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“都市論”について―大阪都構想をめぐって(9月開催の“ひょうご講座”の1コマから)

“政治は一寸先は闇”とはよく言われる。小泉元総理が良く言っていたのは、“政治の世界にはいろいろな坂がある、マサカ!というサカもある!”
選挙戦の大詰めで途乱府大統領が新型冠状病毒に罹患したという新聞(ニュース)が世界中を駆け巡った。マサカ!フェイク?これで倍殿氏が俄然有利になったか?しかし、途乱府氏の病状経過が軽症で遠隔で元気なところを見せつければ、一発大逆転の特大本塁打となる可能性はある。
相手が大統領であれば受け入れた医療施設は陸軍の超一流のようだ。今や治療技術も確立し、死亡率は3%と低下しているので、生還する可能性が高い。生還すれば、それだけで人気は急上昇し当選確実になる、と読めるという。
だが、ホワイト・ハウスのスタッフ多数が感染しているのであれば、連邦行政の多くはマヒする可能性がある。そうなれば一発大逆転本塁打などとは言ってはいられず、非難轟々となるいハズで、支持率は低下する。
まぁ、私には米大統領選そのものより株式市場の動向に興味あり!先行きの不透明感を市場は早速嫌い、当面大幅な下げで反応。それがどこまで影響するのか。市場は過熱気味と言われていた一方、実態はそうではなく、まともな反応と見る見方もあったが、当面は下げ続けることは間違いない。株の世界も“一寸先は闇”なのだ。

日本の新総理は蜜月期間も明けやらぬ矢先に、強権で職権乱用。“信なくば立たず”というが、矢張りどのような信念をお持ちなのか。法政大学で苦学された由だが、どのような法政、政治学を修められたのか疑問符が付き始めた。
“日本学術会議 会員の一部候補の任命を菅首相が見送”ったというニュースが勃発し、当事者の学術会議も混乱しているようだ。“法律違反だ”と息巻く法学者も結構いるようだが、日本学術会議そのものも改革が進まず、それが政治権力の介入の余地を与えている、という見方もあるようだ。
マッ、学問の自由が冒されるようでは、大問題!戦前の“天皇機関説”への攻撃を想起させる。思想弾圧への第一歩ではないか。むしろその反省から日本学術会議は生まれたにもかかわらず、それを承知の上での所業なのか。ならば説明責任はある。これも“マサカ”の一つだろうか。驚いている内に、日本の民主主義は空洞化するのだ。
これでは中国に“法と自由、透明性”をお気楽に説く立場にはあるまい。新官房長官も予想通り“人事の話になれば当然、話せる内容には限界がある。”といった言葉で軽薄にも逃げている。これは史上重大な事件となる。相変わらず“説明責任”を果たすつもりはなさそうだ。こういった姿勢も前内閣を継承している。ヤッパリ、なぁ黒幕が表に出ただけ?!歴史を無視したアホアホの御本尊だったのだ。

一方では、“女性はいくらでも嘘をつく”との迷言を吐く女性議員を重用する与党!これにも相変わらず“説明責任”を果たすつもりはなさそうだ。
同性の女性を裏切ってでも御自分だけが“男社会で可愛がられたい!”という意識であろう。世界で一番常識が遅れている日本の国会議員。誰が選挙したのか。否、比例代表だそうな。これも安倍晋三元首相が“杉田さんは素晴らしい”と絶賛し、国政に進出させたそうな。こういう発言が、“立派な国家観”の結果であろうか。これもヒロシマも、その悪事の起点がアホアホの極みだったとは、トホホではないか。大いなる遺産の害悪!
これで、どんなデジタル庁ができるのやら。

