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ひろさちや・著・“書下ろし・空海と密教”を読んで
またまたオミクロン株の初の市中感染が東京ではなかった。変な話だ。こういう“初の感染”が絶対に東京ではないのだ。ドイコト?東京では、キチンと検査していないのではなかろうか。或いは、発見されていてもそれは一般国民には報道しないことになっているのだろうか。それが、この国の報道の限界であろうか。これでこの国に“民主主義”があると言えるのだろうか。
否、未だにPCR検査に後ろ向きで抗原検査にこだわっていては、症状の軽いオミクロン株は感染していても実態が把握し難いのではないか。つまるところ、市中に既に蔓延していると見ても間違いないのではないのか。一時はやると言っていた下水のPCR検査はやっているのか。国民をできるだけ盲目にしておくことは、中国並に巧妙に進展しているのではないか。
米軍人は米国から日本への移動は検査フリーだった、という。日本政府が如何に空港検疫に迅速で厳密な対応をしても、米軍基地はフリーパスではダダ洩れになっていることになる。これは沖縄だけの問題ではない。基地や米軍施設の多い東京でも大問題ではないのか。こういう穴からの感染は既に拡大しているのではないか。
繰り返すが、だからキチンと襟を正して検査するべきだ。それもこの度はPCR検査でやるのが当たり前のはずだが、ようやく無料PCR検査の実施になったという。遅いのではないか。
米軍の不祥事には、日本の右派、民族派という人々は何故か口をつぶってしまう。苦情は言わない。何が民族派なのか。
中国には強く出る発言が目立つようだが元首相の“民族派”の看板は米軍に対してはどうなっているのか、言うに及ばない。あの2015年の米国議会での植民地総督のような演説を改めて思い出す。
この元首相の言動は、非民主的だったと思うのだが、中国には民主主義の名の下に非難するのだろうか。彼の“民主主義”は中国の民主主義と何がどう違うのだろうか。ヒョットして、同根ではないのか。
さてさて、元首相と言えばあのアホノマスクの負の遺産、どうしてくれる?!引き取り手が無い、というのなら当然、粛々と安倍事務所で引き取るものだと思っているが、音なしの構え?
この元首相には負の遺産が多すぎる。前回指摘した赤木訴訟でも勝手に認諾して、税金で補償するというのはムシが良すぎるのではないか。国民やマスコミはもっと怒るべきではないのか。
やはりさすがにアホアホだったとの歴史的評価になる可能性を大いに秘めているのではないか。国民をできるだけ盲目にしておくことの背後にいるのならば、意外にアホアホとは言えないのかも知れない。
さて、今回も又“ひろさちやワールド”の一つ、祥伝社黄金文庫“書下ろし・空海と密教”を紹介したい。
空海と密教については私も多少は“お勉強”してきたつもりだ。そして、その結果をこのブログでも発表しているのだった。だが、それを腑に落ちる状態にまで消化できているわけではない。というよりも、この両者は私の理解を超えている存在で、敬遠すべきものだと理解を断念したものだった。ところで今、わたしは“ひろさちやの「仏教」”にはまっているさなかにある。そこで同氏の“書下ろし・空海と密教”をしかも文庫本であることを見つけたのだ。その理解を一旦断念した私には、これは読まずにおかりょうか、と思うのは当然だろう。ひろさちやの密教観、空海観がぜひ知りたかったのだ。そこから、“空海と密教”の理解の一端が得られれば幸甚であると。特に、興味があったのは驚くべき空海の行状の様々な伝説をどのように納得できるかたちで扱うのか、その興味もあった。
その祥伝社黄金文庫での本書の紹介文は次の通り。
“弘法大師の「真実の人間らしく生きる」術(すべ)を学べば、のんびり、ゆったりと毎日を生きることができます。
高野山開創1200年の年に空海の生涯をだどり、空海の生き方を学ぶ。
空海のような密教人間になって、もっとのびのびと生きましょう。ともかく、現代日本人は悩みだらけです。その悩みの原因は何かといえば、ちまちまとした欲望、みみっちい欲望に駆られているからです。わたしたちは空海に教わって、もっと大欲を持ちましょうよ。真実の人間らしく生きましょう。
