The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
養老孟司・著『死の壁』を読んで
今、東京の民放TV局が存亡の危機の中にある。
SDGsをオチャラケて“やっているフリ”をして いたら、まじめにSDGsをやって来た会社にCM提供のそっぽを向かれたという格好なのだ。たしかにこのTV局一寸傲慢だったのではなかろうか。そして世間を舐め過ぎていた。
SDGsには“環境”ばかりではなく、“人権”も含まれている。ウェッブ・サイトの“フジテレビのサステナビリティ・CSR”では年次活動リポートの“SDGsアクションリポート2024”に“フジ・メディア・ホールディングス グループ人権方針”という箇所がある。それにもかかわらず、著名なタレントには人身の“献上”があったのではないかという疑惑が存在しているのだ。それがこの会社のカルチャーではないかというのだ。これを事実かどうか闇の彼方に葬り去りたいという経営陣の姿勢も問題なのだ。このTV局は“あらゆるレベルにおいて、有効で説明責任のある透明性の高い公共機関”と言えるのだろうか?
報道機関は世の中の動向を正確に把握していなければならない。ところがこのTV局は世間を舐め過ぎていて、SDGsも“やっているフリ”をしていれば問題ないと思っていたのだろう。
SDGsは“やっている”と自己宣言すれば、それで問題ない!だが、そこが問題なのだ。誰も適正に実施しているとは検証していないのだ。だから誰でも“やっている”と勝手に言うことができるのだ。かつてあったCSR報告のインチキと何ら変わりない。だが、少なくともISOマネジメントは“自己宣言”以外は顧客による二者監査、第三者つまり審査機関による三者監査が実施されてある程度の検証はされているのだ。
それにしてもこのTV局、日替わりで言い訳オジサンが登場している。あんなにエライヒトが大勢いて、一人もお役に立っていないのはどういうことだろう?!デクノボーのオンパレードだ。もういい加減に一社くらい潰れた方が良いのではないか?
日銀が政策金利である無担保コール翌日物金利の誘導目標を現行の0.25%程度から0.5%程度にすると決めた。
これで幾分円安が止まる。円安が止まれば物価上昇の要因の一つが消えるので喜ばしいことではないか。
さて、今回は養老孟司・著『死の壁』を読んだので紹介したい。偶然Book Offで見つけた本で、奥付には“2005年22刷”となっている。新刊書では最早手に入り難くなっているのではないか。だが、私には読むのにぼちぼちふさわしい年齢だな!といったところ・・・というよりむしろ“読まないことが問題?”といった感じで読むことにした。
読み始めると、“死について”日頃気付いていないことへの指摘が多くて、そういわれればそうだなぁ・・・といったように気付く事柄が多い内容だ。大局的には“なるようにしかならないし、考えたって仕方ない。”ということで納得、そういった姿勢で読み過ごした。
以下にこの本の概要を紹介したい。
[内容説明]
ガンやSARSで騒ぐことはない。そもそも人間の死亡率は100%なのだから――。誰も必ず通る道でありながら、目をそむけてしまう「死」の問題。死といかに向きあうべきか。なぜ人を殺してはいけないのか。生と死の境目はどこにあるのか。イラク戦争と大学紛争の関連性とは。死にまつわるさまざまなテーマを通じて、現代人が生きていくための知恵を考える。『バカの壁』に続く養老孟司の新潮新書第二弾。
[出版社内容情報]紀伊国屋書店による概要説明。
バカより高い壁があった・・・・・。
逃げず、怖れず、考えた最終解答。
私たちは死を遠ざけ過ぎてはいないだろうか。
見えないふりをしてはいないだろうか。
死を考えれば、世の中が見えてくる。
自分が見えてくる。
私の人生の記憶は父親の死から始まっています。人生は物心つく頃から始まるとすると、私の場合には人生が最初から死に接していたことになります。それで死という主題をよく扱うのかもしれません。解剖学を専攻した理由の一つも、そこにあるのかもしれない。そう思うこともあります。いまでは多くの人が、死を考えたくないと思っているようです。でもたまにそういうことを考えておくと、あんがい安心して生きられるかもしれません。ともかく私は安心して生きていますからね。(あとがきより)
