永遠”に統一するのだという意識ならば私は反対したい。これまでは“未来永劫”とは言っていたが、これからは“未来永遠”と言わされるのだろうか。
マタマタ本筋から外れてしまった。“永遠回帰”、“正確には「同じもの[同一物]の永遠回帰」という”のだそうだ。これも“悦ばしき知”(1882年)で言った着想だという。良いことも、悪いことも何度も何度も無限に人生に降りかかって来て繰り返される、という意味だという。ならば“運命はそのように既に定まっており、どんな克服努力もムダ”ではないのか。“悦びの感覚”を失わず、“主体性の感覚”を堅持して生きる意味はあるのか、とニヒリズムに陥るのが普通ではないか。
現に“ニーチェはのちに残した断片の中で、「永遠回帰の思想はニヒリズムを徹底する」という意味のことを記して”いるという。また、ニーチェは“永遠回帰を受け入れられる人こそが強者であり「超人」になりうる”と言っているという。どういうことか。
果たして“永遠回帰”とは何か。
“宇宙のなかのさまざまな物質やエネルギーの運行がたまたま合わさって[「結び目」となって]「わたし」をつくり出した。それはしばらくすると解体されるが、いずれまた宇宙のなかの物質とエネルギーの巡り合いと組み合わせのなかでもう一度「わたし」をつくり出す”ということだという。
これは物理学の思考実験のような次のような想定をしてみれば分かり易い。“抵抗がゼロで球がまったく止まることのないビリヤード台で、球をコーンと突いてみるとする。それは他の球にコーンとぶつかって他の球も動き出し、さらに球どうしがぶつかって局面は絶えず姿を変えていく。しかしそれらの球が無限に動き続けていれば、必ずいつかは、前と同じ局面の状態が再現される。そうするとそれ以降は同じことが繰り返されることになる。宇宙もこのようなものだ。”(本文は“です・ます”調であるが筆者が変更)
これを“ニーチェは一言で「エネルギー保存の原理は永遠回帰を要請する」”と言っている、という。
ニーチェの生きていた19世紀後半の最新の物理学の知見として、“エネルギー保存則”があり、それをヒントに“永遠回帰”のコンセプトはある、ということだ。これは熱力学第一法則であり、独物理学者ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウスの発見になるものだ。
しかし、第一法則があれば、同じくルドルフ・クラウジウスの第二法則もある。“熱は常に温度差をなくする傾向を示し、したがって常に高温物体から低温物体へと移動する”というもので、言い換えれば、“宇宙のエントロピーは最大値に向かう”という法則である。これは“エントロピーは増大する”と同義である。エントロピーとは現代物理学では“秩序性(規則性)の指標”であり、例えば物質の規則性は固体が高くエントロピーは低い状態である。液体では分子は自由なランダム・ウォークの運動(ブラウン運動)をしておりこの状態ではエントロピーは固体より大きい。気体分子はさらに密度が薄くなり自由度が増しており、エントロピーは液体よりさらに大である。
つまり第二法則は“宇宙の状態はよりデタラメな方向に不可逆的に増大している”というもので、同じことが何度も繰り返されるという“永遠回帰”のようなことは、現代の物理学では想定されていない。現に、“ビッグ・バン以降、宇宙は膨張している”というのが現代物理学の知見のはずだ。(逆に、ビッグ・バン以前はどうだったのかの事実認識はできていないので、その枠組みを超えた部分では、どうなっているかは不明だ。そう考えるのであれば“永遠回帰”は有り得る?しかし、今の私には少々考え難い!)
