The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
吉村昭・著“深海の使者”を読んで
米国の北朝鮮への圧力は日に日に極限に達しつつある。中国もいつもとは違い、この米国の圧力には逆らわずに受け流している風だ。まるで、北鮮を緩衝地帯にすることを是認した米国に協力するかのように見える。したがい水面下で北朝鮮にシャトル外交の密使派遣で喧しいのではないだろうか。それでも北は核実験やミサイル実験をするだろうか。そうなれば、ボールはトランプ側に移る。政策的に手詰まりになりつつあるトランプ大統領が攻撃命令を出す可能性は十分にあると思われる。また中国も中朝国境に人民軍配備増強を進めるのではないか。その未確認の噂もすでに先週流れていたようだ。
実際に手を下す米軍自身はどのように考えているのだろうか。
朝鮮半島近海には本来は横須賀母港の空母ロナルド・レーガンを基幹とする空母打撃群が配備されるはずだが、カール・ヴィンソン基幹の艦隊が3月の韓国沿岸での米韓合同演習を終えてシンガポールに向かったのが戻され、14日には対馬海峡を通過したとの情報もある。一方、ロナルド・レーガンは母港で補修整備中のようだ。しかし、空母打撃群が2個も近い海域に存在することは異例だという見解もあれば、北を攻撃するならば同規模の艦隊5個は必要のはずなので本気ではないという憶測もあるようだ。但し一時、集結に向かったとの報道もあった空母ニミッツの動向が不明なのは気懸りだ。実をいうとカール・ヴィンソン、ニミッツ両艦は1970年代の老朽艦だが、搭載する攻撃機は古くはなく空自の戦闘機より新しい型だ。脇を固める艦艇はイージス等の新鋭艦で固めているのは事実だろう。
各空母には4個戦闘攻撃航空隊が配備されている。1戦闘攻撃航空隊には20機前後のF/A18戦闘攻撃機が配備されているはずなので、最大3個の空母打撃群で計240機の攻撃用航空戦力が集結可能のはずで、攻撃となればこれが素早く入れ替わり数次繰り返し出撃するはずだ。さらにF16を配備している韓国駐屯の空軍部隊も存在する。韓国軍が動くかどうかは別として、北の航空戦力は皆無と言って良いはずなので、米軍の航空戦力だけでも北を壊滅する戦力としては十分ではないだろうか。逆に3個の空母打撃群が揃わなければ、北の反撃を極小化する軍事介入は困難ではないか。
本来であれば本格爆撃に先立って、相手のレーダー・サイトを破壊するために、出来ればスティルス戦闘攻撃機を揃えておく必要があるはずだ。しかし極東には空軍のF22は横田に12機(現在は沖縄・嘉手納に移駐?)、海兵隊岩国のF35B10機しかいない。この20機程度では先攻するには不十分ではないか。しかも韓国基地にこれらが移駐したという報道もない。
だが、現在は新鋭駆逐艦からの多量の巡航ミサイルで攻撃できる。これをシリア攻撃で見せつけているので、前哨戦では多量の巡航ミサイルでレーダー施設、空軍基地、固定的地上軍事施設等を急襲して地ならしをし、その直後に海軍主力の300機近い航空攻撃で地下施設を含む残存施設やその後に出てきたミサイル発射車両を発射寸前で叩くことになるのだろう。但し、シリア攻撃に使った巡航ミサイル59発の戦果が報道映像で見る限り大したことなかったのは懸念材料である。
アフガンでは大規模爆風爆弾(MOAB)を使用してみせているが、これは徹甲弾ではないので砂漠地域では有効でも北の山岳地下基地には効果はないだろう。しかも爆弾自体が10トンもあって、F/A18等への搭載は不可能で、今回は大型輸送機を使ったというので通常の戦場では使えず、ブラフでしかない。バンカー・バスターもF/A18への搭載を想定していないようだ。この新型爆弾使用法の“改善”がどの程度進んでいるかも作戦の分かれ目になるのだろう。或いはそういった大型爆弾を搭載可能なB-1,2の周辺配備をどうするのか、攻撃直前に来援させるのだろうか。
94年のクリントン時代の北朝鮮危機以来、恐らく米軍は北を軍事的に制圧し、韓国や日本の被害を極小化する作戦を研究し様々な情報を集め、20年以上構想を練って来てはいるので、北の軍事関連施設の詳細な調査は済んでいるのは確実だ。こうして北の反攻は極力抑制させるだろうが、韓国の南北国境沿い一帯への反攻被害は相当あるだろうし、数発の日本への弾道ミサイルの飛来は僅かでもあるものと考えた方が良い。日本には三沢、横田・横須賀を含む首都圏、岩国、沖縄等の米軍基地に照準を合わせている可能性は高いだろう。近畿では京都・京丹後のXバンド・レーダー施設への攻撃があり得ると思った方がよいのだろう。