[目次]
序 章 『バカの壁』の向こう側
どうすればいいんでしょうか/わからないから面白い/人生の最終解答/人が死なない団地
第1章 なぜ人を殺してはいけないのか
中国の有人宇宙船は快挙か/殺すのは簡単/あともどりできない/ブータンのお爺さん/二度と作れないもの/人間中心主義の危うさ
第2章 不死の病
不死身の人/魂の消滅/「俺は俺」の矛盾/「本当の自分」は無敵の論理/死ねない/死とウンコ/身体が消えた/裸の都市ギリシャ/死が身近だった中世/死の文化/葬式の人間模様/実感がない/宅間守の怖さ/派出所の不遜/ゲームの中の死体
第3章 生死の境目
生とは何か/診断書は無関係/境界はあいまい/生の定義/クエン酸回路/システムの連鎖/去年の「私」は別人/絶対死んでいる人/生きている骨/判定基準/誰が患者を殺したか/規定は不可能
第4章 死体の人称
死体とは何か/一人称の死体/二人称の死体/三人称の死体/モノではない/解剖が出来なくなった頃
第5章 死体は仲間はずれ
清めの塩の意味/なぜ戒名は必要か/人非人とは何者か/江戸の差別問題/この世はメンバーズクラブ/脱会の方法/「間引き」は入会審査/ベトちゃん、ドクちゃんが日本にいない理由
第六章 脳死と村八分
脳死という脱会/村八分は全員一致で/イラン人の火葬/靖国問題の根本/死刑という村八分/臓器移植法の不思議/「人は人」である/大学も村/ケネディは裏口入学か
第7章 テロ・戦争・大学紛争
戦争と原理主義/正義の押し付けがましさ/戦争で人減らし/学生運動は就職活動/反権力と反体制/敗軍の将の弁/軍国主義者は戦争を知らない/イラクの知人/国益とは何か/ものつくりという戦争
第8章 安楽死とエリート
安楽死は苦しい/エリートは加害者/産婆の背負う重荷/つきまとう重荷/エリートの消滅/銀の心臓ケース/解剖は誰がやったのか/天の道、人の道/ルールの明文化/人命尊重の範囲/役所の書類が多い理由/自分への恐怖/解剖教室の花
終 章 死と人事異動
死の恐怖は存在しない/考えても無駄/老醜とは何か/悩むのは当たり前/慌てるな/父の死/挨拶が苦手な理由/死の効用/ただのオリンピック/生き残った者の課題/日々回復不能
あとがき
[著者紹介]養老孟司[ヨウロウタケシ]
1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。1989年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年の『バカの壁』は450万部を超えるベストセラーとなった。ほか著書に『唯脳論』『ヒトの壁』など多数。
ここまできて、結構面白そうだと感じるではないだろうか。現代日本は、“人が死なない団地”に示されるように、“死”が日常でなくなってきている。“人が死なない団地”というのは、団地の建物が人の死を想定した設計になっておらず、人が亡くなった後に搬出するのに結構一苦労しなければならず面倒なことになるという、日頃気付かない指摘なのだ。
現代日本人は“人生、わからないから面白い”ことが分からない。“では具体的に、どうするべきか”と必ず訊いてくるという。正解は人それぞれ、時によって変わる、不確定要素が多くてそれが分からないことが多く、“人生、わからないから面白い”となることが分からない。
昔、ISO9001や14001に適合する組織にしてくれという依頼を受けて、適合組織にしようとしたとき、訊かれるのが必ず“そのための(他社の)事例を示せ!”と訊いてくるのが常だった。恐らく、他のことでも経営者同士で、“お宅、どうしたはります?”と訊きまくっているのが大半ではなかろうか。会社というものは、実に千差万別、取り巻く環境も存立条件も顧客も実に様々、“どうしたはります?”と訊きまくったって、正解があるはずがない。それが分かっていないのだ。“自分達で考えなければ正解は無い”のだ。
ISOマネジメントシステムの構築に当たってコンサルタントは“一緒に考えましょ”と言うのだが、“事例を示せ!”と直ぐにお手軽な回答を求めて来る!“分からんヤッチャなぁ~!”物事、正解が無いから先ずはやってみて、後はトライ&エラー、PDCAで出来たものが拙ければ必修正して行くものなのだ。その真面目な努力が必要なのだ。その生真面目さに欠けているのではあるまいか?
