The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
古田織部美術館を観覧して
米軍がシリアの空軍基地に59発の巡航ミサイルを撃ち込んだ。米中首脳会談最中でのオペレーション実施だった。
シリア・アサド政権への対応と北朝鮮・キムジョンウン政権へのトランプ政権の対応に、きちんとした対称性が認められ、明らかに次は北への軍事介入が予想される。米中会談の主要テーマに北朝鮮問題があり、陰に陽に“中国が解決に協力しないなら、米国単独でもする”強い意志を示した格好になった。
トランプ氏の仕掛けにすっかり習近平氏の発言は霞んでしまった。プーチン氏も一時色を失った印象だ。しかし私は、この中国首脳の対応に意外なものを感じた。
今年に入って、これまで水面下で米中間には頻繁な接触があったとされ、中国外交トップの楊潔篪氏も動いたとされる。(同じタイミングで日本の谷内国家安全保障局長も訪米している由。)このところの北の暴走には中国も手を焼いている。(未だに北京を訪問していない北朝鮮のトップはジョンウンが初めてだという。)米中の利害は北の軍事力増大は望んでいないという点で、米側が北を緩衝地帯と認めれば、ほぼ完全に一致している。だから、特にジョンナム殺害事件以降、“斬首作戦”の詳細な打合せが行われたと推測されるが、この度の中国首脳の反応にそこまでではなかったように見受けられる。(中国側の秘匿の芝居?)中国側の協力がなければ、その作戦は実施されたとしても米軍単独介入では規模は小さくならざるを得ず、その場合周囲への悪影響は甚大になる可能性が出てくる。中国人民軍を北を平定する警察力に使えないのは大きなマイナスではないだろうか。
このところ直近の北朝鮮のミサイル実験は連続して失敗しているとされるが、これは米軍によるハッキングの影響とする噂がある。これは軍事介入時の被弾被害を最小限にするための米軍側の試みである可能性がある。北のミサイルを無力化し、他方で“斬首作戦”を完遂する計画ではないだろうか。あまりにも楽観的見方だろうか。
今、韓国では正式の大統領は5月9日まで存在せず、政府は機能していない。このように政権が空白のため雑音の入らないことを米側は絶好機と捉えて“斬首作戦”を決行する可能性が高いような気がする。北の動向(核実験やミサイル試射等)次第で時期は早まることはあるかも知れない。その場合、北の反撃で日本への悪影響・被害はかなりのものになる可能性はある。毒ガスに備えて水の準備は必要かもしれない。それよりも南北国境地帯での応戦やソウル近辺での被弾は文字通り“火の海”になるのだろう。それらの対応のため、日本の駐韓大使はソウルに帰任したと見るのは考え過ぎではなく、現に菅官房長官は“対北朝鮮政策の連携のため”と明言している。
さらに空母カールビンソンが米韓合同軍事演習に参加するべく回航されて来て、軍事的緊張はさらに高まっている。
さて、先日は京都に行く用件があったので、ついでに何処かへ行きたいとネットで京都のイベントを調べてみると、たまたま“平成29年 春季 展「古田織部と慶長年間のかぶき者」”を古田織部美術館でやっていることを知り、この際出かけてみることとした。その美術館は、地下鉄北山駅が最寄で、植物園の北側にある。
“織部”はテレビ番組“何でも鑑定団”で、時々織部焼として洒落た焼き物が価値あるものとして扱われて、初めて知ったのだが、これを機会に何らかが分かればと思った。
茶人・古田織部(ふるた おりべ)は、古田重然(ふるた しげなり)という、織豊期の武将。“織部”の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位*に叙任されたことに由来している、という。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって“織部好み”と呼ばれる一大流行をもたらした。(出典:Wikipedia)
*織部司(おりべのつかさ/おりべし/おんべのつかさ)は日本古代の律令制において大蔵省に属する機関の一つである。織染の高度な技術をもち、高級織物の生産に従事した。唐名は織染署。内蔵寮より原料として支出される朝廷用の錦・綾・紬・羅などの織染を職掌とする。(出典:Wikipedia)
主君を織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠と変転させたためか、最期は徳川方から豊臣への内通者として疑われ、大坂落城後に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年73。12月に後嗣で長男の重広も江戸で斬首され、ついに古田家は断絶した。(出典:Wikipedia)