日頃“国民の生命・財産を守る”と大見得を切る安倍政権はどのように対策しているのか、或いは無策なのか。少なくとも近畿にはPAC3迎撃ミサイルの配備はない。福井の原発銀座への防護策はもとより、付近住民の避難計画もないのではないか。国防を口にするのなら、ご立派な空母の建造よりもこうしたミサイル防衛・防空対策がいの一番だと思われるが、この期に及んでは手遅れ、安倍政権はノー天気ではないか。
私達は今後、こういった点についての報道に注意して、米政府及び軍の本気度を警戒し、避難先を考えておくべきだろう。但し、テレビに出る軍事知識の乏しい知ったかぶりコメンテーターの発言には要注意である。
さて、このようにキナ臭い政治情勢の中で、最近 吉村昭氏の“深海の使者”を何とか読み終えた。潜水艦に関する吉村の小説なので読んだのだが、文庫で400ページを超える分量にもかかわらず、生来遅読であり 年度末にかかって中断したりしていて読み終えるのに思わず時間がかかってしまった。
潜水艦は今もっとも気懸りな兵種であり、その運用技術について日本は世界トップであるとされる。米海軍は海自のその技術を中国封じ込めに活用したかったので、集団的自衛権を行使可能とするよう日本政府に迫ったのだろう。従がって、その源流である先の大戦での日本の潜水艦運用状況を知ることは意義あることだろうと思った次第だ。
吉村氏自身は“あとがき”で次のように言っている。“昭和17年秋、新聞に大本営発表として一隻の日本潜水艦が訪独したという記事が掲載されていた。戦局も苛烈になった頃で、遥かへだたったドイツにどのようにして赴くことができたのか、中学生であった私には夢物語のようにも感じられた。”この“あとがき”の日付は昭和48年(1973)春となっているが、その数年前から昭和17年(1942)秋の“新聞記事の裏面にひそむ史実を調査することを思い立ち、その潜水艦の行動を追ってみたが、同艦は華々しい発表を裏切るように帰国寸前に爆沈していた。そして、その調査を進めるうちに、同じような目的をもった多くの潜水艦が、日本とドイツの間を、あたかも深海魚のように海中を往き来していたことを知った。それは戦史の表面にあらわれることもない、暗黒の海に身をひそませた行動で、しかも、その大半が海底に没した悲劇であることも知った。” 多くの裏面史を戦史小説として発表してきた吉村氏の台詞としては大いにモッテいるように思えるが、海の忍者・潜水艦らしい歴史だ。
今も、危急存亡の日本海には日中米露、場合によっては朝、韓のそれぞれの潜水艦が人知れず多数暗躍してお互いの出方を探っていることだろう。その中でも最も存在が捉え難く、しかも相手の行動を把握しているのは海自の潜水艦であることは間違いない。そうして、米韓以外の動向を諜報活動に資するデータとして蓄積する活動を行っているだろう。(ついでながら、私は北朝鮮に水中からミサイル発射可能な潜水艦が存在するとは思えない。建造能力もなければ、輸入も出来る状態ではないはずだからだ。だから水中発射可能なミサイルを開発した意義が理解できない。たとえミサイル潜水艦があったとしてもその動向はすべて海自によって捕捉されているはずだ。)
文庫本の解説は、作者・吉村氏と親しかった半藤利一氏が書いているが、そこでは次のように言っている。“昭和41年(1966)、吉村さんは『戦艦武蔵』という歴史小説を(初めて)書きました。・・・そしてこの『深海の使者』をもって、戦史小説を書くことを吉村さんはぴたりとやめてしまったのです。”それは、吉村氏は戦史を裏付ける証言を細かく積み上げて小説を書きあげるのだが、『深海の使者』を書こうとした頃には既に“35%ほどしか証言者がいなかった。これには僕も愕然とした。・・・これじゃ正確な戦史小説を書けないという事実を、いやというほど僕に思い知らせた。”と吉村氏は半藤氏に語ったという。
この小説が書かれた昭和48年、44年前でそういう状態であれば、現在は既に戦争を知る人は殆どいないと見て良い。なるほど、証言者が居なければ今や想像力に欠ける首相をはじめとして歴史を都合よく修正する者ども(歴史修正主義者)が跋扈するのは理解ができる。もはや、お勉強しない右派であることが、利権になる時代になってしまったのだ。
戦争中の昭和17年に枢軸国の同盟を有効にするために日独伊の軍事協定を締結したが、それをさらに実効あるものとするには実際に人的、物的往来が必要と当時の政府は認識した。相互の戦略的役割の確認はもとより、日本側はドイツの新技術である電波探信義(レーダー)や電波探知機(レーダー照射逆探知機)の実物導入をドイツ側に希望した。それまで日独の軍需物資は商船を武装したドイツの柳船と称する特設巡洋艦で大胆に実施していたが、ドイツ側は最新技術が連合軍に鹵獲されることをおそれた。しかし日本側が大型潜水艦を派遣すればドイツは応じるとのことで、始まったという。その後は、ジェット機やロケット機の技術導入も企図して、実際に入手した設計図等から橘花や秋水、或いは特攻機・桜花の元となった。この一連の史実が“小説”になっている。