“人生の最終解答”は、“人間は必ず死ぬ”ということ。これが“最終解答”ということ。“わかっていると思い込んでいるけれども、どこまで本気で考えた末にわかっているのか甚だ怪しい”。だから、“お宅、どうしたはります?”とばかり、この本を読んだのだ。
第1章は、“なぜ人を殺してはいけないのか”。これも分かったつもりで、実は分かっていない問題である。著者はそれを、ヨーロッパのルネッサンス以降の人間中心の“人間復興”にあるという。“実体としての人間の持つ複雑さとかそういうものとは別に、勝手に意識だけが人間のすべてだと考えるようになった”からだという。要するに、自然環境ばかりではなく人間の存在の社会条件との関係性も含めての“システム”(存在)が大事なので、孤立した“人間の意識”だけが人間の存在性ではなく、人が殺されればその全ての“システム”(関係性)が破壊され、その破壊が及ぼす影響は取り返しがつかないから、なのだ。この本ではそこまで明示してはいないが、私なりに総括すればそういうことのようだ。だから、自殺も良くないのだ。
第3章の“生死の境目”では、実は科学的には判然としていないと言っている。“脳死が議論される前は、とりあえず大多数の人が心臓が止まることを死だとして”いたが、それは一つの定義に過ぎず、“現代では脳死が死だ”とする人も居る。そのうち“「脳の神経細胞が全部死んだ時点」が脳死”だとする人も居るが“どの時点で全部死んだとは分からない”という。
人間の細胞はクエン酸回路のサイクルでごっそり入れ替わるが、“脳死のあとでもこのサイクルは身体の一部では動いているし、電流を流せば動くところもある。”“はっきり言えることは、今の時点では「生死の境」は死亡診断書にしか存在していない”と言っている。だが、脳死の判定基準があいまいなままではなく、“その判定は厳密に行われている”という。
第4章の“死体の人称”は非常に興味深い。死体には“一人称”、“二人称”、“三人称”の3種類の死体があるという。
“一人称”の死体とは具体的には「俺の死体」、だから実際にはあり得ない。“二人称”の死体とは“いわゆる抽象的な「死体」とは別のもの”であり、“実は私たちがもっともわかる「死」、悲しみなどの感情を伴って見つめる「死」”である。“三人称”の死体とは、“第三者、アカの他人”の死体のことで、「死体である死体」となる。“交番に貼ってある「昨日の交通事故者1名」”の客観視できる死体とのこと。
著者は解剖学者として死体をどう見ているか、“一般には死体をホトケといいますが、ホトケを扱えといわれても困る”と言い、“結局、私は死体も人間であると考える”と言い、“生きている人を扱うのと同じように、死体もあつかう。そう考えておけば何の不都合”もない、と言っている。
第5章での“死体は仲間はずれ”は、日本では“死体は「人間じゃない」”と思われている、ということであるとの指摘である。それが証拠に“葬儀のあとの「清めの塩」”があるじゃないか、というのだ。“死体を「穢れ」として見ているからこそ”であるというのだ。“「死んだ奴は我々の仲間ではない」というルールがあるからだ”という。“日本人の「ヒト」の定義は、世間を一つの円だとするならば、この円、すなわち世間に所属している人のこと。そして死んだ途端に、「ヒト」はこの円から出されてしまう”のだというのだ。死んで戒名をつけるというのは、要はもうこれまでの名前では呼ばない、ということ。これらは、“つまり死者は差別されている”のであり、“世間という円から出されてしまうということ”なのだ。
“切腹というのは、こういうメンバーズクラブの会員資格を武士の一存で消滅させるということ”であり、“そうしてまで脱会する恩典は何かといえば、それまでのクラブ内での義理をチャラにする”ということ。“「あいつが腹を切ってくれれば丸く収まるのに」というのはそれによって彼に絡んださまざまな義理や負債をチャラにできる”ということになるのだ。
“退会がそれだけ厳しいメンバーズクラブならば、入会だって相当うるさいのは当然”である。日本では“「間引き」の伝統がある”という。日本では“生まれてくるまでは親の一部と考えられていて、生まれて来るかどうかは親の一存に任されてしまっている”のだ。“中絶が普及したにもかかわらず、倫理問題として取り上げられたことは極めて少ない。・・・胎児が人間ではなく母親の一部だというのは、臓器のようなものだということ”であり、“母親が経済の都合で臓器を売るということと、仕方が無いから子供を堕すというのは似た感覚”なのだという。
第6章では、日本人意識の生者のメンバーズクラブの会員意識を脳死者にどう適用するのかで、問題になったことを取り上げている。これが議論された舞台が脳死臨調だったという。ところが、“その臨調に参加した人には、集会の性質が村の総意を決めるためのものだという自覚がほとんどなかった。だから議論が混乱した”と指摘する。臓器移植すべきという議論の中心が特定機能集団の医者だった。こういう特定集団に村八分の問題を決めさせて良いのだろうかと村人は思った、というのだ。“脳死臨調のメンバーでもあった哲学者の梅原猛氏は、そんなことを決めたら、日本古来の良風美俗が壊れるというような主旨の発言をされた。それは他でもない共同体の暗黙のルールを説かれていたのだ”というのだ。共同体のルールに関わること、それは慣習法であり「非成文憲法」であって、村人全員が決めなくてはいけないことだった。
臓器移植法では端的に言うと、「脳死は死ではないが、臓器移植は可能である」という最も驚くべき結論を基に作成された、という。“「脳死は死だ」という断定を避けないと、村八分を規定するルールに引っかかってしまう。・・・全員一致じゃないのに、そんなことを決めてはならない。しかし臓器移植は進めたい。”ということでこうなった、といのだ。こんな非論理的なルールは他国では無理だが、日本では通用した。
第7章では原理主義の問題を取り上げている。原理主義が争いの焦点になると言っている。だから、“人間は「自分が絶対だと思ていても、それとは別の考え方もあるのだろう」というくらいの留保を持った方が良い。そうすれば「絶対の正義」をふりかざしてぶつかるということもなくなるのではないか”とは当然のことだろう。確かに正義の押しつけは鬱陶しい。