さてクラウジウスの時代にエントロピーがこうしたランダムネスの指標として解釈されていたかは、私には不明だがニーチェの“永遠回帰”が、第二法則を見落としていたのは、“片落ち”と言わざるを得ない。
だから、“運命は既に定まっており、どんな克服努力もムダ”というようなゾッとすることは現実には起きないと、私は想定する。つまり、“困難克服努力”は大抵の局面では有効なハズであると信じたい。
だが、世の中にはその克服できない不幸もある、どうするのか。例えば身体の障害、これは本人の努力では、最先端医療でも改善し克服できる容易な問題では決して無い。決して本人のせいではなく“運命”のせいである場合が殆どだろう。それをルサンチマンに陥らず、精神的に克服し“悦んでそれを欲する”程の覚悟と積極的な超意欲がなければならないと、ニーチェは言っているというのだ。不幸を悦んで甘受せよ、そうでなければ“超人”には少しも近付けないというのだろう。
しかしどうしても、この本を読んだだけでは、今の私には“永遠回帰”の思想は理解できない部分が残る。ニーチェの言いたいことは実は人間愛に満ちた暖かい本質だと頭では分かったような気がするが、スコンと腑に落ちない部分がどうしても残るのだ。この“スコンと腑に落とす”ために、諦めずにいつか近い将来、先に紹介した竹田青嗣教授の本も読み切ってみたいと思っている。私の哲学帳の課題として残しておきたい。

まぁ兎に角、“信なく立ったのか”、新首相はここへきてドタバタと様々な有識者と面会したようだ。中には、消費税減税を主張している人物と財政再建つまり増税論者の正反対の人物とも会ったという。一体、どっちが本心か。どちらかが、見せ球という噂もあるようだ。
新首相が明言した訳ではなさそうだが、新政権の目玉は、①携帯料金の値下げ②デジタル改革(デジタル庁の新設)③少子対策④中小企業再編だという。実は、これら①、②、④が経済改革に集約され、そこから結果③が生まれるという構造になっている。
つまり①、②、④で、景気が良くなれば国民の稼ぎが良くなる。そして特に若い人の収入が伸びれば③は解消する。結婚すれば子供が生まれるものであるが、男女片方の年収が4~5百万以上でなければ結婚をあきらめてしまう。その諦めが少子化につながっている、というのが真相だそうだ。これまで日本の政治はそれを見誤っていたのだという。実は現在では年収4~5百万に該当する若者は15%程度しか居ないという。だからほとんどの若者は結婚せず、結果として少子化しているのだ。貧困化が問題で景気対策が重要なのだが、アホノミクスのように大企業だけが儲けるのではなくて若い人の所得を増やす真の政策が必要なのだ。これが本気でできるのか。かつての“所得倍増”は今や夢のまた夢なのか。
④は日本の企業の99%以上は中小企業で、それを再編するというのはいわゆるゾンビ企業を淘汰し、企業に自助を求める政策であるが、それは一時的に大不況を引起すことになるはずだ。これをどうするのかが、大問題だ。②も結果として非効率なゾンビ企業を淘汰するように作用するはずだ。すると、一時的にもせよ或いは長引くのか分からないが、若者が経済的苦境に陥ることがある。
①は無理矢理すれば投資余力が損なわれ、現下重要な5G投資がスムーズに行われず日本の地盤沈下につながりかねない。そうなれば若者も当然浮かばれない。
“小事に神宿る”というが、その意味で正しく“小さなことからコツコツと”やることは意味があるが、矢張り全体観は大切だ。その全体観をもって神の目で日本の真相を知り、その文脈をたどり、もつれた糸をほぐす、そのような目が新首相に備わっているか否か、それが問題なのだ。結果として下手な改革となり、全てがオジャンになれば、この剣が峰の正念場で最早日本は再起、再浮上はない。既にアホノミクスで時間的余裕はなくなっているからだ。
だが新首相はそのアホノミクスの裏方だったので、多大な期待はほぼできないと思うべきではなかろうか。兎に角“生ごみバケツの蓋”はマッピラゴメンなのだ。前政権のようにアホアホでも困る。だから当面は、息をひそめて期待せずに“御手並み拝見”しかない。