わたしはそういう提言がしたいがために、この本を書きました。この本は、空海という平安時代の高僧を、われわれ平成の時代に再登場させ、われわれが真実の人間らしく生きるにはどうすればよいかを教えてもらおうと試みたものです。どうかあなたも空海のような密教人間になってください。そうすれば、あなたは、現代にあってものんびり、ゆったり、のびのびと生きることができますよ。(まえがきより一部抜粋)”
目次大略は次の通り。見て分かるように、空海の生涯の順で著述されている。8章では、空海の著作の概略が示されている。
1 大学を去る空海
2 彷徨する空海
3 海を渡る空海
4 密教を完成させる空海
5 帰ってきた空海
6 傍若無人の空海
7 任務のない空海
8 僧に専念する空海
9 山に眠った空海
読んでみると全体に、ひろさちや節でかかれているので、親しみやすいのは勿論である。この本の第4章で、空海が20年の唐での留学期間を勝手に短縮して2年で戻った、というより戻れた理由を合理的に推測している。
“空海が青龍寺の門を叩いたのは、延暦24年(805年)の5月の下旬か6月の上旬である。その年の2月10日に遣唐使一行が長安を去ってから、約3カ月、空海は恵果に会おうとしなかったのである。空海が長安に入ってからだと、5カ月にもなる。密教を学びたいのであれば、何は措いてもまず会わねばならぬ恵果に、3カ月以上も会おうとしない空海。それはなぜか・・・・・・?”
空海が密教を学びに入唐したというならば、すぐさま当時密教の最高僧・恵果阿闍梨に会いに行くのが普通であろう。だが、空海はそうしなかった。それは何故かという問いである。
著者は“空海は天竺に行くことを考えていたのだから・・・・・・ということで説明がつく。”と言っている。そして、はっきり司馬遼太郎の“空海の風景”での“演出説”を批判している。
空海の書いた“御請来目録”に恵果が空海に“我、先より汝の来るのを待や久し(そなたのような人物がやって来るのを待っていたよ)”と言ったのは、恵果が空海を一目見て言ったのではなく、2,3日じっくり話し合って判断した結果だったのだろうと推測している。そして相手を傑物と評価したのならば“空海の傑物を評価するものではなく、恵果の傑物を語るものだ。”と断言している。この人物評は当然のこととして ひろさちや氏の慧眼を評価したい。
その上で、“日本においてさえ名の知られていない空海が、長安の都でたった数カ月の「演出」をやってのけたぐらいで、有名人になれるわけがない。”と3カ月以上の空白を空海が作ったのは、その間に名を売るための「演出」をやるための時間だったという無理くりの司馬説批判をしているのだ。ついでに作家の勝手なこの説に学者連中までもが無評価に引きずられてしまっていることも批判している。私も名を売るための「演出」をやるための時間は、どんな“不世出の天才”であっても数年は必要だと考える。数カ月では何の効果も生むまい。
そして“空海の天竺行計画”説を持ち出す。そして、天竺に行くためにサンスクリット語を学ぶ必要があったので、長安に来ていたインド人2人にそれを学びに行ったというのだ。そこで、そのインド人達から“サンスクリット語とバラモン教の哲学を学んでいるうちに、密教がいかなる仏教か、その本質を見抜くことができたのである。”
この解説は極めて合理的であると、私も同感する。サンスクリット語とバラモン教の哲学を数カ月で学ぶというのは、天才には容易だろうと考えられる。またインド人から直接、その考え方背景にある思考モードを引き出せば、異民族には難解な密教思想も容易に理解可能となることは十分に想像できる。
それに引換え“数カ月の「演出」”で恵果への売名を何とかする、というのはいかにも下衆の推測に過ぎる印象だ。あの作家はその程度のレベルの作家なのだ。それを世間は大学者のように扱っている。しかし、歴史的にはそういう評価は長続きはしまい。文豪としてはいずれ消えゆくか、単なる流行小説作家として残る程度であろう。そうでなければ、彼を評価する現在の歴史学者自身が研究者としての評価に耐える存在ではなくなるであろう。
そして、空海は現地天竺(インド)に遠出するのは相当なエネルギーと時間を要するので、理解できた密教が本物かどうかを、次に恵果に会って確認した、というのは十分に合理的である。そしてそのついでに、恵果から空海の人物の高評価を得たということであろう。その上で恵果から後継者として認められ、伝法の“灌頂”を受け、その後密教に関する文物を大車輪でかき集めて、たった2年で帰国するのが可能だったというのが真相だろう。だが、その2年は如何に天才でも相当に多忙だったに違いないのだ。