1970年代の大学紛争は、戦後の“どこの国も人口が増えて若い人が余った。彼らの行き場のないエネルギーが溜まり、その発散場所として学生運動という場が作られた”と言っている。ホンマか?“戦争にせよ、大学紛争にせよ・・・根本には暗黙のエネルギーの発散という側面があった”と言っている。
まぁこれは良いとして、ここで著者の厄介な誤認がある。1970年代は“ロクな就職口がなかった。そのフラストレーションが運動の背景にあったはず”というのだが、実はそんなことはなかった。戦った学生でも就職できたし、面接で“大学紛争をどう過ごしたか”を特に問われることもなく、企業側も大らかだったのが当時の実態だった。だからこそユーミンの『いちご白書をもう一度』の台詞“もう若くないさと君にいいわけしたね”があり、こっちが真実だった。
舛添要一氏の「戦争を研究すること自体が何か許されない風潮があるんだよ」との独り言にも言及している。しかし、この点にについて、本郷和人氏も『「合戦」の日本史』で言及しているが、著者の取り上げ方は一寸唐突で論点がずれているのではないかと思われる。
まぁ、著者には少し浮世離れしているところがある印象だが、それがこの人の持ち味なのだろう。
第8章では安楽死について論じている。死について死ぬ側のことが論じられるが、実は“安楽死させる方”の医師の心に重大な傷PTSDを残すことになるので、この加害者側の問題は大きい。この加害者はある種のエリートである。“エリートというのは、(社会的に)否が応でも常に加害しうる(orさせうる)立場にいる”(括弧内筆者)のだ。だから安楽死のエリートとの関係について言っている。
ついでに、日露戦争の乃木将軍の事例で、203高地で(子息も含めて)大勢の若い兵士を死なせて、その重さを背負わなければならなかった。エリートは“常に民衆を犠牲にしうる立場にいるのだ”という覚悟が必要で、そういうエリート教育も必要なのだ、という。だが、現代の特に巨大工事現場での事故は必須と著者が考えているフシがあって建設公団などで犠牲者が出る覚悟について言及している。これにも著者の浮世離れを感じる。これは戦争と同列に扱えない事例で一世代古い発想であり、今の責任者の覚悟はもっと別なところにあるのが現代なのだ。
そして少々唐突に、深沢七郎の小説『みちのくの人形たち』で“間引き”の話を持ち出し、産婆の“業”について語っている。安楽死が合法のオランダのホスピスの担当医は、他の医療行為には携わらずにいる。だが彼がこのような“業”を背負っていると単純にいうと、差別につながりやすい、と言っている。こういう仕事が成り立つのは、社会の都市化と関連し、“三人称の死”の一般化があるからだという。そして、小々言い過ぎかと思われるが、一般人にある種の“後ろめたさが無い”傾向にあるという。
“それがエリート教育がなくなってしまった根本”だという。“特に日本の場合は、平等主義がいたるところに蔓延してしまった。そのために、エリート教育というものも無くなった。そしてエリートが背負う重さというものが無くなってしまった。エリートという形骸化した地位だけが残った”というのだ。
江戸時代の解剖は“杉田玄白が最初に解剖をやったということになっているが、そうではない。その時に実際に解剖をやったのは、当時の被差別民だ。”被差別民がそれまで刑場で実際にやっていて経験があったから、その指導を受けてやったのが実際だった。それは“学者がやらないと「解剖学」にならない”、からだという。“杉田玄白の名は残るが、実際に技術を持っていた人たちの存在は消されて”しまった、という。このエピソード紹介以降、次のように論理展開している。
①杉田玄白以前に解剖を行った山脇東洋はどんなに偉い人でも野蛮人でも内蔵は皆同じ、中身は同じだと言った。
②杉田玄白に大きく影響した荻生徂徠は宋学と異なり、社会的なルールと自然科学のルールは別だというようなことを言った。
③天のルールと地のルールは異なるというのはタテマエとホンネは違う、ということである。
①では自然のルールでは人間皆平等、同じなのだが、やっぱり社会的には偉い人と野蛮人の間には差があるのだと②では言い、③ではそれを発展した論理としている。
そして、“ルールの明文化”それが単純に進歩だと考えるのは、タテマエの明文化とホンネの乖離を放置することになるので、それは良いことなのかと疑問を呈している。だから“アメリカの裁判の陪審制は、人間の最良という、かんりいい加減なものが入る余地を残している”のだと言っている。「人命尊重」のタテマエでどこまでも患者を助けようとする現代の医療は安楽死とは矛盾する。“「人は死ぬものだ」という前提を落としてしまっている。すると死について正面から考えるのは難しくなる。”
終章では、死については誰も死の経験が無いのでどうなるか分からないから考えても無駄なのだ。だからこそ本当は“死の恐怖は存在しない”のだ。分からないことが恐いのはしょうがない。
つまるところ、人間悩むのは尽きない、“悩むのは当たり前”で、慌てて自殺などするな。自分の殺人であり、周囲の迷惑を考えろ、ということ。“人生のあらゆることは取り返しがつかない。”
このように、各章に興味深いエピソード満載でヨウロウタケシ・ワールドが、人生の本質的課題で満喫できた。
SDGsをオチャラケて“やっているフリ”をして いたら、まじめにSDGsをやって来た会社にCM提供のそっぽを向かれたという格好なのだ。たしかにこのTV局一寸傲慢だったのではなかろうか。そして世間を舐め過ぎていた。
SDGsには“環境”ばかりではなく、“人権”も含まれている。ウェッブ・サイトの“フジテレビのサステナビリティ・CSR”では年次活動リポートの“SDGsアクションリポート2024”に“フジ・メディア・ホールディングス グループ人権方針”という箇所がある。それにもかかわらず、著名なタレントには人身の“献上”があったのではないかという疑惑が存在しているのだ。それがこの会社のカルチャーではないかというのだ。これを事実かどうか闇の彼方に葬り去りたいという経営陣の姿勢も問題なのだ。このTV局は“あらゆるレベルにおいて、有効で説明責任のある透明性の高い公共機関”と言えるのだろうか?