さて、カントに引き続き西研・著“NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ”を読んだので紹介したい。紹介と称して投稿したが、実はこれは私の哲学ノートでもあるが、これを公開してネタにするカタチにした。私の勝手で申し訳ない。
表題が“ツァラトゥストラ”となってはいるが、事実上ニーチェ哲学全般の初学者のための分かり易い紹介本である。まぁ、とにかく難解な哲学なので、浅学の私はこうした入門書から手始めとしなければ、とにかく始まらないのだ。
この本の冒頭の“はじめ”に次の記述がある。
“「私たちはどうやって生きていけばよいのか」という問いについて、これほどまっすぐに記した哲学書はほとんどない、・・・人が悩みや苦しみを抱えたときにどう生きるか―いわば泥臭い、でもとても大事な問題―を正面から扱っているものはそれほど多くはありません。「ツァラトゥストラ」は、生きる姿を真摯に問うている珍しい本で、読むと胸を打つものがあります。”
実は、哲学をこれまであまりやってこなかった私には驚きの事実だ。しかも、哲学は人生のお悩みに答えを求めるために読むものと、教えられていた記憶があるからだ。“世の中の真理”を究めて、お悩み解消が哲学の意義だと思い込んでいたのだ。だが人生をこれまで生きてきて、“世の中の真理”等というものはどうやら、あるようでないのではないかと思っていたのだが、西研教授の本を読み始めて、どうやらヤッパリそんなものはないと示されて納得し始めていた矢先だった。そこで哲学について、改めてこのように言われれば、実はそんなものだったのか、と今更ながら思わざるを得ない。
或いは、従来のニーチェの一般的にイメージが総体的にネガティブあったように思っていたし、その哲学の主要概念が“ニヒリズム(虚無思想)”や“超人”,“永遠回帰”,“権力への意志”であったり、“ツァラトゥストラ”という怪しい人物を主人公に怪しい台詞を言わせて哲学書を著したことや、“その哲学はナチスに利用された”*1というエピソード、或いは、その肖像を見れば目付きの異様な人物、ある種狂人のイメージであるといったこと、等々で若い時にはマルクスよりもはるかに怪しい、と思っていた。否、マルクスは未だ人々によく読まれていて一般的だったが、ニーチェは異様なので意識的に忌避していたところがあった。だから余力があれば“お勉強してみたい”といった程度のスタンスであった。*2ところが、我が信頼すべき哲学者・西研教授のこの評価に驚いた、ということがある。そうとは全く知らなかったのだ。徹底した“人生肯定”の哲学であったのであれば、もっと早くに“お勉強”するべきであった、と残念感が漂う。
*1:ナチスがニーチェ哲学のどういった部分を利用したのかは、従来から興味のあるところだった。
*2:だがこれまで余力があったことも無かった。昔、エルビス・プレスリーがステージ・ショウの記録映画の冒頭の登場シーンでシュトラウスの交響詩“ツァラトゥストラはかく語りき”を採用していたので、ある種のカッコよさがあるのだろうというイメージもあったのは事実だ。
“ツァラトゥストラという名前はゾロアスター教の開祖ゾロアスターのドイツ名”だという。何だか怪しい印象。というのは、このゾロアスター教は高校世界史で初めて知ったものだが、“古代ペルシア人の宗教で、アフラ=マツダ(アフラは神、マツダは知恵の意味;光の神)であり、信者はその象徴の火を崇拝する。また世界は破壊と暗黒(闇)の神である悪神アーリマンとの抗争とみる二元論的世界観である。現在はほぼ影響力を失っている”が、あのクイーンのボーカル・フレディ・マーキュリーはこの信者だったというのも驚きだった。
とはいうものの“ゾロアスター教にニーチェが影響をうけたということはなく、キリスト教とは無縁な名前を用いたかっただけ”で、“「今までのヨーロッパすべてを清算して新しい文化(新たな価値基準と生き方)の礎をつくる」という、ニーチェの壮大な自負のこもった本”だとのこと。
この本“ツァラトゥストラ”の主要テーマは前半は“超人”であり、後半は“永遠回帰”だという。