この潜水艦による遣独使節の概要がWikipediaによりまとめられているので、次に若干の修正をして引用する。
【第1次遣独艦】
伊号第三十潜水艦(艦長遠藤忍海軍中佐)…1942年(昭和17年)8月6日、フランス・ロリアン入港。復路の10月13日、シンガポール港にて自軍の機雷に触れ沈没。伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の11番艦。
【第2次遣独艦】
伊号第八潜水艦(艦長内野信二海軍大佐)…ヒトラーが日本に無償譲渡するUボートU1224号をドイツから日本に回航する要員60名を乗せ、1943年(昭和18年)8月31日、無事フランス・ブレスト入港。復路も帰国に成功。駐独大使館付海軍武官横井忠雄海軍少将が便乗帰国した。伊七型潜水艦(巡潜3型)の2番艦。
【第3次遣独艦】
伊号第三十四潜水艦(艦長入江達海軍中佐)…1943年11月13日、往路マラッカ海峡にてイギリス海軍の潜水艦に撃沈される。伊第三十四潜水艦は、伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の15番艦。
【第4次遣独艦】
伊号第二十九潜水艦(艦長木梨鷹一海軍中佐)…駐独大使館付海軍武官小島秀雄海軍少将・永盛義夫海軍技術少佐(航空機)・田丸直吉技術少佐(電波兵器)・鮫島龍雄海軍大学校ドイツ語教授ら総勢17名の便乗者を乗せ、1943年(昭和18年)12月17日にシンガポール出航。1944年(昭和19年)3月11日、フランス・ロリアン入港。復路は、小野田捨次郎海軍大佐・松井登兵海軍大佐・巌谷英一海軍技術中佐ら総勢18名を便乗させ、4月16日にロリアンを出航。7月14日にはシンガポールに入港するも、7月26日にバシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦に撃沈される。(海軍要人はシンガポールから空路で東京へ生還している。)
同艦には、Me163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれていたが、シンガポールで零式輸送機に乗り換えた巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われた。かろうじて残ったそれら資料は、のちに秋水・橘花の開発に活かされた)
伊第二十九潜水艦は、伊十五型潜水艦(巡潜乙型潜水艦)の10番艦。
【第5次遣独艦】
伊号第五十二潜水艦(艦長宇野亀雄海軍中佐)…1944年(昭和19年)6月24日、往路大西洋にて米護衛空母ボーグの艦載機の攻撃により沈没。伊五十二型潜水艦(丙型改潜水艦)の1番艦。
5次5隻派遣されてほぼ目的を達したのは第1次、2次、4次派遣であったが、潜水艦自身も健全に帰国できたのは、第2次の伊号第八潜水艦だけであった。日独間の1万5千浬(3万キロ弱)の潜航を含む航海が如何に過酷だったかが理解できる。(実際は日仏間で、地理的に英ブリテン島があり、ドイツ本土のキール等には達していない。)
ここに登場する潜水艦はいずれも2千トンを超える大型のものであり、しかも小型水上機を艦内に収容可能な潜水艦であった。第5次の伊号第五十二潜水艦は航空機搭載可能とはなっていないが、本来は可能の“乙型改2潜水艦(計画番号S37C)の航空設備を撤去した船型”だという。先の大戦で、航空機搭載可能の潜水艦を保持していたのは世界中で日本だけではなかったか。
特に、伊号四百~四百二潜水艦は“晴嵐”水上攻撃機を3機搭載し、パナマ運河爆撃を計画したが、実現せず終戦した。米側はこの事実に驚愕し、伊号四百潜水艦を徹底研究し、戦後初の水中ミサイル発射潜水艦ポラリスを開発するきっかけとなったという。この潜水艦はソ連が台頭する中、米国が核戦略上優位を譲らなかった決定的な兵器となった。ここで、私が知らなかったのは伊号四百潜水艦以前に既に偵察機搭載可能な潜水艦を多量に保持していたという事実だった。
特に第1次遣独艦の伊号第三十潜水艦は、零式水上偵察機を搭載しインド洋沿岸の英海軍基地を偵察し、その情報を元に攻撃を繰り返しながらマダガスカル島南方に達し、燃料補給を受けて喜望峰沖を回って大西洋に入った、ということだ。
