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伏見城と伏見桃山陵の参拝

ダイハツの不正検査報告、とんでもない話だ。下請けはISO/TS16949に悩まされながら、仕事をした全ての結果、不正な出荷がなされていたことになる。しかも、今後の生産再開の目途も立たず、自らの存立の危機となる。やはり、中小零細は1本足打法は厳禁ということになる。
しかしながら、ダイハツのこの不祥事はかなり根深い問題のようだ。つまりダイハツ自身の存立の問題となる可能性が大きいようだ。ということは、親会社のトヨタは恐らく幹部社員全ての総入れ替えをしなければならない程の大問題となるのではなかろうか。

自民党の不祥事。これに乗じて首相は安倍派潰しにかかっているかに見える。このまま歳は暮れ、明けるのだ。果たしてどういう黒幕が動いたのか、歴史的評価を待たなければならないのか。
ある人の小さなプッシュが大きく世の中を揺り動かす。意外にもこれによって巨大な岩盤が崩れて、見える社会の景色が大きく変わってしまう。政権にかかわる人々の右往左往が、政権に全くかかわらない者にはある意味オモシロイ。

だが、一方では辺野古“代執行”訴訟で国が勝訴したという。 日本の民主主義は行政・司法一体となって圧殺されようとしている。沖縄の民意は殺されたのか?これは独裁国家である。
地方自治などという言葉を許すから、地方は中央に伏して従わなければならないという論理が生まれる。地方も中央もないという観念がなければ民主主義は成立しない。むしろ地方の民主主義・民意尊重があって国全体の民主主義が保証されるのだという基本理念がなければならない。これは恐らく普通の民主主義の理念であろう。それが危機感を持って語られないのがこの国の民意なのだ。レベルの低い民意であると言わざるを得ない。民主主義はアリの一穴で崩れるものだ。それを理解できない民意には情けない限りだ。
それに果たして辺野古基地建設は最優先するべき公益なのか。生物多様性の保証はどうなったのか。それよりも私見だがシェルター建設が国民を守ることとして必要なことではないのか。司法にそこまで判断する権限があると言えるのか。越権までして民意を殺すことに司法は何故情熱を傾けるのであろうか。そんなにまでして日本の民主主義を阻害したい本意はどこにあるのか。

山本投手が、ドジャースと入団契約した。人種偏見のない野球の名門ドジャーズ。日本はここを突破口にして米国を大きく変えることができるのか。

ところで、先週DXに関して興味深い話を聞いた。どうやら、デジタル庁まで作って日本社会のDX化を促そうとしたのが頭打ちになっているというのだ。
どういうことか。どうやら日本の企業や役所を含めてあらゆる組織は外国の安価で強靭な信頼できるデファクト・スタンダードのシステムを導入してDX化を推進しようとせず、日本のソフト・ハウスに発注して独自のシステムを導入しようとする傾向がある、というのだ。
例えば、SAPという有名でワールド・ワイドな会計システムがある。このシステムの導入に当たっては、自社の組織をこのシステムに合わせて変革しなければならない。20年以上前私の知っている中小企業がフランスの親会社の指示に従ってこのSAPを導入するために四苦八苦していたことを思い出す。どうやら組織変革に苦労していたのだ。
ところが日本の企業・組織は組織変革を嫌って、自社独自システムにこだわっている。ところが自社独自の組織には論理性がない部分が結構ある。だから逆にシステム開発に極端に時間がかかる。そしてその分時代遅れになって行くのだ。
だが、SAPはワールド・ワイドなシステムなのでこれに合わせて組織変革をするということは、組織自体がデファクト・スタンダードに準じたものとなることになるのだ。デファクト・スタンダードに準じた組織になるということはそれだけで組織が透明性を持ったことになる。だから組織の合併や連合があっても相互のシステムの繋ぎこみが容易になるのだ。経営状況を語る上でも共通言語を持ったことになるのだ。それだけでも、迅速身軽な経営、アジル経営が可能になる。
ところが、未だに日本の組織は自社の仕組みにこだわり、デファクト・スタンダードのシステム導入に消極的だという。独自システムには必ず穴がある。そして独自にDX化したつもりでも大抵99%失敗する。それに、日本の中小のソフト・ハウスはそれほど賢いとは思えない。審査先にソフト・ハウスも複数あったが、そこの従業員はどう見ても普通にロジカルではなかった。大手のソフト会社でも失敗を繰り返しているのではないか。どうやら日本のシステムは皆同じような失敗を繰り返しているようなのだ。マイナ・システムも同じようなことらしい。デファクト・スタンダードのスタウトなパッケージを使わないことによる失敗の繰り返しのようだ。この真相を表層的なマスコミ記者は理解できず、深層報道できていないらしい。
そしてもう一つ深刻なのが、e-Taxだという。税務当局がDX化に沿って推進する動きだが、これが税理士業務を省略することにつながっているというのだ。分かり難い税務作業が容易に可能となるので税理士の仕事を奪ってしまう結果となったという。まっ!仕方のないことか。
兎に角、未だに日本の組織は自社の仕組みにこだわり、デファクト・スタンダードのシステム導入に消極的だということは、日本企業は組織変革できずに30年近く世界から取り残されることとなるのだ。これは非常に深刻な事態ではあるまいか。30年と言えば一世代なのだ。21世紀にチョンマゲで過ごせる訳があるまい。