“超人”は“一種の進化論みたいなもので、人間とは動物から超人に向かう間の存在であり、人間そのものではまだだめで人間を超えていかなければいけない”と言っている、という。ここで“「超人のために没落せよ」という言葉が何度もリフレインされます。「超人にはなれなくても、超人のために超人を用意すべく努力して死んでいけ。自分のあとに超人が生み出されればいい」というような意味”だという。
“永遠回帰”は、“自分の人生を究極的に受け入れて肯定できるか”を問うための思想であると言っている。
次に、ニーチェの人生の紹介がある。ここでニーチェは若い頃に作曲家ワーグナーとかかわり、そこで“悲劇の誕生”(1872年)を出版している。
それで“ニーチェが提示した説が、「悲劇はディオニソス的なものとアポロン的なものが一緒になってできた」というもの”だと言っている。“ディオニソス的とは「生存の恐ろしい闇」であると同時に「陶酔」をも意味”し、“ディオニソス神はローマ神話ではバッカス神で「お酒を飲む神様」ですから、自分が自分でなくなってみんなと一体になって溶け込んでいく”ことを表し“これは音楽の精神”でもある。“これに対するアポロン神は明るくて輪郭と秩序”を示し、“自分という個体の輪郭をしっかり保つものであり、造形芸術の精神”である。ニーチェは“この正反対のものが結びついてできたものがギリシア悲劇である”とした。
“ニーチェは「悲劇によって、人はその苦悩とともに自分という個体を超えて、根底の‘一’に合一することができる」と考え、さらにその悲劇を(楽劇によって)現代に蘇らせた人こそがワーグナーであると捉えて”いたという。
さぁここで、悲劇とは何か。ここでの悲劇はギリシア神話から採ったアイキュロスの悲劇『プロメテウス』のことである。神話ではプロメテウスは天界の神々の火を盗んで人類の生活に便利さをもたらした。しかし、それが原因で高度な文明と共に争いや苦難ももたらされたという。これが思わざる“悲劇”であり、この逸話が“プロメテウスの火”と呼ばれている。原子力はその典型とされる。
「悲劇はディオニソス的なものとアポロン的なものが一緒になってできた」ということ、何だかこれまでの説明でも分かり難い。これを西研教授の盟友である哲学者・竹田青嗣教授は次のように説明している。部分的にかじっただけだが、私には分かり易かったので引用して紹介する。
“ニーチェは、アイキュロスこそは、人間が文明の原理を導くことでさまざまな新しい矛盾や争いを生じさせたという事態をはじめて積極的に是認し、肯定する考え方を示した悲劇作家だった、という。つまり、・・・文明は人間の世界に新しい大きな矛盾をもたらしたかもしれないがそのことを否定すべきではない、むしろこの事態を是認すべきだ、という考え方を明確に打ち出したのである。・・・この矛盾を引受けつつなお生きようと欲する。まさしくここに人間存在の本質がある。”
また、“この欲望こそが矛盾(苦しみ)の根源なのだから、いっそ欲望そのものがなければ矛盾もなくなる”と考えるのが仏教の考え方だが、ニーチェはこうした考え方にはっきり反対したのだ、と。
また“ツァラトゥストラ”を読むうえでキィ・ワードの一つが有名な“ルサンチマン”であるとしている。これは、“フランス語でressentimentと書くが、sentiment(感情)に繰り返しのreがつくので、感情が振り払えず反復するというつくりの言葉”だが、“実際には「うらみ・ねたみ・そねみ」を意味”する。著者は“ニーチェ自身がルサンチマンにとらわれていたと確信”しているという。それは、ニーチェの期待したワーグナーに関して勝手な誤解からの不信感、秀才だったにもかかわらず体調不良からバーゼル大学での教授職の休職から失職、さらには失恋し友人も失うという、立て続けの不運があったのだから、“まさしくルサンチマンはニーチェ自身の問題”であったはずだという。
このルサンチマンが問題なのは、著者なりの言い方では“自分を腐らせてしまうから”であり、ニーチェに即していうと、“悦びを求め悦びに向かって生きていく力を弱めてしまう”問題(悦びの感覚の喪失)がまずあるからだという。二つ目には“「この人生を自分はこう生きよう」という、自分として主体的に生きる力を失わせてしまう”(主体性の感覚の喪失)ことだという。“ルサンチマンという病気に罹ると、自分を人生の主役だと感じられなくなってしまう”のである。