そう言えば、“一寸先は闇”の東京証券取引所が月初にもかかわらず上場株式全銘柄の売買停止となった。機器の不具合との説明だが、バックアップの機器も作動せず、とか。否、バックアップへの切り替えには再起動が必要で、そうなると当日入っていた売買注文がリセットされ、混乱を助長するため停止した、という説明だった。これを聞いてもトウシロウが取引所の経営をやっているのか、と疑わざるを得ない。そもそも使えない機器をムダに購入していたことになるからだ。
現に、東証社長の説明に覚束なさが見えていた。しかも夕方の会見では遅い。少なくとも、正午前には社長説明が為されるべきだ。事態を正確に理解できないまま会見に臨んだのではないか。部下が異次元言語で説明していると理解もアヤフヤで“俄かのお勉強”したのがあの会見の“成果”。当社はそんなことをしていたのか、初めて知った!驚いた!にもかかわらず、会見が混乱せずにホッとしているのが現実か?
これで生じた損害は誰が補償するのか。否、取引損害を客観的に証明することは不可能。タラレバでは証拠にならないからだ。ならば東証を使う自分がアホだったと、東証を通さないのがリスク管理の“世界の常識”となる可能性が高い。取って代わるのはシンガポールか。
東証はシステムの問題点を常に検討・調査していたのか。休日にあらゆるテストを繰り返さず、世間と同じに暢気にGo to travelしていたのか。それは正しくGo to troubleとなった。システムの問題は、メーカー責任だろうと経営者は暢気に構えていたのではないか。自分は研鑽せずに、他人の上前を撥ねることばかり考えて、真っ当な責任を果たす気構えや迫力が全くなく、無責任の極み。だから、補償もウヤムヤにしても問題ないと踏んでいる。そして御自分の高額報酬だけはチャッカリ頂く。腰掛社長業は辞められませんナァ!
こんなことでは、中国からのハッカー攻撃に耐えられるとは思えない。実はこれもそれが発端だったのではないのか。否、それすら分析・把握できずに暢気に構えているのだろうか。
元をただせば、賭場の開帳は他人の上前を撥ねるヤクザな仕事だった。ヤクザは命に係わる張り詰めた緊張の中に居る。だが東証経営者は、緩み切ったアホアホの極み。
こうして極東・東京は未開の地へ。“金融立国”も何処へ?アホアホ日本はいよいよ見掛け倒しで世界の劣等国へまっしぐら。台湾、韓国の後塵を拝する崖っ淵ではないか。

東証に限らず、とにかく日本の“そうそうたる”経営者には、本業の意味や意義を知り、本業に対して情熱をもって経営しているとは思えないのが多すぎる。本業の何が問題でそれは本質的なモノか否か見極め、時代遅れになっていないかを分析し、その他リスクを警戒し、緊張して経営に当たっているとは見えないのだ。“オタクどうしてはります?”の横並び意識や、“他社の事例を示せ”とヌケヌケとのたまわるのがオチ。企業によって事業の歴史・背景も有様も千差万別にも拘わらずこのようにのたまうのだ。だから、他社の事例をまねて元も子もなくなることすら、理解できない。そういう点でのリスク・センスも責任感も皆無なのだ。
どうあっても自分の頭で考えようとはしないのだ。他人の思考を奪う発想しかない。同調性ばかりで独創思考に怠惰で、それが染みついて醜い習い性になってしまっている。自分の哲学が無いのだ。その恥ずべき本性に気付いても居ない。それがアホアホの極み。そしてユニークな企業は生まれてこない。だから日本にGAFAMは皆無なのだ。そういうアホアホ構造になっていることを理解できていないのだ。アホアホでは世界に伍しては行けない!!

今や“地球温暖化”もそうだが、日本は若い人には大変申し訳ない仕儀となっている。



さて、今回も再び“ひょうご講座”受講のこれまでを報告したい。
ということで、書き始めたがそのうちの1コマの紹介説明や思いが思わず長くなってしまった。始めると思いが止まらないのだ。ということで、今回は地域創生コースの“第2回〔9月16日(水)〕将来を見据えたまちづくり”だけの紹介説明と急遽切り替えることにした。講師は 嘉名光市教授・大阪市立大学大学院工学研究科。

講師の嘉名光市氏は、大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻教授(都市計画研究室)で、“都市工学”の専門家。一級建築士、技術士(都市及び地方計画)、博士(工学)。
wikipediaによれば、来歴は次の通り。
大阪生まれ。1992年3月に東京工業大学工学部社会工学科を卒業(在学中は中村良夫の研究室に所属)。卒業後、三和総合研究所研究開発本部の研究員となる。
その後、東京工業大学大学院社会理工学研究科博士後期課程に入り、2001年3月に修了(景観研究)。
その後、三和総合研究所の後身となるUFJ総合研究所(現・三菱UFJリサーチ&コンサルティング)都市・地域再生マネジメント室主任研究員。
2003年10月より、大阪市立大学大学院工学研究科(都市系専攻)講師。その後助教授、准教授を経て、現在、同大学大学院工学研究科(都市系専攻)教授。