織部焼(おりべやき)は、慶長10年(1605年)頃、岐阜県土岐市付近(織部の出生地:岐阜県本巣郡本巣町山口)で始まり元和年間(1615年-1624年)まで、主に美濃地方で生産された陶器。美濃焼の一種。
織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。当時の南蛮貿易で中国南方からもたらされ、茶人たちに珍重された交趾焼(華南三彩)を元にしたと考えられる。大量生産のため、陶工加藤景延が唐津から連房式登窯を導入したと伝えられる。織部焼には京風の意匠が用いられたことや、1989年京都三条の中之町から大量の美濃焼が発掘されたことから、ここから美濃へ発注されていたことが想定される。当時の三条界隈には“唐物屋”と呼ばれる、陶磁器や絵画、染織を売る道具屋が軒を連ね、織部焼もここで売られていた。織部焼にしばしば見られる唐津焼と共通した文様があるのは、唐津にも唐物屋から発注されていたことからであろう。
元和年間に入ると、器形と模様の単純化が急速に進み、瀟洒な作風へ変貌していった。中之町発掘の美濃焼は改元直後に急いで廃棄された形跡があり、古田織部の切腹との関係が指摘されている。この時期は矢七田窯で焼かれた矢七田織部と称され、織部焼に特徴的な緑釉を用いず、形もより具象的になる。元和末年から寛永初めになると、古典的青磁の復興を目指した黄緑色から淡青色の御深井(おふけ)釉を用いた御深井焼が本格化し、織部焼は姿を消した。(出典:Wikipedia)
こんなところが、“織部”に対するバックグラウンド知識であろうか。
今回の展示は“かぶき者”がテーマとなっているが、図録として買ったパンフレットに“かぶき者の時代”としてミホミュージアム館長の熊倉功氏の解説記事が載っていた。これによれば“いつの時代であっても、日常生活を脱した世界、まともならざるものへの情動は、人の心を鷲づかみにする恐るべき力がある。かぶきとは傾(かぶ)くという言葉の連用形。傾いているだけでなく歪んだり曲がったり、およそ見た目からして異様な姿にかぶいている人びとこそ、まともならざるものへの情動につき動かされるかぶき者だった。そして世をあげてかぶき者に拍手喝さいをおくり、かぶき者たちが大手を振って世間を闊歩した時代があった。慶長(1596~1615)という時代である。”ここに今漫画で流行の“へうげもの”(読みは“ひょうげもの”、「へうげる」は「剽げる」と書き、「ふざける」「おどける」の意。)が入るのだろう。そしてかぶき者の奇矯な踊りを歌舞伎踊りとして阿国が大成したという。当時、佐々木小次郎の長刀もかぶき者の為せる業だという。
熊倉氏は言う。“織部の茶会に参じた客は、茶会で使われた茶碗を見て異様に感じた。ある客は「へうげたる」といい、ある客は「焼きそこない」と表現した。織部が好んだ茶碗がかぶいていた証拠である。しかしそれが今あるどの茶碗を指して発した言葉か分からないし、今残されているひしゃげたような沓形茶碗がどこまで織部の息がかかったものか明解に証明できるものはない。そのため、織部好みと古田織部との結びつきは実証できないとする研究者もいる。さらにいえば、織部は天下の宗匠として権威も権力も持つ大名である。しかも老境にあるその人が、欲求不満の負け犬ともいうべき若いかぶき者の好尚に、簡単に共鳴し同化するものか、という疑問もあろう。”だから、織部はかぶき者そのものではないとしても、それをよく理解して、将軍家に数寄屋御成という茶の儀礼を作り、へうげたる焼き物を使い、名物の墨跡を二つに断ち切って茶の掛物に直して使うという かぶいた眼力は持っていた・・・という解説をしてくれている。
古田織部美術館は美術館と言うには小さな建物で、1階では作品の販売があり、地下が展示室だが目録によれば60点弱のものがあった。中には、織部好みの刀剣の展示があったが、抜き身であった。しかし波紋に工夫があるとは思えなかった。柄や鞘までは展示されていないので、かぶいた要素は分からない。遊女に被らせたという朱塗の総髪型兜はかぶいたと思われるが、兜甲冑は一般の武者も奇抜さを競ったはずだ。しかし、茶碗等の陶磁器は一種不思議な模様が施されたり、異様に形が崩れていて面白味があった。
又奥のブースで、それまでの様式とは異なる数寄屋茶室を織部の残した部材で再現・再建されたのを映像紹介していた。それは室内への採光を十二分に考慮し、さらには庭園の空気を室内にも取り込んだ茶室であった。これも“正統”と見做されるものへのかぶき者としての革新なのだろうか。