ニーチェは19世紀に“神は死んだ”と“悦ばしき知”(1882年)で言った。ニーチェにそんな影響力があったかどうかは別にして、この宣言は欧米のキリスト教徒には衝撃だったはずだ。キリスト教が人々に要求した“誠実さ”が科学を生み、その科学が神を死に追いやったという文脈だ。20世紀初頭に起こった第一次世界大戦の悲惨さとともに、こうした言葉でヨーロッパ世界は虚無感ニヒリズムに襲われたと聞く。
“神は死んだ”とは、当然“直接にはキリスト教の神が信じられなくなっていくことを指している。それは同時に、これまで信じられてきたヨーロッパの最高価値全てが失われてしまい、人々が目標を喪失してしまう”事態にいたる、これをニーチェは「ニヒリズム」という言葉で呼んだのだ。また“それに代わって人類が目指すものが必要になる。それをニーチェは「超人」と呼び表した”。
著者はこのニヒリズムについて、私たち日本人の場合、“1960年代から70年代半ばまでにかけての高度経済成長期には、個人の夢として「豊かさと自由を求める」ということ”があった。“ところが1980年頃を境にして、こうした目標や夢がどんどん落ちて行く。その大きな要因は、経済的な面で欧米に完全に追いついてしまった。・・・そして人々は「目標に向かってがんばる」という生き方ではなく、「生活を楽しむ」という価値観に移行していった”のだという。そして続けて次のように言う。“80年代から、私たちは個人の夢も社会全体の目標も与えられない時代に突入して”行き、日本社会はニヒリズムの渦中にあるのだと次のように指摘している。“ぼくが身近に接している大学生をみても、以前にくらべて、若者が未来や社会に期待する感度は明らかに落ちている”と。
かつて日本の若者は健全で元気だった。確かに“1960年代から70年代半ばまでにかけて”学生運動は“安保粉砕”や“帝大(帝国主義大学)解体”、“造反有理(反抗には理由がある)”で盛り上がり、活力ある若者の政治意識は最高潮に達したが、“問答無用”の警察力による弾圧で、学生運動は党派の内部抗争に移行し結局70年代半ばまでに自滅した。結果、“曖昧で猥雑な日本国”が生き延び、活力を失った無力感から“小市民的価値観”が蔓延しノンポリ社会となってしまった、というのが実態ではないだろうか。何故か議論を嫌うこの社会体質が問題の根幹にあり、それが“空気を読む”忖度社会の遠因ではないかと、私は考えている。それが返って“息苦しく、活力のない無気力な現在”に至っている。“病膏肓に至る”。このままでは活力のない日本は国際社会からも取り残されてしまうのではないか。
それは、矢張り“コミュニケーションや議論を嫌うこの社会体質”という問題が根底にあったからだと見るべきだろう。だからこそ、著者の西研教授自身も話しやすい諸条件を整えて議論するコミュニケーションの重要性を訴えているのではなかろうか。
閑話休題。最後に非常に難解な“永遠回帰”に取り掛かろう。これは昔、“永劫回帰”と言っていたように思う。なぜ“永遠回帰”に言い換えたのだろうか。語彙の多様性は表現の豊かさを生む。もし“永劫”という言葉を捨てて、“永遠”に統一するのだという意識ならば私は反対したい。これまでは“未来永劫”とは言っていたが、これからは“未来永遠”と言わされるのだろうか。
マタマタ本筋から外れてしまった。“永遠回帰”、“正確には「同じもの[同一物]の永遠回帰」という”のだそうだ。これも“悦ばしき知”(1882年)で言った着想だという。良いことも、悪いことも何度も何度も無限に人生に降りかかって来て繰り返される、という意味だという。ならば“運命はそのように既に定まっており、どんな克服努力もムダ”ではないのか。“悦びの感覚”を失わず、“主体性の感覚”を堅持して生きる意味はあるのか、とニヒリズムに陥るのが普通ではないか。
現に“ニーチェはのちに残した断片の中で、「永遠回帰の思想はニヒリズムを徹底する」という意味のことを記して”いるという。また、ニーチェは“永遠回帰を受け入れられる人こそが強者であり「超人」になりうる”と言っているという。どういうことか。
果たして“永遠回帰”とは何か。