報道機関は世の中の動向を正確に把握していなければならない。ところがこのTV局は世間を舐め過ぎていて、SDGsも“やっているフリ”をしていれば問題ないと思っていたのだろう。
SDGsは“やっている”と自己宣言すれば、それで問題ない!だが、そこが問題なのだ。誰も適正に実施しているとは検証していないのだ。だから誰でも“やっている”と勝手に言うことができるのだ。かつてあったCSR報告のインチキと何ら変わりない。だが、少なくともISOマネジメントは“自己宣言”以外は顧客による二者監査、第三者つまり審査機関による三者監査が実施されてある程度の検証はされているのだ。
それにしてもこのTV局、日替わりで言い訳オジサンが登場している。あんなにエライヒトが大勢いて、一人もお役に立っていないのはどういうことだろう?!デクノボーのオンパレードだ。もういい加減に一社くらい潰れた方が良いのではないか?
日銀が政策金利である無担保コール翌日物金利の誘導目標を現行の0.25%程度から0.5%程度にすると決めた。
これで幾分円安が止まる。円安が止まれば物価上昇の要因の一つが消えるので喜ばしいことではないか。
さて、今回は養老孟司・著『死の壁』を読んだので紹介したい。偶然Book Offで見つけた本で、奥付には“2005年22刷”となっている。新刊書では最早手に入り難くなっているのではないか。だが、私には読むのにぼちぼちふさわしい年齢だな!といったところ・・・というよりむしろ“読まないことが問題?”といった感じで読むことにした。
読み始めると、“死について”日頃気付いていないことへの指摘が多くて、そういわれればそうだなぁ・・・といったように気付く事柄が多い内容だ。大局的には“なるようにしかならないし、考えたって仕方ない。”ということで納得、そういった姿勢で読み過ごした。
以下にこの本の概要を紹介したい。
[内容説明]
ガンやSARSで騒ぐことはない。そもそも人間の死亡率は100%なのだから――。誰も必ず通る道でありながら、目をそむけてしまう「死」の問題。死といかに向きあうべきか。なぜ人を殺してはいけないのか。生と死の境目はどこにあるのか。イラク戦争と大学紛争の関連性とは。死にまつわるさまざまなテーマを通じて、現代人が生きていくための知恵を考える。『バカの壁』に続く養老孟司の新潮新書第二弾。
[出版社内容情報]紀伊国屋書店による概要説明。
バカより高い壁があった・・・・・。
逃げず、怖れず、考えた最終解答。
私たちは死を遠ざけ過ぎてはいないだろうか。
見えないふりをしてはいないだろうか。
死を考えれば、世の中が見えてくる。
自分が見えてくる。
私の人生の記憶は父親の死から始まっています。人生は物心つく頃から始まるとすると、私の場合には人生が最初から死に接していたことになります。それで死という主題をよく扱うのかもしれません。解剖学を専攻した理由の一つも、そこにあるのかもしれない。そう思うこともあります。いまでは多くの人が、死を考えたくないと思っているようです。でもたまにそういうことを考えておくと、あんがい安心して生きられるかもしれません。ともかく私は安心して生きていますからね。(あとがきより)
[目次]
序 章 『バカの壁』の向こう側
どうすればいいんでしょうか/わからないから面白い/人生の最終解答/人が死なない団地
第1章 なぜ人を殺してはいけないのか
中国の有人宇宙船は快挙か/殺すのは簡単/あともどりできない/ブータンのお爺さん/二度と作れないもの/人間中心主義の危うさ
第2章 不死の病
不死身の人/魂の消滅/「俺は俺」の矛盾/「本当の自分」は無敵の論理/死ねない/死とウンコ/身体が消えた/裸の都市ギリシャ/死が身近だった中世/死の文化/葬式の人間模様/実感がない/宅間守の怖さ/派出所の不遜/ゲームの中の死体