さて、今回は伏見に仕事があったので、ついでに伏見城明治帝陵を巡ってみた。恐らく、京都での仕事は残すところ1年少々になるはずなので、今のうちに京都を余すところなく見ておきたい、という気持ちが強く出てきた。京都南東方面は先ず伏見界隈を見た、宇治界隈を見た、黄檗山万福寺を見た、ということで、どうも伏見城が気がかりになってきたのだ。特に、“どうする家康”でも、秀吉が亡くなって一時期家康が伏見城で政務を執ったとでてきており、日本の政治の表舞台となったのが、今どうなっているのか気になっていたのがこの機に一気に大きくなったのだ。

ところで、Wikipediaによれば“伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。”とある。
指月伏見城は調べてみると、後の江戸幕府の伏見奉行所の約400m東側に位置する。そして、秀吉の生前、慶長伏見地震によって倒壊し、指月から北東約1kmの木幡山に新たに再建したのが木幡山伏見城で、ここで秀吉は亡くなる。家康が一時政務を執ったのもこの城。だが、関ヶ原の戦いで石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失。それを家康が1602年(慶長7年)再建し、1619年(元和5年)に城の意義なしとして廃城とした。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築されたとある。
その遥か後の戦後“伏見城花畑跡は1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図(林原美術館所蔵)に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られた。2003年1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与された”とある。だがその後耐震基準には不適と判明し内部には入れないこととなった。
だから亡父が生きていた時は“城はエエ加減なモンや”ということで、その近くの明治帝の伏見桃山御陵にだけ連れて行ってくれたような記憶がある。だけどまぁ一応その城を見ておきたかったのだ。できれば中に入って京都を一望したかったのだが、少々残念。
ところで、その偽物の城を見てそれでオシマイも無念残念なので、ついでに明治帝の陵墓である桃山御陵に行って見ようと思った。城の本丸跡は桃山御陵になってしまっているのだから、桃山丘陵の半分近くを見て伏見城の城郭の規模を知るのも良いことかとも思ったのだ。



仕事は近鉄の伏見駅近くだったので、駅に近くで腹ごしらえのつもり。ところが飲食店3店舗が足並みそろえてお休み。こういうつまらんことを何故するのだろうか。以前にも山陽電車沿線の駅でこういうことがあった。一斉にお休み。あたかも協定して休んだかのようだ。同じ協定でも同時にならないように、もう少し考えて休んで欲しい。一軒だけ開いていた店に何とか入って昼食とした。まぜそばを注文。