今回の講師は工学系の“都市論”、“都市計画”の専門家。要するにハコモノの配置や形状をどうするのか、という外観やハコモノの“使い勝手の良さ”を“都市計画”として研究しているのだ。建築工学・土木工学の延長上の研究者である。とは言うがそうした研究の意味はないとして、嘉名教授個人を責めるつもりは毛頭ない。そういった知識も情報もない私には十分に“お勉強”になると思って、講演に出席した。

ひょうご講座のホームページに掲載された前説は次の通り。
“本格的な人口減少、超高齢社会が到来し、都市をとりまく環境が大きく変化するなかで、都市計画やまちづくりのあり方も変化していくことが求められています。そこで、これから起こりうる都市を取り巻く変化を考えながら、都市計画やまちづくりの展望について各地の取り組みを交えつつご紹介したいと思います。”

講演はほぼ次のような内容だった。
先ずは、大阪や神戸での活動とその成果の様子の説明があり、そこから大阪・関西万博の開催のための活動へと説明が進む。テーマは“いのち輝く未来社会のデザイン”に落ち着いたというが、従来は“人類の健康・長寿への挑戦”だったという。ところが万博は経産省マターだが、そういうテーマになると厚労省マターになるということで、現在のテーマ呼称となったという。だが、実際には変えた方がスマートな印象だ。これまで人類社会に発展の中で様々な科学技術が開発されてきたが、ここで改めて“人の幸福な生き方”とは何か、それを考えると“新しい社会・経済の在り方”を考える必要があるとなり、“健康・長寿”からその後のテーマ変更となったという。サブテーマは“多様で心身ともに健康な生き方”と“持続可能な社会・経済システム”であるという。
前回1970年の大阪万博は、権威者が主導して進められた。例えば建造物は丹下健三であったし、形象芸術は岡本太郎だったが、今回は“誰もが参加しやすい万博”を目指しているという。そして“(会場に)来ればそれで元気になる”ことを目指して、常識を超えたいという。それが将来都市の設計のコンセプトやヒントになることを目指していて、その実験場にもなるという。
都市計画は1924年のCAペリーによる近隣住区論から始まったとの説明で、その時の概念図が資料に提示されている。幹線道路は住区の外郭をなし、中心部にコミュニティ・センターを置いて住民サービスに寄与させる。住区の外郭の幹線道路のコーナー角部分に商業施設を配置して、隣接住区の角の商業施設と連携させる。緑地・公園は適度に分散配置。これが概要だ。そうしたものをベースに大阪では千里や泉北のニュー・タウンが建設されたという。日本の場合は中央のコミュニティ・センターは小学校或いは商業施設になったという。
では、これから将来はどういう都市を目指すのがよいのか、日本は既に2004年12月に人口のピークに至り人口減少社会に突入している。そうであれば徒歩で20分程度のコンパクトな街並み求められる。富山市がそれを目指して都市改造を実施しているとのこと。雪国なので降雪があっても活動可能な、老人や子供も活躍できる都市づくりを目指している、ということだった。

知らない話ばかりで結構面白かったが、大阪都構想のことが気がかりだった。講師の大阪市立大学はその真っただ中にある。いずれ大阪府立大学との合併が予定されている。そこで、都市工学研究の成果を踏まえて、都構想の是非を質問票で尋ねてみた。“都市自治は民主主義の学校”と欧米では言われている。否、歴史的には都市自治は民主主義の卵であった。自然に出来上がった基礎自治体を解体することは民主主義の精神に反するのではないか、こうした基礎自治体の解体事例は世界にあるのか、と。講演の終わりに急いで乱筆の質問票となった。それにもかかわらず御丁寧な回答を書面で頂いた。概要は次の通り。
類似の事例として、ロンドン市があり、グレーター・ロンドン・オーソリティとして再編している。都構想の是非についてはノーコメントだが、人口減少社会にあって統治機構の見直しは必要ではないか、とのことであった。