第3章 生死の境目
生とは何か/診断書は無関係/境界はあいまい/生の定義/クエン酸回路/システムの連鎖/去年の「私」は別人/絶対死んでいる人/生きている骨/判定基準/誰が患者を殺したか/規定は不可能
第4章 死体の人称
死体とは何か/一人称の死体/二人称の死体/三人称の死体/モノではない/解剖が出来なくなった頃
第5章 死体は仲間はずれ
清めの塩の意味/なぜ戒名は必要か/人非人とは何者か/江戸の差別問題/この世はメンバーズクラブ/脱会の方法/「間引き」は入会審査/ベトちゃん、ドクちゃんが日本にいない理由
第六章 脳死と村八分
脳死という脱会/村八分は全員一致で/イラン人の火葬/靖国問題の根本/死刑という村八分/臓器移植法の不思議/「人は人」である/大学も村/ケネディは裏口入学か
第7章 テロ・戦争・大学紛争
戦争と原理主義/正義の押し付けがましさ/戦争で人減らし/学生運動は就職活動/反権力と反体制/敗軍の将の弁/軍国主義者は戦争を知らない/イラクの知人/国益とは何か/ものつくりという戦争
第8章 安楽死とエリート
安楽死は苦しい/エリートは加害者/産婆の背負う重荷/つきまとう重荷/エリートの消滅/銀の心臓ケース/解剖は誰がやったのか/天の道、人の道/ルールの明文化/人命尊重の範囲/役所の書類が多い理由/自分への恐怖/解剖教室の花
終 章 死と人事異動
死の恐怖は存在しない/考えても無駄/老醜とは何か/悩むのは当たり前/慌てるな/父の死/挨拶が苦手な理由/死の効用/ただのオリンピック/生き残った者の課題/日々回復不能
あとがき
[著者紹介]養老孟司[ヨウロウタケシ]
1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。1989年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年の『バカの壁』は450万部を超えるベストセラーとなった。ほか著書に『唯脳論』『ヒトの壁』など多数。
ここまできて、結構面白そうだと感じるではないだろうか。現代日本は、“人が死なない団地”に示されるように、“死”が日常でなくなってきている。“人が死なない団地”というのは、団地の建物が人の死を想定した設計になっておらず、人が亡くなった後に搬出するのに結構一苦労しなければならず面倒なことになるという、日頃気付かない指摘なのだ。
現代日本人は“人生、わからないから面白い”ことが分からない。“では具体的に、どうするべきか”と必ず訊いてくるという。正解は人それぞれ、時によって変わる、不確定要素が多くてそれが分からないことが多く、“人生、わからないから面白い”となることが分からない。
昔、ISO9001や14001に適合する組織にしてくれという依頼を受けて、適合組織にしようとしたとき、訊かれるのが必ず“そのための(他社の)事例を示せ!”と訊いてくるのが常だった。恐らく、他のことでも経営者同士で、“お宅、どうしたはります?”と訊きまくっているのが大半ではなかろうか。会社というものは、実に千差万別、取り巻く環境も存立条件も顧客も実に様々、“どうしたはります?”と訊きまくったって、正解があるはずがない。それが分かっていないのだ。“自分達で考えなければ正解は無い”のだ。
ISOマネジメントシステムの構築に当たってコンサルタントは“一緒に考えましょ”と言うのだが、“事例を示せ!”と直ぐにお手軽な回答を求めて来る!“分からんヤッチャなぁ~!”物事、正解が無いから先ずはやってみて、後はトライ&エラー、PDCAで出来たものが拙ければ必修正して行くものなのだ。その真面目な努力が必要なのだ。その生真面目さに欠けているのではあるまいか?