こうして見て来ると守破離こそ文武芸道の“正統”なのかも知れない。“守”だけでは正統の芸術家とは言えないのは確かなことだ。“破離”に独創と審美眼がなければならない。それが織部のように“かぶく”ことの真骨頂なのだろう。
織部は武士だったというのは、“何でも鑑定団”での解説で知ってはいたが、文化人でもあったので まさか切腹で最期を迎えたとは知らなかった。美術館に掲げられた織部年譜の最後の記述で初めて知って驚いた次第である。私のような下衆の勘繰りでは、時代を読み大筋において誤らない活躍のようだったが、その割には出世できなかったことで、ある種の賭けに出て間違ったのであろうか。いずれにしても中世の人の人生は厳しいものだとの感慨だ。
中公新書“古田織部―美の革命を起こした武家茶人”の著者・諏訪勝則氏もこの死を、豊臣政権末期の3大文化人の“謎めいた死(切腹)”としてこの本の1テーマに据えている。3大文化人とは古田織部の死を最後に、最初は千利休であり、次いで秀吉の甥・豊臣秀次である。そしてこの謎を著者自身が解いている。曰く、この文化人達はそれぞれが築いた文化的世界を通じて幅広く且つ濃密な人的ネットワークを築いている。そしてこのネットワークは、時の政権にとっての政敵も含めて有力なものとして存在していた。従い、権力者はこのネットワークを危険視し、その中心人物を消すことで根絶やしにすることを狙った、というのだ。但し、利休と秀次は秀吉の猜疑であり、織部は家康のそれである違いはあるが、利休と秀次を見ていた織部はそういう背景を知悉していて、従容として死に就いたと著者・諏訪氏は言っている。
この本は、織部を深く知るためには良い手がかりを提供してくれるとは思うので、いずれ精読してみたいとは思うが、この度は申し訳ないが書店店頭で知りたい部分だけを盗み読みして、ここに紹介した。
世の権力者とはそんなものなのだろうか。現代日本の安倍氏の日本人への傲慢と米国へのへつらいはどこから来ているのだろうか。彼には政敵への猜疑はないのだろうか。こうした中世の権力者の精神構造に最も近いのがキムジョンウン委員長なのだろう。彼は猜疑のカタマリだ。早く現代的意識に目覚めて欲しいが、目覚めた時が彼の地獄の始まりとなるのだろうか。否、既に地獄の真っただ中なのかもしれない。
帰りは、植物園を通過して、梅の名残と咲き始めた桜を楽しんだ。
シリア・アサド政権への対応と北朝鮮・キムジョンウン政権へのトランプ政権の対応に、きちんとした対称性が認められ、明らかに次は北への軍事介入が予想される。米中会談の主要テーマに北朝鮮問題があり、陰に陽に“中国が解決に協力しないなら、米国単独でもする”強い意志を示した格好になった。
トランプ氏の仕掛けにすっかり習近平氏の発言は霞んでしまった。プーチン氏も一時色を失った印象だ。しかし私は、この中国首脳の対応に意外なものを感じた。
今年に入って、これまで水面下で米中間には頻繁な接触があったとされ、中国外交トップの楊潔篪氏も動いたとされる。(同じタイミングで日本の谷内国家安全保障局長も訪米している由。)このところの北の暴走には中国も手を焼いている。(未だに北京を訪問していない北朝鮮のトップはジョンウンが初めてだという。)米中の利害は北の軍事力増大は望んでいないという点で、米側が北を緩衝地帯と認めれば、ほぼ完全に一致している。だから、特にジョンナム殺害事件以降、“斬首作戦”の詳細な打合せが行われたと推測されるが、この度の中国首脳の反応にそこまでではなかったように見受けられる。(中国側の秘匿の芝居?)中国側の協力がなければ、その作戦は実施されたとしても米軍単独介入では規模は小さくならざるを得ず、その場合周囲への悪影響は甚大になる可能性が出てくる。中国人民軍を北を平定する警察力に使えないのは大きなマイナスではないだろうか。
このところ直近の北朝鮮のミサイル実験は連続して失敗しているとされるが、これは米軍によるハッキングの影響とする噂がある。これは軍事介入時の被弾被害を最小限にするための米軍側の試みである可能性がある。北のミサイルを無力化し、他方で“斬首作戦”を完遂する計画ではないだろうか。あまりにも楽観的見方だろうか。
今、韓国では正式の大統領は5月9日まで存在せず、政府は機能していない。このように政権が空白のため雑音の入らないことを米側は絶好機と捉えて“斬首作戦”を決行する可能性が高いような気がする。北の動向(核実験やミサイル試射等)次第で時期は早まることはあるかも知れない。その場合、北の反撃で日本への悪影響・被害はかなりのものになる可能性はある。毒ガスに備えて水の準備は必要かもしれない。それよりも南北国境地帯での応戦やソウル近辺での被弾は文字通り“火の海”になるのだろう。それらの対応のため、日本の駐韓大使はソウルに帰任したと見るのは考え過ぎではなく、現に菅官房長官は“対北朝鮮政策の連携のため”と明言している。