“宇宙のなかのさまざまな物質やエネルギーの運行がたまたま合わさって[「結び目」となって]「わたし」をつくり出した。それはしばらくすると解体されるが、いずれまた宇宙のなかの物質とエネルギーの巡り合いと組み合わせのなかでもう一度「わたし」をつくり出す”ということだという。
これは物理学の思考実験のような次のような想定をしてみれば分かり易い。“抵抗がゼロで球がまったく止まることのないビリヤード台で、球をコーンと突いてみるとする。それは他の球にコーンとぶつかって他の球も動き出し、さらに球どうしがぶつかって局面は絶えず姿を変えていく。しかしそれらの球が無限に動き続けていれば、必ずいつかは、前と同じ局面の状態が再現される。そうするとそれ以降は同じことが繰り返されることになる。宇宙もこのようなものだ。”(本文は“です・ます”調であるが筆者が変更)
これを“ニーチェは一言で「エネルギー保存の原理は永遠回帰を要請する」”と言っている、という。
ニーチェの生きていた19世紀後半の最新の物理学の知見として、“エネルギー保存則”があり、それをヒントに“永遠回帰”のコンセプトはある、ということだ。これは熱力学第一法則であり、独物理学者ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウスの発見になるものだ。
しかし、第一法則があれば、同じくルドルフ・クラウジウスの第二法則もある。“熱は常に温度差をなくする傾向を示し、したがって常に高温物体から低温物体へと移動する”というもので、言い換えれば、“宇宙のエントロピーは最大値に向かう”という法則である。これは“エントロピーは増大する”と同義である。エントロピーとは現代物理学では“秩序性(規則性)の指標”であり、例えば物質の規則性は固体が高くエントロピーは低い状態である。液体では分子は自由なランダム・ウォークの運動(ブラウン運動)をしておりこの状態ではエントロピーは固体より大きい。気体分子はさらに密度が薄くなり自由度が増しており、エントロピーは液体よりさらに大である。
つまり第二法則は“宇宙の状態はよりデタラメな方向に不可逆的に増大している”というもので、同じことが何度も繰り返されるという“永遠回帰”のようなことは、現代の物理学では想定されていない。現に、“ビッグ・バン以降、宇宙は膨張している”というのが現代物理学の知見のはずだ。(逆に、ビッグ・バン以前はどうだったのかの事実認識はできていないので、その枠組みを超えた部分では、どうなっているかは不明だ。そう考えるのであれば“永遠回帰”は有り得る?しかし、今の私には少々考え難い!)
さてクラウジウスの時代にエントロピーがこうしたランダムネスの指標として解釈されていたかは、私には不明だがニーチェの“永遠回帰”が、第二法則を見落としていたのは、“片落ち”と言わざるを得ない。
だから、“運命は既に定まっており、どんな克服努力もムダ”というようなゾッとすることは現実には起きないと、私は想定する。つまり、“困難克服努力”は大抵の局面では有効なハズであると信じたい。
だが、世の中にはその克服できない不幸もある、どうするのか。例えば身体の障害、これは本人の努力では、最先端医療でも改善し克服できる容易な問題では決して無い。決して本人のせいではなく“運命”のせいである場合が殆どだろう。それをルサンチマンに陥らず、精神的に克服し“悦んでそれを欲する”程の覚悟と積極的な超意欲がなければならないと、ニーチェは言っているというのだ。不幸を悦んで甘受せよ、そうでなければ“超人”には少しも近付けないというのだろう。
しかしどうしても、この本を読んだだけでは、今の私には“永遠回帰”の思想は理解できない部分が残る。ニーチェの言いたいことは実は人間愛に満ちた暖かい本質だと頭では分かったような気がするが、スコンと腑に落ちない部分がどうしても残るのだ。この“スコンと腑に落とす”ために、諦めずにいつか近い将来、先に紹介した竹田青嗣教授の本も読み切ってみたいと思っている。私の哲学帳の課題として残しておきたい。

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