“人生の最終解答”は、“人間は必ず死ぬ”ということ。これが“最終解答”ということ。“わかっていると思い込んでいるけれども、どこまで本気で考えた末にわかっているのか甚だ怪しい”。だから、“お宅、どうしたはります?”とばかり、この本を読んだのだ。
第1章は、“なぜ人を殺してはいけないのか”。これも分かったつもりで、実は分かっていない問題である。著者はそれを、ヨーロッパのルネッサンス以降の人間中心の“人間復興”にあるという。“実体としての人間の持つ複雑さとかそういうものとは別に、勝手に意識だけが人間のすべてだと考えるようになった”からだという。要するに、自然環境ばかりではなく人間の存在の社会条件との関係性も含めての“システム”(存在)が大事なので、孤立した“人間の意識”だけが人間の存在性ではなく、人が殺されればその全ての“システム”(関係性)が破壊され、その破壊が及ぼす影響は取り返しがつかないから、なのだ。この本ではそこまで明示してはいないが、私なりに総括すればそういうことのようだ。だから、自殺も良くないのだ。
第3章の“生死の境目”では、実は科学的には判然としていないと言っている。“脳死が議論される前は、とりあえず大多数の人が心臓が止まることを死だとして”いたが、それは一つの定義に過ぎず、“現代では脳死が死だ”とする人も居る。そのうち“「脳の神経細胞が全部死んだ時点」が脳死”だとする人も居るが“どの時点で全部死んだとは分からない”という。
人間の細胞はクエン酸回路のサイクルでごっそり入れ替わるが、“脳死のあとでもこのサイクルは身体の一部では動いているし、電流を流せば動くところもある。”“はっきり言えることは、今の時点では「生死の境」は死亡診断書にしか存在していない”と言っている。だが、脳死の判定基準があいまいなままではなく、“その判定は厳密に行われている”という。
第4章の“死体の人称”は非常に興味深い。死体には“一人称”、“二人称”、“三人称”の3種類の死体があるという。
“一人称”の死体とは具体的には「俺の死体」、だから実際にはあり得ない。“二人称”の死体とは“いわゆる抽象的な「死体」とは別のもの”であり、“実は私たちがもっともわかる「死」、悲しみなどの感情を伴って見つめる「死」”である。“三人称”の死体とは、“第三者、アカの他人”の死体のことで、「死体である死体」となる。“交番に貼ってある「昨日の交通事故者1名」”の客観視できる死体とのこと。
著者は解剖学者として死体をどう見ているか、“一般には死体をホトケといいますが、ホトケを扱えといわれても困る”と言い、“結局、私は死体も人間であると考える”と言い、“生きている人を扱うのと同じように、死体もあつかう。そう考えておけば何の不都合”もない、と言っている。
第5章での“死体は仲間はずれ”は、日本では“死体は「人間じゃない」”と思われている、ということであるとの指摘である。それが証拠に“葬儀のあとの「清めの塩」”があるじゃないか、というのだ。“死体を「穢れ」として見ているからこそ”であるというのだ。“「死んだ奴は我々の仲間ではない」というルールがあるからだ”という。“日本人の「ヒト」の定義は、世間を一つの円だとするならば、この円、すなわち世間に所属している人のこと。そして死んだ途端に、「ヒト」はこの円から出されてしまう”のだというのだ。死んで戒名をつけるというのは、要はもうこれまでの名前では呼ばない、ということ。これらは、“つまり死者は差別されている”のであり、“世間という円から出されてしまうということ”なのだ。
“切腹というのは、こういうメンバーズクラブの会員資格を武士の一存で消滅させるということ”であり、“そうしてまで脱会する恩典は何かといえば、それまでのクラブ内での義理をチャラにする”ということ。“「あいつが腹を切ってくれれば丸く収まるのに」というのはそれによって彼に絡んださまざまな義理や負債をチャラにできる”ということになるのだ。
“退会がそれだけ厳しいメンバーズクラブならば、入会だって相当うるさいのは当然”である。日本では“「間引き」の伝統がある”という。日本では“生まれてくるまでは親の一部と考えられていて、生まれて来るかどうかは親の一存に任されてしまっている”のだ。“中絶が普及したにもかかわらず、倫理問題として取り上げられたことは極めて少ない。・・・胎児が人間ではなく母親の一部だというのは、臓器のようなものだということ”であり、“母親が経済の都合で臓器を売るということと、仕方が無いから子供を堕すというのは似た感覚”なのだという。
第6章では、日本人意識の生者のメンバーズクラブの会員意識を脳死者にどう適用するのかで、問題になったことを取り上げている。これが議論された舞台が脳死臨調だったという。ところが、“その臨調に参加した人には、集会の性質が村の総意を決めるためのものだという自覚がほとんどなかった。だから議論が混乱した”と指摘する。臓器移植すべきという議論の中心が特定機能集団の医者だった。こういう特定集団に村八分の問題を決めさせて良いのだろうかと村人は思った、というのだ。“脳死臨調のメンバーでもあった哲学者の梅原猛氏は、そんなことを決めたら、日本古来の良風美俗が壊れるというような主旨の発言をされた。それは他でもない共同体の暗黙のルールを説かれていたのだ”というのだ。共同体のルールに関わること、それは慣習法であり「非成文憲法」であって、村人全員が決めなくてはいけないことだった。
臓器移植法では端的に言うと、「脳死は死ではないが、臓器移植は可能である」という最も驚くべき結論を基に作成された、という。“「脳死は死だ」という断定を避けないと、村八分を規定するルールに引っかかってしまう。・・・全員一致じゃないのに、そんなことを決めてはならない。しかし臓器移植は進めたい。”ということでこうなった、といのだ。こんな非論理的なルールは他国では無理だが、日本では通用した。