水上機の運用は、航空機を司令塔の下にある格納筒(下の写真で艦型参照)から引き出し、カタパルトで射出し、目的達成後、帰還した水上機は海面に着水し、それを潜水艦のクレーンで引き揚げて搭載するという態様だ。この飛行機を射出するカタパルトは21世紀にもなって、中国が自慢する空母“遼寧”にはないのが不思議だ。このためミサイル等で武装した航空機が重量オーバーで“遼寧”から飛び立てないのではないか、だから空母としての戦力にはならないという噂が流れている。
先の大戦で有名なドイツのU-ボート潜水艦は700トンのものが一般的だったという。そんな時代に、航空機を搭載した潜水艦を日本海軍は運用していたのだ。大型潜水艦で来航すれば、機密事項も公開するというドイツも、この実物潜水艦を見たかったのではないだろうか。
したがい、入港しても独艦用のブンカー(潜水艦用防空掩体壕)から艦体がはみ出したと小説に書いていたが、それをどのように工夫したかまでは言及していなかった。
日本が制海権を喪失した海域の島嶼の自軍支援物資を輸送するのに、本来の使用目的でない潜水艦を多用できたのは、航空機格納筒の空間を活用して物資を積載したものと理解できる。例えばガダルカナル島支援は有名だ。
しかし残念なことは、日本の電波探信義(レーダー)や電波探知機(レーダー照射逆探知機)や、水中音波探知機(ソナー)の技術が貧弱で、連合国側に捕捉され犠牲になっている潜水艦が多い。現に沈められた遣独潜水艦も、全てそういった機器で捕捉され攻撃を受けた結果だと思われる。中には第二次遣独艦の伊号第八潜水艦のように、ブレスト港到着前に独潜水艦と邂逅し、そこで独側から譲り受けた電波探知機を装着して英海軍の警戒を何度も回避潜航して無事入港したものもいる。電波探知機がなければ難を逃れて任務達成できたかは不明だ。
今の日本のこうした技術は、勿論世界トップでパッシブ・ソナーでほぼ1000km先を探査可能と聞いている。つまり、沖縄に居てほぼ中国沿岸の艦船の動向が把握できるということになる。
また第1次遣独艦の伊号第三十潜水艦は、シンガポールで自軍の機雷に触雷したとあるが、遣独任務は本来軍令部直接の命令であり、帰還時のシンガポール寄港は正確には軍令部の命令にはなかったことのようだ。自軍の機雷というより、英軍が放置した機雷を日本側が港湾防御に利用していたもので、艦長はそうした状況を知らなかったという。いわば、余計なことをして、現地の状況を知らない艦長と、艦の状況を知らない現地軍の情報のやり取り不足によって起こった事故ではないか。艦長はあくまでも中央の軍令部を通じて行動するべきではなかったか。シンガポールの自軍と情報接触して、困難な任務を果たし終えた歓喜による気のゆるみによる事故ではないかと思われる。
読んでいるうちに気付かないまま、話が飛行機のことになっていて、驚いた箇所がある。それは潜水艦でのドイツとの往来は半年近くかかってしまうので、計算上数日で行ける飛行機で行けないかと試み始めて、長距離飛行可能な航空機の開発を指向したエピソードである。それは通称A-26と称し陸軍の試作機キ77と呼称された航空機である。Wikipediaの記事を少し修正して引用して紹介する。当初は“朝日新聞社が、1940年(昭和15年)の皇紀2600年を記念し、東京-ニューヨークの親善飛行を企画。東大航空研究所へ(亜成層圏飛行可能な機材)開発を依頼した。一旦は戦争激化により開発棚上げとなったが、類まれな長距離飛行性能(アメリカ本土まで飛行可能)に注目した軍部の指示により開発が再開。”これを日独連絡用に使おうとした。“開発費は朝日新聞社と日本陸軍が分担して、立川飛行機と東大航空研究所が開発・設計を担当し2機のみ製作された試作機。通称A-26の「A」は朝日新聞の頭文字、「26」は皇紀2600年の26。”
この機材1号機は燃料漏れの欠陥により実用せず、2号機を実際にドイツに向かって出発させている。“日本とは中立関係にあったソ連を刺激しないために、シンガポール経由の南方迂回と決定。(1943年)6月30日、長友飛行士ら5名の朝日新聞航空部クルーと陸軍将校3人を乗せた2号機は福生飛行場を離陸、7月7日に中継地シンガポールから一路ドイツ領を目指したが、途中で消息不明となった。連合軍による撃墜記録も無いため、消息不明の原因も全く不明”だが、搭乗員全員が戦死したとして公式に処理された。
1号機はその後再度のドイツへの飛行を目指したが、戦況の悪化で断念。それでもその後、長距離飛行の世界記録樹立を企図し、中国の新京から、ハルビン、白城子の3点を頂点とした三角コースを昭和19年(1944)7月2日午前9時47分から飛行し続けて翌々日の午後7時0分新京飛行場に戻った。これにより16,235kmの非公認世界記録を達成したという。これは昭和44年(1969)米ボーイングB52Hの18,245kmの記録まで破られなかったという。