ついでに、ひろさちや氏は恵果と空海の密教に関する会話や、恵果から伝えられた内容をこの第4章の終わりで大胆に推測している。“われわれは、恵果から空海への密教の伝授が、あまりにも超スピードであったことに驚かされるのであるが、よく考えてみるとこれは当然のことなのだ。なぜなら、空海は、密教がというものが何であるか、すでにその理論を知っていた。理論(教相)をしっかり掴んだ上で、恵果阿闍梨から事相(テクニック)を教わっているからだ。”
“理論は完成しても、行法(修行の方法。テクニック)については、皆目分からない。どのように印を結べばよいか、いかなる真言を唱えるか、本尊をどのように観想するか、については誰かに教わる必要がある。”
“したがって、これは恵果に対してちょっと失礼な言い方になるかもしれないが、教相に関してはむしろ空海が師となって恵果に教え、事相に関してだけ空海が弟子となって恵果から教わる。そういう珍しい師弟関係が展開されていたとも考えられる。”
そして、その空海と恵果の会話を小説風に想像しているのは興味深いので、是非本書を読んでみるべき部分だと思う。司馬氏には当然ながら、ここまでの想像力はなかったのだろう。ここまでやれば、彼の『空海の風景』は私は未だ読んではいないが、もっと高く評価され、もっと売れたに違いあるまい。だが、人物理解が不十分ではそこまで至らなかったのだ。『空海の風景』にそんな限界があると知れば、読む気にもならない。
司馬氏は、幕末の単なる周旋屋の坂本龍馬を不当に持ち上げ、日露戦争の乃木希典将軍を不当に貶め、ここでも空海に不当で下衆な想像を働かせている。このような人物を大思想家のように扱う日本の現代社会の風潮に大いに疑問を感じるのだ。日本社会にホンモノを見抜く力が欠けてしまっていることに大いに危惧を抱くのだ。
逆に、これらの ひろさちや氏の推測は出色であると思う。この本の第4章は最も大切な部分であろう。
これ以外の部分は概ね、読んだ本でも書かれていたような定説だったように思う。空海の常識を超える他の伝説については解説を避けているように思う。
“空海が青龍寺に恵果を訪ねて行ったのが延暦24年(805年)の5月の下旬。ひょっとすれば6月の上旬であったかもしれない。ところが空海は、
6月13日に・・・・胎蔵界の灌頂を受け、
7月上旬には・・・・金剛界の灌頂を受けている。
さらに驚いたことには、
8月10日には阿闍梨位の伝法灌頂を受けた。”
との事実を紹介している。たった2カ月の完全伝授、まるで死期を悟った恵果が急いだかのようである。“優秀なる弟子に、すべてを伝授した安心感かれであろうか、その年の12月15日に恵果は寂した。享年六十。”
“空海は、恵果から「遍照金剛」といった灌頂名を授かっている。「遍照金剛」とは大日如来の別名である。”しかし、その事実は恐らく空海一人が勝手に主張していることではないかとの、これも下衆の勘繰りをしたくなるものだ。その事実は恐らく空海以外の日本人は見ていないのではあるまいか、と思わざるをえないからだ。
この灌頂名を授かるには、胎蔵界と金剛界の灌頂を受ける度にそれに際して、曼荼羅(まんだら)に向かって樒(しきみ)を投げる儀式があるという。空海の投げた樒は、この2度とも大日如来の上に落ちたという。*恐らく、この事実と空海の天才に恵果は底知れぬ神秘を感じたに違いないのだ。恵果はその感動の中で、「遍照金剛」という尊号を空海に授けたのだろうと、十分想像できるのだ。恐らく、空海には架空話をする必要性はなかったのだろうと、思うべきだろう。
*“恵果は師匠の不空から灌頂を受けたとき、転法輪菩薩の上に落ちたという。それで不空は、弟子の恵果が自分の後継者となって法輪を転じてくれる人物だと、大いに喜んだと伝えられている。”
このように空海についての理解は格段に進んだが、密教に関しては今一つのままであるのは、残念ながら事実だ。
さて、本年のブログ投稿もこれで最後だ。来年はどういう歳になるのか、何だか大きく時代が変化する予兆はあるが、どのように変わるのか、全く読めない。
この変化の時代に身近に現状を変えようと思いきったことをしたが、思惑通りに動かせなかった人を知っている。私も現状を変えようと思って行動には移すまで至らなかったが、その人は行動して上手く行かなかった。そういう思いや行動は大切なことだと思う。昔、私の上司で時々思い出す言葉なのだが、“昨日までの続きで、今日や明日を考えるな”というのがある。これは至言ではあるが、よくよく考えて行動してみると中々むづかしい。