何の知識も無く尋ねた訳で、ロンドンが事例になるとは全く思わなかった。そこでそのグレーター・ロンドンについてネットで調べてみた。私の知りえた限りでは次の通りで、ここに紹介してみる。
ロンドンの中心はまさしくシティCity*1と呼ばれる部分。wikipediaによれば次の通り。wikipediaに傾きすぎる傾向にあるかも知れないが、先ずは知識・情報の第一歩では仕方ない。
“ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)にあたる地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンは市街地の大部分はコナベーション*2により形成されている。ロンドンを管轄するリージョンであるグレーター・ロンドンでは、選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われている。”

*1:単にシティ(the City)、またはスクエア・マイル(the Square Mile)とも呼ばれる。シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行している。シティは英国のGNPの2.5%に貢献しており、ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社等が置かれる金融センターとしてニューヨークのウォール街と共に世界経済を先導し、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している。
*2:コナベーション(conurbation)とは、発生を異にする複数の隣接する都市が発展し、行政区分の境界を越えてつながって1つの都市域を形成している状態のこと。

どうやら、ロンドンが好例だとは言うものの大都市を解体した例では無さそうだ。むしろ大きくなったグレーター・ロンドンをそのままロンドン市として活かしているのだ。大阪と比較して規模的にどうなのか、面積と人口で比較してみた。
グレーター・ロンドン;面積:1,572 km2、人口:8,546,761(2014年推計値)
大阪市;面積:225.21km2(境界未定部分あり)、総人口:2,751,527人 (推計人口、2020年8月1日)
大阪府;面積:1,905.14km2、総人口:8,822,255人(推計人口、2020年8月1日)
こうしてみると大阪の事例で言えば極論になるかもしれないが、グレーター・ロンドン市はむしろ大阪市が大きくなり、周囲の衛星都市を併呑して巨大化し、大阪府に比肩しうる規模に発展している。歴史的に自然に拡大し、巨大化してしまった基礎自治体だと言える。そしてその巨大化を尊重し、解体せず維持しようとしている。
嘉名教授はそれを知っていて、引き合いに出したのだろうか。ならば、大阪都構想には反対なのだろうか。そして、その学問的根拠は何なのだろう。それが是非知りたいところだ。
ドイツのハンブルグ*3やベルリンも巨大化都市として発展拡大している。都市が解体されたのは、日本の東京市以外に過去の人類史上には皆無ではないのではないか。そういう懸念が、私の中では募る一方となったのだ。大阪はむしろ大阪府を解体し、大阪市を巨大都市とするのが世界の潮流のように見える。

*3:ハンブルク(Hamburg)は、ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約100kmほど入った港湾都市。正式名称は自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg)。行政上では、ベルリン特別市と同様に、一市単独で連邦州(ラント)を構成する特別市(都市州)なので、ハンブルク特別市やハンブルク州と呼ばれる。人口約184万人[1]。国際海洋法裁判所がある。

日本では、何故このような都市解体が許されるのだろうか。
かねてより思っていたことだが、こうした工学系からの“都市”へのアプローチに対して、日本には社会科学系の“都市論”の専門家はいないからではないか。社会科学系研究の不在が不思議なのだ。法学系の行政論からの“都市行政”への意見答申する研究者はいる。それは“地方行政”のあり方からの議論になる。“地方”とは“中央”に対する概念である。だから、“地方行政”とは中央集権の立場からの議論なのだ。決して“都市自治”からの観点での議論ではない。“都市自治”や、“都市の発達史”からの視点で、都市はどうあるべきかの議論が日本では全くなされていないのが実態なのだ。
私は“地方”という言葉はあまり好きではない。“地方”は“痴呆”に聞こえ、どこかコバカにした響きがあるではないか。現に中央政府の役人は、基礎自治体の官僚を小バカにしているところはあるのではないか。だから私はできるだけ使わないようにしているつもりだ。

要は、世界史に及ぼした都市発達の経緯はどうだったのかは、人類文明史の研究にあたっては不可欠の課題ではないかと考える。ギリシアのポリスの政治史やローマ時代の都市の発達史、中世ヨーロッパの都市からルネッサンス期のイタリアの諸都市の状態はどうだったのか、スイス諸都市の発達、ヨーロッパ北部バルト海沿岸に成立したハンザ同盟の意義は何だったのか、絶対王朝以降の近代都市の発展形、パリ・コンミューンの歴史的評価。或いは、振り返ってアジア、特に中国の都市の発達形態はヨーロッパに比してどうなのか、日本の都市は?堺の商人の活動の文化的意義、京都、大阪、博多はどうだったのか、等々が近代以降の日本では正面切って議論されて来なかったようなのだ。