読み終わって、戦争中のこことは言え、命を懸けておじけることなく任務遂行に努力する群像に敬意を通り越してほろ苦さを感じてしまった。こういう社会心理の状況は今後も起こり得るのだろうか。
実際に手を下す米軍自身はどのように考えているのだろうか。
朝鮮半島近海には本来は横須賀母港の空母ロナルド・レーガンを基幹とする空母打撃群が配備されるはずだが、カール・ヴィンソン基幹の艦隊が3月の韓国沿岸での米韓合同演習を終えてシンガポールに向かったのが戻され、14日には対馬海峡を通過したとの情報もある。一方、ロナルド・レーガンは母港で補修整備中のようだ。しかし、空母打撃群が2個も近い海域に存在することは異例だという見解もあれば、北を攻撃するならば同規模の艦隊5個は必要のはずなので本気ではないという憶測もあるようだ。但し一時、集結に向かったとの報道もあった空母ニミッツの動向が不明なのは気懸りだ。実をいうとカール・ヴィンソン、ニミッツ両艦は1970年代の老朽艦だが、搭載する攻撃機は古くはなく空自の戦闘機より新しい型だ。脇を固める艦艇はイージス等の新鋭艦で固めているのは事実だろう。
各空母には4個戦闘攻撃航空隊が配備されている。1戦闘攻撃航空隊には20機前後のF/A18戦闘攻撃機が配備されているはずなので、最大3個の空母打撃群で計240機の攻撃用航空戦力が集結可能のはずで、攻撃となればこれが素早く入れ替わり数次繰り返し出撃するはずだ。さらにF16を配備している韓国駐屯の空軍部隊も存在する。韓国軍が動くかどうかは別として、北の航空戦力は皆無と言って良いはずなので、米軍の航空戦力だけでも北を壊滅する戦力としては十分ではないだろうか。逆に3個の空母打撃群が揃わなければ、北の反撃を極小化する軍事介入は困難ではないか。
本来であれば本格爆撃に先立って、相手のレーダー・サイトを破壊するために、出来ればスティルス戦闘攻撃機を揃えておく必要があるはずだ。しかし極東には空軍のF22は横田に12機(現在は沖縄・嘉手納に移駐?)、海兵隊岩国のF35B10機しかいない。この20機程度では先攻するには不十分ではないか。しかも韓国基地にこれらが移駐したという報道もない。
だが、現在は新鋭駆逐艦からの多量の巡航ミサイルで攻撃できる。これをシリア攻撃で見せつけているので、前哨戦では多量の巡航ミサイルでレーダー施設、空軍基地、固定的地上軍事施設等を急襲して地ならしをし、その直後に海軍主力の300機近い航空攻撃で地下施設を含む残存施設やその後に出てきたミサイル発射車両を発射寸前で叩くことになるのだろう。但し、シリア攻撃に使った巡航ミサイル59発の戦果が報道映像で見る限り大したことなかったのは懸念材料である。
アフガンでは大規模爆風爆弾(MOAB)を使用してみせているが、これは徹甲弾ではないので砂漠地域では有効でも北の山岳地下基地には効果はないだろう。しかも爆弾自体が10トンもあって、F/A18等への搭載は不可能で、今回は大型輸送機を使ったというので通常の戦場では使えず、ブラフでしかない。バンカー・バスターもF/A18への搭載を想定していないようだ。この新型爆弾使用法の“改善”がどの程度進んでいるかも作戦の分かれ目になるのだろう。或いはそういった大型爆弾を搭載可能なB-1,2の周辺配備をどうするのか、攻撃直前に来援させるのだろうか。
94年のクリントン時代の北朝鮮危機以来、恐らく米軍は北を軍事的に制圧し、韓国や日本の被害を極小化する作戦を研究し様々な情報を集め、20年以上構想を練って来てはいるので、北の軍事関連施設の詳細な調査は済んでいるのは確実だ。こうして北の反攻は極力抑制させるだろうが、韓国の南北国境沿い一帯への反攻被害は相当あるだろうし、数発の日本への弾道ミサイルの飛来は僅かでもあるものと考えた方が良い。日本には三沢、横田・横須賀を含む首都圏、岩国、沖縄等の米軍基地に照準を合わせている可能性は高いだろう。近畿では京都・京丹後のXバンド・レーダー施設への攻撃があり得ると思った方がよいのだろう。
日頃“国民の生命・財産を守る”と大見得を切る安倍政権はどのように対策しているのか、或いは無策なのか。少なくとも近畿にはPAC3迎撃ミサイルの配備はない。福井の原発銀座への防護策はもとより、付近住民の避難計画もないのではないか。国防を口にするのなら、ご立派な空母の建造よりもこうしたミサイル防衛・防空対策がいの一番だと思われるが、この期に及んでは手遅れ、安倍政権はノー天気ではないか。