近鉄で一駅、丹波橋まで来て下車。ここから伏見桃山城を目指す。緩い坂が住宅街を抜けて続く。左手に総合支援学校を見ながらさらに住宅街を行くときに、道をわずかに1本左へかわすことがこの際のコツだということを予め地図を読みながら知っていたのだった。ここからはほぼ道なりに一本道でやがて、左右が森林となり駐車場への門へと入って行く。



これを左に石垣塀を見ながら入って行くと大手門にたどり着く。これが偽伏見城の入口。
この大門には“内部は公開していません。”との立看板が情けなくもあった。後は、何の解説文の看板もなし。
北側からの城の写真はあまりないので、一旦北側によって撮影。外観は結構趣がある。
それだけで、元来た道を引き返す。



両側の杜を見ながら南側への間道を行く。左右で鳥が騒ぐ声が激しい。特にカラスの声が騒がしい。手入れは行き届いてはいないようで、倒木が放置されている。宮内庁も大変なのだろう。10分ほど歩くと、歩道の四つ辻に出る。これが御陵の伏見方面からの参道だと知れる。この参道へと左へ折れて、どんどん進む。
やがて杜が開けて、トイレと宮内庁の事務所らしき平屋の建物が見えてくる。それをやり過ごして行くと御陵正面にいたる。
その前に230段の階段がある。正面遥かには庶民の生活の場が見える。Wikipediaによれば“明治天皇が教育勅語を下した1890年(明治23年)10月30日に由来する。階段の段数は教育勅語が出された明治23年10月の23と10をかけた数になっている。また、陵墓内に7段の階段があるが、これは明治23年の23とこの階段の段数を足すと教育勅語が出された30日になるという話がある。      明治23年 × 10月 = 230段     明治23年 + 7段 =30日 ”とある。
一応、鳥居の脇で最敬礼。これで、早々に失礼。今に思えば何故か、皇太后御陵を拝見することをせずに退散してしまい失礼を後から気付いた。
参道を逆に戻っていく。これで桃山丘陵を半周したことになる。京都の南端の結構平坦で広い丘陵に城を築くのは絶好の立地と思われた。しかも南西側には広大な巨椋池があったのは攻めにくい立地となる。聚楽第と大坂城の両にらみできるポジションだったという。さすがよく考えられたとの印象を持った。



結構長い杜の間道を抜け、大手筋通りを下って行く。やがて、御香宮の前に行き着く。かつて来たことがあるがお久しぶり、ついでのことお参りしようと急に思いつく。
ここは、明治維新の緒戦、鳥羽伏見の戦いでの戦端を開いた所で、西郷が薩軍の砲兵隊を率いて眼下にある幕府の伏見奉行所を砲撃したところなのだ。そして神社名にあるように御香水の湧き出る場所でもある。
コロナ禍の影響で手水舎は手洗い禁止のままのところがあるが、ここは間欠的にお水が出ていた。一旦お参りして、手で御香水を頂き、本殿を一周して参拝終わり。



次は、近鉄戦と京阪線の間にある総本家駿河屋伏見本舗へ赴く。通りの向こうから駿河屋さんの向かいの料亭の格子戸にある鳥羽伏見の戦いの銃弾痕を見て歩く観光団に出くわす。心の中で、それもそうかもしれないが、そこにある駿河屋さんは羊羹発祥のお店、それを知らないか、と馬鹿にしてやり過ごす。
店内に入ると羊羹の店というよりも、もはや総合和菓子屋さんの印象に少々面食らう。それでも羊羹を土産とした。



そのまま近鉄線で烏丸へ出て、久しぶりにフレンチ・カフェのタルトタタンで、報告書を書こうと思っていたが残念ながら何故かお休み。前日調べたが何もお知らせなし。こんなこともあるものだ!!!
仕方なくビル1階のカフェでコーヒーを一杯頼んで報告書を作成した。

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