しかし、ひろさちや氏によれば、仏教では“この刹那、今を生きよ”が核心の教えのようだ。そしてそれに言及する時は、キリストの次の言葉も必ず言い添えている。“明日のことまで思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。”その立場からすると、私はまだまだ修行がたりないレベルかもしれない。
だが、私は若い時に“今、何もしなければ、悪いことはほっといてもやって来る。良いことは中々やって来ない。良いことがやって来るように、今準備しなければならない。”と正に“叩けよさらば開かれん”であると覚醒したことがあって、それでこれまで生きて来た。その後に、あの上司の言葉に接して、さらにもう一歩進まねばならぬと思ったものだった。
今、正にそれが試される時代なのだ。“昨日までの続き”に安易に流されるな!だが、思考は“昨日までの延長”でしか考えられないのが実情ではないか。経験に基づかなければ、正確な予測はできない。
ところが、その経験が今や役に立たなくなって来ているような気がするのだ。大きな要素はITがこれまでの経験の価値を貶め始めている。つまり、年寄りの経験の大半は役に立たなくなってきている。だから、若い人はもっと元気になって欲しい。特に、日本の若者は賢く元気になって欲しいと片方では思っている。しかし、どうやら何かに流されているように見える。私の若い時もそうだったのだろうか。否、もう少し世代として元気があったのではないかと反芻している。しかし現状は“草食系男子”が登場して以降、この傾向は変わっていないような気がするのが、気懸りなのだ。
凡夫には娑婆のことを分かろうとすること自体に問題がある、というのが仏教の立場だと、ひろさちや氏は言っている。阿弥陀様や神様の計らいを凡夫の人間が理解できるはずがない。だからこそ、“この刹那、今を生きよ”、現実には今しかないのであり、昨日は過ぎ去ったことで、如何ともしがたい過去であり、明日は未だ来ない未来なのだ。だからキリストも“明日のことまで思い煩うな”と言ったという。
ならば、今を精一杯生きるしかないのであろう。だが、ならば“悪いことは勝手にやって来る。良いことがやって来るように、今準備しなければならない”や、“昨日までの続きで、今日や明日を考えるな”はどうなるのだろう、とこの凡夫の私は思い悩むのだ。
ここは、“今を精一杯生きるしかない”と思い諦めることが大切なのだろうか・・・。来年等今後のことに思い煩うな!!凡夫には無駄な努力なのか・・・・・・。
ところでここで、来年のことを語りますが、普通であれば1月3日は投稿日、ですがいつものように新年正月休みとさせて頂きます。良い御歳を御迎え下さい。

否、未だにPCR検査に後ろ向きで抗原検査にこだわっていては、症状の軽いオミクロン株は感染していても実態が把握し難いのではないか。つまるところ、市中に既に蔓延していると見ても間違いないのではないのか。一時はやると言っていた下水のPCR検査はやっているのか。国民をできるだけ盲目にしておくことは、中国並に巧妙に進展しているのではないか。
米軍人は米国から日本への移動は検査フリーだった、という。日本政府が如何に空港検疫に迅速で厳密な対応をしても、米軍基地はフリーパスではダダ洩れになっていることになる。これは沖縄だけの問題ではない。基地や米軍施設の多い東京でも大問題ではないのか。こういう穴からの感染は既に拡大しているのではないか。
繰り返すが、だからキチンと襟を正して検査するべきだ。それもこの度はPCR検査でやるのが当たり前のはずだが、ようやく無料PCR検査の実施になったという。遅いのではないか。
米軍の不祥事には、日本の右派、民族派という人々は何故か口をつぶってしまう。苦情は言わない。何が民族派なのか。
中国には強く出る発言が目立つようだが元首相の“民族派”の看板は米軍に対してはどうなっているのか、言うに及ばない。あの2015年の米国議会での植民地総督のような演説を改めて思い出す。
この元首相の言動は、非民主的だったと思うのだが、中国には民主主義の名の下に非難するのだろうか。彼の“民主主義”は中国の民主主義と何がどう違うのだろうか。ヒョットして、同根ではないのか。
さてさて、元首相と言えばあのアホノマスクの負の遺産、どうしてくれる?!引き取り手が無い、というのなら当然、粛々と安倍事務所で引き取るものだと思っているが、音なしの構え?