私達は今後、こういった点についての報道に注意して、米政府及び軍の本気度を警戒し、避難先を考えておくべきだろう。但し、テレビに出る軍事知識の乏しい知ったかぶりコメンテーターの発言には要注意である。
さて、このようにキナ臭い政治情勢の中で、最近 吉村昭氏の“深海の使者”を何とか読み終えた。潜水艦に関する吉村の小説なので読んだのだが、文庫で400ページを超える分量にもかかわらず、生来遅読であり 年度末にかかって中断したりしていて読み終えるのに思わず時間がかかってしまった。
潜水艦は今もっとも気懸りな兵種であり、その運用技術について日本は世界トップであるとされる。米海軍は海自のその技術を中国封じ込めに活用したかったので、集団的自衛権を行使可能とするよう日本政府に迫ったのだろう。従がって、その源流である先の大戦での日本の潜水艦運用状況を知ることは意義あることだろうと思った次第だ。
吉村氏自身は“あとがき”で次のように言っている。“昭和17年秋、新聞に大本営発表として一隻の日本潜水艦が訪独したという記事が掲載されていた。戦局も苛烈になった頃で、遥かへだたったドイツにどのようにして赴くことができたのか、中学生であった私には夢物語のようにも感じられた。”この“あとがき”の日付は昭和48年(1973)春となっているが、その数年前から昭和17年(1942)秋の“新聞記事の裏面にひそむ史実を調査することを思い立ち、その潜水艦の行動を追ってみたが、同艦は華々しい発表を裏切るように帰国寸前に爆沈していた。そして、その調査を進めるうちに、同じような目的をもった多くの潜水艦が、日本とドイツの間を、あたかも深海魚のように海中を往き来していたことを知った。それは戦史の表面にあらわれることもない、暗黒の海に身をひそませた行動で、しかも、その大半が海底に没した悲劇であることも知った。” 多くの裏面史を戦史小説として発表してきた吉村氏の台詞としては大いにモッテいるように思えるが、海の忍者・潜水艦らしい歴史だ。
今も、危急存亡の日本海には日中米露、場合によっては朝、韓のそれぞれの潜水艦が人知れず多数暗躍してお互いの出方を探っていることだろう。その中でも最も存在が捉え難く、しかも相手の行動を把握しているのは海自の潜水艦であることは間違いない。そうして、米韓以外の動向を諜報活動に資するデータとして蓄積する活動を行っているだろう。(ついでながら、私は北朝鮮に水中からミサイル発射可能な潜水艦が存在するとは思えない。建造能力もなければ、輸入も出来る状態ではないはずだからだ。だから水中発射可能なミサイルを開発した意義が理解できない。たとえミサイル潜水艦があったとしてもその動向はすべて海自によって捕捉されているはずだ。)
文庫本の解説は、作者・吉村氏と親しかった半藤利一氏が書いているが、そこでは次のように言っている。“昭和41年(1966)、吉村さんは『戦艦武蔵』という歴史小説を(初めて)書きました。・・・そしてこの『深海の使者』をもって、戦史小説を書くことを吉村さんはぴたりとやめてしまったのです。”それは、吉村氏は戦史を裏付ける証言を細かく積み上げて小説を書きあげるのだが、『深海の使者』を書こうとした頃には既に“35%ほどしか証言者がいなかった。これには僕も愕然とした。・・・これじゃ正確な戦史小説を書けないという事実を、いやというほど僕に思い知らせた。”と吉村氏は半藤氏に語ったという。
この小説が書かれた昭和48年、44年前でそういう状態であれば、現在は既に戦争を知る人は殆どいないと見て良い。なるほど、証言者が居なければ今や想像力に欠ける首相をはじめとして歴史を都合よく修正する者ども(歴史修正主義者)が跋扈するのは理解ができる。もはや、お勉強しない右派であることが、利権になる時代になってしまったのだ。
戦争中の昭和17年に枢軸国の同盟を有効にするために日独伊の軍事協定を締結したが、それをさらに実効あるものとするには実際に人的、物的往来が必要と当時の政府は認識した。相互の戦略的役割の確認はもとより、日本側はドイツの新技術である電波探信義(レーダー)や電波探知機(レーダー照射逆探知機)の実物導入をドイツ側に希望した。それまで日独の軍需物資は商船を武装したドイツの柳船と称する特設巡洋艦で大胆に実施していたが、ドイツ側は最新技術が連合軍に鹵獲されることをおそれた。しかし日本側が大型潜水艦を派遣すればドイツは応じるとのことで、始まったという。その後は、ジェット機やロケット機の技術導入も企図して、実際に入手した設計図等から橘花や秋水、或いは特攻機・桜花の元となった。この一連の史実が“小説”になっている。
この潜水艦による遣独使節の概要がWikipediaによりまとめられているので、次に若干の修正をして引用する。
【第1次遣独艦】