都市自治は“民主主義の学校”であり、それは“民主主義のインキュベータ”であるにもかかわらず、日本の社会科学系の学者・研究者はこうした“都市論”をおろそかにしてきたのだ。例えば、中世都市・堺の研究者・専門家を私は聞いたことがない。精々で好事家の民間研究に埋もれているのではないか。或いは、中世史の研究者の片手間のテーマだったのではないか。日本の社会科学の底の浅さを見るような気がして、残念でならない。
社会科学系の研究者が新たな分野を究めるのに何か大きな障害があるのではないかと、疑わざるを得ない。だから、冒頭に指摘したような日本学術会議の透明性が気懸りなのだ。
明治の近代化以降、日本の社会科学系の研究者は中央集権の機能性、合理性ばかりを研究してきたのであろうか。“都市自治は民主主義の学校”と言われている由縁は一体どういう理由なのかを究めた研究者は、日本の近代化以降全くいないというのであれば、これほど情けないことは無い。世紀を超えて、近代論を都市の発達の中で議論できていないのであれば、日本で民主主義の何たるかを本当に理解できないのでは無かろうか。こんなことで、中国人に“民主主義の意義”を偉そうに語れるはずがない。その資格は全くない。日本の社会科学者達に大いなる反省が求められる。

こういう実態が背景にあるから、日本人には米国の合衆国の意味、州自治体の連合体が理解できないのだ。大統領選挙での州ごとに投票結果の集計の仕方が異なることが全く理解できないのだ。日本の中央集権的民主主義が正当であると思い込んで疑わないのだ。こういう私自身も日本の中央集権型の民主主義が正当であるとの前提でこれまで教育されてきているから、何が正しい民主主義であるのか、否か判定する能力はない。だが、それが金科玉条のものではなさそうだ、ということは分かっているつもりだ。

昔、スイスの都市の最高議決機関・民会では、一般市民全員が武装して集会するということを聞いて驚いたことがある。実際に佩刀して民会に参加している事例の写真を見たことがある。それがスイス人の正統な民主主義の基本なのだ。これが民兵minutemanの基礎となっている。もし、都市行政当局が民会の決定を無視することがあれば、抵抗権を行使して武装蜂起するのだ。これが日本人には理解できない革命の基本なのだ。政治の基本は力の行使、暴力が基本なのだ。それも一般の日本人には理解できない部分なのだ。
米国人が銃を手放そうとしないのは、西部開拓史以前、否、独立戦争以前からのヨーロッパでの“常識”に由来するのだ。これも一般の日本人には理解できない部分だ。平和ボケとまでは言わないが、政治は暴力が基本であることを理解するべきなのだ。
カミュの“われ反抗す,ゆえにわれら在り”という言葉もこうした欧米常識に由来するのであろうと、容易に想像できるのだ。
欧米人や中国人もこうしたことは、ほぼ本能的に理解しているのではなかろうか。日本人の非常識は世界には通用しないのではないか。

閑話休題、話を戻したい。そもそも都構想はどこからの発想か。橋下氏の大阪府知事時代に、大阪市側が知事の“発案”に従わなかったことではないのか。こうした私怨を公の政治に持ち込むことがよいことなのか。その時、橋下氏は大阪全体のことを考えた結果だったが、それを市側が反対したから“けしからん”というのだ。具体的な争点はその時語らなかったので、知る由もないが、“府知事の言うことに市側が反対した”との発言には、知事側の方が“偉いはず”という、権威主義的なニオイを感じたものだった。そういう大阪市との衝突がいくつか重なった結果だ、と言っていたように記憶する。一方的な発言なので、如何とも判定のしようがないが、橋下氏の権威主義的発想の雰囲気は確実に残るのだ。