第7章では原理主義の問題を取り上げている。原理主義が争いの焦点になると言っている。だから、“人間は「自分が絶対だと思ていても、それとは別の考え方もあるのだろう」というくらいの留保を持った方が良い。そうすれば「絶対の正義」をふりかざしてぶつかるということもなくなるのではないか”とは当然のことだろう。確かに正義の押しつけは鬱陶しい。
1970年代の大学紛争は、戦後の“どこの国も人口が増えて若い人が余った。彼らの行き場のないエネルギーが溜まり、その発散場所として学生運動という場が作られた”と言っている。ホンマか?“戦争にせよ、大学紛争にせよ・・・根本には暗黙のエネルギーの発散という側面があった”と言っている。
まぁこれは良いとして、ここで著者の厄介な誤認がある。1970年代は“ロクな就職口がなかった。そのフラストレーションが運動の背景にあったはず”というのだが、実はそんなことはなかった。戦った学生でも就職できたし、面接で“大学紛争をどう過ごしたか”を特に問われることもなく、企業側も大らかだったのが当時の実態だった。だからこそユーミンの『いちご白書をもう一度』の台詞“もう若くないさと君にいいわけしたね”があり、こっちが真実だった。
舛添要一氏の「戦争を研究すること自体が何か許されない風潮があるんだよ」との独り言にも言及している。しかし、この点にについて、本郷和人氏も『「合戦」の日本史』で言及しているが、著者の取り上げ方は一寸唐突で論点がずれているのではないかと思われる。
まぁ、著者には少し浮世離れしているところがある印象だが、それがこの人の持ち味なのだろう。
第8章では安楽死について論じている。死について死ぬ側のことが論じられるが、実は“安楽死させる方”の医師の心に重大な傷PTSDを残すことになるので、この加害者側の問題は大きい。この加害者はある種のエリートである。“エリートというのは、(社会的に)否が応でも常に加害しうる(orさせうる)立場にいる”(括弧内筆者)のだ。だから安楽死のエリートとの関係について言っている。
ついでに、日露戦争の乃木将軍の事例で、203高地で(子息も含めて)大勢の若い兵士を死なせて、その重さを背負わなければならなかった。エリートは“常に民衆を犠牲にしうる立場にいるのだ”という覚悟が必要で、そういうエリート教育も必要なのだ、という。だが、現代の特に巨大工事現場での事故は必須と著者が考えているフシがあって建設公団などで犠牲者が出る覚悟について言及している。これにも著者の浮世離れを感じる。これは戦争と同列に扱えない事例で一世代古い発想であり、今の責任者の覚悟はもっと別なところにあるのが現代なのだ。
そして少々唐突に、深沢七郎の小説『みちのくの人形たち』で“間引き”の話を持ち出し、産婆の“業”について語っている。安楽死が合法のオランダのホスピスの担当医は、他の医療行為には携わらずにいる。だが彼がこのような“業”を背負っていると単純にいうと、差別につながりやすい、と言っている。こういう仕事が成り立つのは、社会の都市化と関連し、“三人称の死”の一般化があるからだという。そして、小々言い過ぎかと思われるが、一般人にある種の“後ろめたさが無い”傾向にあるという。
“それがエリート教育がなくなってしまった根本”だという。“特に日本の場合は、平等主義がいたるところに蔓延してしまった。そのために、エリート教育というものも無くなった。そしてエリートが背負う重さというものが無くなってしまった。エリートという形骸化した地位だけが残った”というのだ。
江戸時代の解剖は“杉田玄白が最初に解剖をやったということになっているが、そうではない。その時に実際に解剖をやったのは、当時の被差別民だ。”被差別民がそれまで刑場で実際にやっていて経験があったから、その指導を受けてやったのが実際だった。それは“学者がやらないと「解剖学」にならない”、からだという。“杉田玄白の名は残るが、実際に技術を持っていた人たちの存在は消されて”しまった、という。このエピソード紹介以降、次のように論理展開している。
①杉田玄白以前に解剖を行った山脇東洋はどんなに偉い人でも野蛮人でも内蔵は皆同じ、中身は同じだと言った。
②杉田玄白に大きく影響した荻生徂徠は宋学と異なり、社会的なルールと自然科学のルールは別だというようなことを言った。
③天のルールと地のルールは異なるというのはタテマエとホンネは違う、ということである。
①では自然のルールでは人間皆平等、同じなのだが、やっぱり社会的には偉い人と野蛮人の間には差があるのだと②では言い、③ではそれを発展した論理としている。
そして、“ルールの明文化”それが単純に進歩だと考えるのは、タテマエの明文化とホンネの乖離を放置することになるので、それは良いことなのかと疑問を呈している。だから“アメリカの裁判の陪審制は、人間の最良という、かんりいい加減なものが入る余地を残している”のだと言っている。「人命尊重」のタテマエでどこまでも患者を助けようとする現代の医療は安楽死とは矛盾する。“「人は死ぬものだ」という前提を落としてしまっている。すると死について正面から考えるのは難しくなる。”
終章では、死については誰も死の経験が無いのでどうなるか分からないから考えても無駄なのだ。だからこそ本当は“死の恐怖は存在しない”のだ。分からないことが恐いのはしょうがない。
つまるところ、人間悩むのは尽きない、“悩むのは当たり前”で、慌てて自殺などするな。自分の殺人であり、周囲の迷惑を考えろ、ということ。“人生のあらゆることは取り返しがつかない。”
このように、各章に興味深いエピソード満載でヨウロウタケシ・ワールドが、人生の本質的課題で満喫できた。
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