伊号第三十潜水艦(艦長遠藤忍海軍中佐)…1942年(昭和17年)8月6日、フランス・ロリアン入港。復路の10月13日、シンガポール港にて自軍の機雷に触れ沈没。伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の11番艦。
【第2次遣独艦】
伊号第八潜水艦(艦長内野信二海軍大佐)…ヒトラーが日本に無償譲渡するUボートU1224号をドイツから日本に回航する要員60名を乗せ、1943年(昭和18年)8月31日、無事フランス・ブレスト入港。復路も帰国に成功。駐独大使館付海軍武官横井忠雄海軍少将が便乗帰国した。伊七型潜水艦(巡潜3型)の2番艦。
【第3次遣独艦】
伊号第三十四潜水艦(艦長入江達海軍中佐)…1943年11月13日、往路マラッカ海峡にてイギリス海軍の潜水艦に撃沈される。伊第三十四潜水艦は、伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の15番艦。
【第4次遣独艦】
伊号第二十九潜水艦(艦長木梨鷹一海軍中佐)…駐独大使館付海軍武官小島秀雄海軍少将・永盛義夫海軍技術少佐(航空機)・田丸直吉技術少佐(電波兵器)・鮫島龍雄海軍大学校ドイツ語教授ら総勢17名の便乗者を乗せ、1943年(昭和18年)12月17日にシンガポール出航。1944年(昭和19年)3月11日、フランス・ロリアン入港。復路は、小野田捨次郎海軍大佐・松井登兵海軍大佐・巌谷英一海軍技術中佐ら総勢18名を便乗させ、4月16日にロリアンを出航。7月14日にはシンガポールに入港するも、7月26日にバシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦に撃沈される。(海軍要人はシンガポールから空路で東京へ生還している。)
同艦には、Me163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれていたが、シンガポールで零式輸送機に乗り換えた巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われた。かろうじて残ったそれら資料は、のちに秋水・橘花の開発に活かされた)
伊第二十九潜水艦は、伊十五型潜水艦(巡潜乙型潜水艦)の10番艦。
【第5次遣独艦】
伊号第五十二潜水艦(艦長宇野亀雄海軍中佐)…1944年(昭和19年)6月24日、往路大西洋にて米護衛空母ボーグの艦載機の攻撃により沈没。伊五十二型潜水艦(丙型改潜水艦)の1番艦。
5次5隻派遣されてほぼ目的を達したのは第1次、2次、4次派遣であったが、潜水艦自身も健全に帰国できたのは、第2次の伊号第八潜水艦だけであった。日独間の1万5千浬(3万キロ弱)の潜航を含む航海が如何に過酷だったかが理解できる。(実際は日仏間で、地理的に英ブリテン島があり、ドイツ本土のキール等には達していない。)
ここに登場する潜水艦はいずれも2千トンを超える大型のものであり、しかも小型水上機を艦内に収容可能な潜水艦であった。第5次の伊号第五十二潜水艦は航空機搭載可能とはなっていないが、本来は可能の“乙型改2潜水艦(計画番号S37C)の航空設備を撤去した船型”だという。先の大戦で、航空機搭載可能の潜水艦を保持していたのは世界中で日本だけではなかったか。
特に、伊号四百~四百二潜水艦は“晴嵐”水上攻撃機を3機搭載し、パナマ運河爆撃を計画したが、実現せず終戦した。米側はこの事実に驚愕し、伊号四百潜水艦を徹底研究し、戦後初の水中ミサイル発射潜水艦ポラリスを開発するきっかけとなったという。この潜水艦はソ連が台頭する中、米国が核戦略上優位を譲らなかった決定的な兵器となった。ここで、私が知らなかったのは伊号四百潜水艦以前に既に偵察機搭載可能な潜水艦を多量に保持していたという事実だった。
特に第1次遣独艦の伊号第三十潜水艦は、零式水上偵察機を搭載しインド洋沿岸の英海軍基地を偵察し、その情報を元に攻撃を繰り返しながらマダガスカル島南方に達し、燃料補給を受けて喜望峰沖を回って大西洋に入った、ということだ。
水上機の運用は、航空機を司令塔の下にある格納筒(下の写真で艦型参照)から引き出し、カタパルトで射出し、目的達成後、帰還した水上機は海面に着水し、それを潜水艦のクレーンで引き揚げて搭載するという態様だ。この飛行機を射出するカタパルトは21世紀にもなって、中国が自慢する空母“遼寧”にはないのが不思議だ。このためミサイル等で武装した航空機が重量オーバーで“遼寧”から飛び立てないのではないか、だから空母としての戦力にはならないという噂が流れている。