それに都構想とどのように繋がるのかは知らぬが、これは道州制の問題に絡むという。道州制とは、それこそ中央集権を効率化しようという発想そのものでしかない。都府県制すら廃止して、もっと大きい人為的地方政府を形成しようという発想だ。その方が予算を効率使用できるというのだ。それは基礎自治体を大切にしようという、“都市自治”とは正反対の発想である。予算を効率化するというのは、住民サービスに使用されている予算をカット、もしくは削減するということだ。それは明らかに住民へのサービスの低下になる。だから中央集権を効率的にやりたい、という議論には私は明確に反対したい。
中央集権は、全国の一般国民から富を中央に集中して、国権を伸長することが目的で、その結果戦前のような軍国主義が発達したのだ。戦後、それを懸念して“地方自治”を根付かせようと、占領軍が計画したのだ。占領軍は民主主義の醸成に“都市自治”は重要であることを了解していたからに他ならない。

東京市は戦争中の1943年(昭和18年)7月1日に解体されたが、戦後も何の問題もなく発展したのは、それが首都であり、中央官僚も首都への投資を惜しまなかったからだ。首都にはこういう機能が必要だ、との論理で中央官僚の支持もあり、それは推進されたのだ。首都でも何でもない大阪市にはそんな契機はない。それを解体して弱体化させることに、何かメリットが大阪市民にあるのだろうか。乱脈経営だった大阪府の収入が伸び、その権限が強まることだけだ。

大阪の歴史的経過の一例を挙げよう。昔、日本の薬は全て大坂が中心だった。中国から輸入される貴重な製薬材料が、長崎経由で大坂に陸揚されたのだ。何故か、大坂には過去の歴史遺産から、人材の豊富さがあった上に、北前船の海上交通の要衝でもあったためだ。だから優秀な人材が、薬原料の目利きをし、判定し、お墨付きを与えたのだ。薬の効能にはそれが命だった。だから江戸幕府も大坂で目利きすることを許可したのだ。その結果、大坂には優秀な医者も居た。緒方洪庵はその頂点だと言っていいのではないか。ところが、薬の有効性を許認可する中央政府は、維新で東京に移ってしまった。人材の多くも中央集権で移動した。又その許認可を得る必要性は戦後特に強くなった。そのため、国内製薬会社のほとんどは戦後東京に本社を移してしまった。ビジネスマンとは利のないところで長居はしない。そういうものだ。
他のビジネスや産業も同じだ。大阪から東京へどんどん抜け出した。実は、あの日産自動車ですら当初は大阪に工場があった、という。
大阪に最後に残留しているとオボシキお笑い文化も既に、大阪では空洞化していると見て間違いない。一軍のお笑い芸人は続々と東京進出で儲けているし、その一軍自体も東京で育てる方向で動いている。大阪的お笑いも、今や抵抗なく東京で受け入れられているように見える。大阪に居残っている芸人に面白くもなく気の利いた表現力の乏しい者が結構多い印象になって来ている。
それでも残るのは、大阪のオバチャンか?これも不景気では、何の元気も出るまい。元気のないオバチャンでは面白くも何ともない。それで大阪が維持できるとはとても思えない。
このように大阪の強みも、時代と共にどんどん空洞化している。これではいずれ、大阪は何の変哲もない一都市に転落するのであろう。都構想がそれを促進する最後の一撃になるのではないかと、他所ながら懸念しているのだ。私の生まれ育った地が廃れるのは見るに堪えないのだ。恐らく、今住んでいる神戸も大阪に引きずられて廃れる可能性は高い。

議論が思わぬ方向に発展してしまったが、“都市論”という学問・研究が日本にはないのではないかとは、若い頃から考えていたことだ。もし、民主主義の根幹がしっかり理解できていないないのならば、日本の社会科学が浅薄なものとなってしまう。日本の学界、研究界がそんなやわなことでは困るのだ。兎に角、何とかして欲しいものだ。こうした問題に誰も気付いていないのなら、それは大問題ではないか。日本の民主主義の危機と言っても過言ではない。

そして、折しも“大阪都構想の賛否を問う住民投票は、来月1日”だという。私は大阪の都構想実施は反対だ。このまま賛成票が伸びて、都構想実現となれば大阪の衰退が目に見えるような気がする。投票結果はどうなるかは分からないが、大阪市民が誤った判断をしないことを祈りたい。それは京阪神全域の問題でもある。

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