さらに空母カールビンソンが米韓合同軍事演習に参加するべく回航されて来て、軍事的緊張はさらに高まっている。
さて、先日は京都に行く用件があったので、ついでに何処かへ行きたいとネットで京都のイベントを調べてみると、たまたま“平成29年 春季 展「古田織部と慶長年間のかぶき者」”を古田織部美術館でやっていることを知り、この際出かけてみることとした。その美術館は、地下鉄北山駅が最寄で、植物園の北側にある。
“織部”はテレビ番組“何でも鑑定団”で、時々織部焼として洒落た焼き物が価値あるものとして扱われて、初めて知ったのだが、これを機会に何らかが分かればと思った。
茶人・古田織部(ふるた おりべ)は、古田重然(ふるた しげなり)という、織豊期の武将。“織部”の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位*に叙任されたことに由来している、という。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって“織部好み”と呼ばれる一大流行をもたらした。(出典:Wikipedia)
*織部司(おりべのつかさ/おりべし/おんべのつかさ)は日本古代の律令制において大蔵省に属する機関の一つである。織染の高度な技術をもち、高級織物の生産に従事した。唐名は織染署。内蔵寮より原料として支出される朝廷用の錦・綾・紬・羅などの織染を職掌とする。(出典:Wikipedia)
主君を織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠と変転させたためか、最期は徳川方から豊臣への内通者として疑われ、大坂落城後に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年73。12月に後嗣で長男の重広も江戸で斬首され、ついに古田家は断絶した。(出典:Wikipedia)
織部焼(おりべやき)は、慶長10年(1605年)頃、岐阜県土岐市付近(織部の出生地:岐阜県本巣郡本巣町山口)で始まり元和年間(1615年-1624年)まで、主に美濃地方で生産された陶器。美濃焼の一種。
織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。当時の南蛮貿易で中国南方からもたらされ、茶人たちに珍重された交趾焼(華南三彩)を元にしたと考えられる。大量生産のため、陶工加藤景延が唐津から連房式登窯を導入したと伝えられる。織部焼には京風の意匠が用いられたことや、1989年京都三条の中之町から大量の美濃焼が発掘されたことから、ここから美濃へ発注されていたことが想定される。当時の三条界隈には“唐物屋”と呼ばれる、陶磁器や絵画、染織を売る道具屋が軒を連ね、織部焼もここで売られていた。織部焼にしばしば見られる唐津焼と共通した文様があるのは、唐津にも唐物屋から発注されていたことからであろう。
元和年間に入ると、器形と模様の単純化が急速に進み、瀟洒な作風へ変貌していった。中之町発掘の美濃焼は改元直後に急いで廃棄された形跡があり、古田織部の切腹との関係が指摘されている。この時期は矢七田窯で焼かれた矢七田織部と称され、織部焼に特徴的な緑釉を用いず、形もより具象的になる。元和末年から寛永初めになると、古典的青磁の復興を目指した黄緑色から淡青色の御深井(おふけ)釉を用いた御深井焼が本格化し、織部焼は姿を消した。(出典:Wikipedia)
こんなところが、“織部”に対するバックグラウンド知識であろうか。
今回の展示は“かぶき者”がテーマとなっているが、図録として買ったパンフレットに“かぶき者の時代”としてミホミュージアム館長の熊倉功氏の解説記事が載っていた。これによれば“いつの時代であっても、日常生活を脱した世界、まともならざるものへの情動は、人の心を鷲づかみにする恐るべき力がある。かぶきとは傾(かぶ)くという言葉の連用形。傾いているだけでなく歪んだり曲がったり、およそ見た目からして異様な姿にかぶいている人びとこそ、まともならざるものへの情動につき動かされるかぶき者だった。そして世をあげてかぶき者に拍手喝さいをおくり、かぶき者たちが大手を振って世間を闊歩した時代があった。慶長(1596~1615)という時代である。”ここに今漫画で流行の“へうげもの”(読みは“ひょうげもの”、「へうげる」は「剽げる」と書き、「ふざける」「おどける」の意。)が入るのだろう。そしてかぶき者の奇矯な踊りを歌舞伎踊りとして阿国が大成したという。当時、佐々木小次郎の長刀もかぶき者の為せる業だという。