先の大戦で有名なドイツのU-ボート潜水艦は700トンのものが一般的だったという。そんな時代に、航空機を搭載した潜水艦を日本海軍は運用していたのだ。大型潜水艦で来航すれば、機密事項も公開するというドイツも、この実物潜水艦を見たかったのではないだろうか。
したがい、入港しても独艦用のブンカー(潜水艦用防空掩体壕)から艦体がはみ出したと小説に書いていたが、それをどのように工夫したかまでは言及していなかった。
日本が制海権を喪失した海域の島嶼の自軍支援物資を輸送するのに、本来の使用目的でない潜水艦を多用できたのは、航空機格納筒の空間を活用して物資を積載したものと理解できる。例えばガダルカナル島支援は有名だ。
しかし残念なことは、日本の電波探信義(レーダー)や電波探知機(レーダー照射逆探知機)や、水中音波探知機(ソナー)の技術が貧弱で、連合国側に捕捉され犠牲になっている潜水艦が多い。現に沈められた遣独潜水艦も、全てそういった機器で捕捉され攻撃を受けた結果だと思われる。中には第二次遣独艦の伊号第八潜水艦のように、ブレスト港到着前に独潜水艦と邂逅し、そこで独側から譲り受けた電波探知機を装着して英海軍の警戒を何度も回避潜航して無事入港したものもいる。電波探知機がなければ難を逃れて任務達成できたかは不明だ。
今の日本のこうした技術は、勿論世界トップでパッシブ・ソナーでほぼ1000km先を探査可能と聞いている。つまり、沖縄に居てほぼ中国沿岸の艦船の動向が把握できるということになる。
また第1次遣独艦の伊号第三十潜水艦は、シンガポールで自軍の機雷に触雷したとあるが、遣独任務は本来軍令部直接の命令であり、帰還時のシンガポール寄港は正確には軍令部の命令にはなかったことのようだ。自軍の機雷というより、英軍が放置した機雷を日本側が港湾防御に利用していたもので、艦長はそうした状況を知らなかったという。いわば、余計なことをして、現地の状況を知らない艦長と、艦の状況を知らない現地軍の情報のやり取り不足によって起こった事故ではないか。艦長はあくまでも中央の軍令部を通じて行動するべきではなかったか。シンガポールの自軍と情報接触して、困難な任務を果たし終えた歓喜による気のゆるみによる事故ではないかと思われる。
読んでいるうちに気付かないまま、話が飛行機のことになっていて、驚いた箇所がある。それは潜水艦でのドイツとの往来は半年近くかかってしまうので、計算上数日で行ける飛行機で行けないかと試み始めて、長距離飛行可能な航空機の開発を指向したエピソードである。それは通称A-26と称し陸軍の試作機キ77と呼称された航空機である。Wikipediaの記事を少し修正して引用して紹介する。当初は“朝日新聞社が、1940年(昭和15年)の皇紀2600年を記念し、東京-ニューヨークの親善飛行を企画。東大航空研究所へ(亜成層圏飛行可能な機材)開発を依頼した。一旦は戦争激化により開発棚上げとなったが、類まれな長距離飛行性能(アメリカ本土まで飛行可能)に注目した軍部の指示により開発が再開。”これを日独連絡用に使おうとした。“開発費は朝日新聞社と日本陸軍が分担して、立川飛行機と東大航空研究所が開発・設計を担当し2機のみ製作された試作機。通称A-26の「A」は朝日新聞の頭文字、「26」は皇紀2600年の26。”
この機材1号機は燃料漏れの欠陥により実用せず、2号機を実際にドイツに向かって出発させている。“日本とは中立関係にあったソ連を刺激しないために、シンガポール経由の南方迂回と決定。(1943年)6月30日、長友飛行士ら5名の朝日新聞航空部クルーと陸軍将校3人を乗せた2号機は福生飛行場を離陸、7月7日に中継地シンガポールから一路ドイツ領を目指したが、途中で消息不明となった。連合軍による撃墜記録も無いため、消息不明の原因も全く不明”だが、搭乗員全員が戦死したとして公式に処理された。
1号機はその後再度のドイツへの飛行を目指したが、戦況の悪化で断念。それでもその後、長距離飛行の世界記録樹立を企図し、中国の新京から、ハルビン、白城子の3点を頂点とした三角コースを昭和19年(1944)7月2日午前9時47分から飛行し続けて翌々日の午後7時0分新京飛行場に戻った。これにより16,235kmの非公認世界記録を達成したという。これは昭和44年(1969)米ボーイングB52Hの18,245kmの記録まで破られなかったという。
読み終わって、戦争中のこことは言え、命を懸けておじけることなく任務遂行に努力する群像に敬意を通り越してほろ苦さを感じてしまった。こういう社会心理の状況は今後も起こり得るのだろうか。
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