熊倉氏は言う。“織部の茶会に参じた客は、茶会で使われた茶碗を見て異様に感じた。ある客は「へうげたる」といい、ある客は「焼きそこない」と表現した。織部が好んだ茶碗がかぶいていた証拠である。しかしそれが今あるどの茶碗を指して発した言葉か分からないし、今残されているひしゃげたような沓形茶碗がどこまで織部の息がかかったものか明解に証明できるものはない。そのため、織部好みと古田織部との結びつきは実証できないとする研究者もいる。さらにいえば、織部は天下の宗匠として権威も権力も持つ大名である。しかも老境にあるその人が、欲求不満の負け犬ともいうべき若いかぶき者の好尚に、簡単に共鳴し同化するものか、という疑問もあろう。”だから、織部はかぶき者そのものではないとしても、それをよく理解して、将軍家に数寄屋御成という茶の儀礼を作り、へうげたる焼き物を使い、名物の墨跡を二つに断ち切って茶の掛物に直して使うという かぶいた眼力は持っていた・・・という解説をしてくれている。
古田織部美術館は美術館と言うには小さな建物で、1階では作品の販売があり、地下が展示室だが目録によれば60点弱のものがあった。中には、織部好みの刀剣の展示があったが、抜き身であった。しかし波紋に工夫があるとは思えなかった。柄や鞘までは展示されていないので、かぶいた要素は分からない。遊女に被らせたという朱塗の総髪型兜はかぶいたと思われるが、兜甲冑は一般の武者も奇抜さを競ったはずだ。しかし、茶碗等の陶磁器は一種不思議な模様が施されたり、異様に形が崩れていて面白味があった。
又奥のブースで、それまでの様式とは異なる数寄屋茶室を織部の残した部材で再現・再建されたのを映像紹介していた。それは室内への採光を十二分に考慮し、さらには庭園の空気を室内にも取り込んだ茶室であった。これも“正統”と見做されるものへのかぶき者としての革新なのだろうか。
こうして見て来ると守破離こそ文武芸道の“正統”なのかも知れない。“守”だけでは正統の芸術家とは言えないのは確かなことだ。“破離”に独創と審美眼がなければならない。それが織部のように“かぶく”ことの真骨頂なのだろう。
織部は武士だったというのは、“何でも鑑定団”での解説で知ってはいたが、文化人でもあったので まさか切腹で最期を迎えたとは知らなかった。美術館に掲げられた織部年譜の最後の記述で初めて知って驚いた次第である。私のような下衆の勘繰りでは、時代を読み大筋において誤らない活躍のようだったが、その割には出世できなかったことで、ある種の賭けに出て間違ったのであろうか。いずれにしても中世の人の人生は厳しいものだとの感慨だ。
中公新書“古田織部―美の革命を起こした武家茶人”の著者・諏訪勝則氏もこの死を、豊臣政権末期の3大文化人の“謎めいた死(切腹)”としてこの本の1テーマに据えている。3大文化人とは古田織部の死を最後に、最初は千利休であり、次いで秀吉の甥・豊臣秀次である。そしてこの謎を著者自身が解いている。曰く、この文化人達はそれぞれが築いた文化的世界を通じて幅広く且つ濃密な人的ネットワークを築いている。そしてこのネットワークは、時の政権にとっての政敵も含めて有力なものとして存在していた。従い、権力者はこのネットワークを危険視し、その中心人物を消すことで根絶やしにすることを狙った、というのだ。但し、利休と秀次は秀吉の猜疑であり、織部は家康のそれである違いはあるが、利休と秀次を見ていた織部はそういう背景を知悉していて、従容として死に就いたと著者・諏訪氏は言っている。
この本は、織部を深く知るためには良い手がかりを提供してくれるとは思うので、いずれ精読してみたいとは思うが、この度は申し訳ないが書店店頭で知りたい部分だけを盗み読みして、ここに紹介した。
世の権力者とはそんなものなのだろうか。現代日本の安倍氏の日本人への傲慢と米国へのへつらいはどこから来ているのだろうか。彼には政敵への猜疑はないのだろうか。こうした中世の権力者の精神構造に最も近いのがキムジョンウン委員長なのだろう。彼は猜疑のカタマリだ。早く現代的意識に目覚めて欲しいが、目覚めた時が彼の地獄の始まりとなるのだろうか。否、既に地獄の真っただ中なのかもしれない。
帰りは、植物園を通過して、梅の名残と咲き始めた桜を楽しんだ。
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