この元首相には負の遺産が多すぎる。前回指摘した赤木訴訟でも勝手に認諾して、税金で補償するというのはムシが良すぎるのではないか。国民やマスコミはもっと怒るべきではないのか。
やはりさすがにアホアホだったとの歴史的評価になる可能性を大いに秘めているのではないか。国民をできるだけ盲目にしておくことの背後にいるのならば、意外にアホアホとは言えないのかも知れない。
さて、今回も又“ひろさちやワールド”の一つ、祥伝社黄金文庫“書下ろし・空海と密教”を紹介したい。
空海と密教については私も多少は“お勉強”してきたつもりだ。そして、その結果をこのブログでも発表しているのだった。だが、それを腑に落ちる状態にまで消化できているわけではない。というよりも、この両者は私の理解を超えている存在で、敬遠すべきものだと理解を断念したものだった。ところで今、わたしは“ひろさちやの「仏教」”にはまっているさなかにある。そこで同氏の“書下ろし・空海と密教”をしかも文庫本であることを見つけたのだ。その理解を一旦断念した私には、これは読まずにおかりょうか、と思うのは当然だろう。ひろさちやの密教観、空海観がぜひ知りたかったのだ。そこから、“空海と密教”の理解の一端が得られれば幸甚であると。特に、興味があったのは驚くべき空海の行状の様々な伝説をどのように納得できるかたちで扱うのか、その興味もあった。
その祥伝社黄金文庫での本書の紹介文は次の通り。
“弘法大師の「真実の人間らしく生きる」術(すべ)を学べば、のんびり、ゆったりと毎日を生きることができます。
高野山開創1200年の年に空海の生涯をだどり、空海の生き方を学ぶ。
空海のような密教人間になって、もっとのびのびと生きましょう。ともかく、現代日本人は悩みだらけです。その悩みの原因は何かといえば、ちまちまとした欲望、みみっちい欲望に駆られているからです。わたしたちは空海に教わって、もっと大欲を持ちましょうよ。真実の人間らしく生きましょう。
わたしはそういう提言がしたいがために、この本を書きました。この本は、空海という平安時代の高僧を、われわれ平成の時代に再登場させ、われわれが真実の人間らしく生きるにはどうすればよいかを教えてもらおうと試みたものです。どうかあなたも空海のような密教人間になってください。そうすれば、あなたは、現代にあってものんびり、ゆったり、のびのびと生きることができますよ。(まえがきより一部抜粋)”
目次大略は次の通り。見て分かるように、空海の生涯の順で著述されている。8章では、空海の著作の概略が示されている。
1 大学を去る空海
2 彷徨する空海
3 海を渡る空海
4 密教を完成させる空海
5 帰ってきた空海
6 傍若無人の空海
7 任務のない空海
8 僧に専念する空海
9 山に眠った空海
読んでみると全体に、ひろさちや節でかかれているので、親しみやすいのは勿論である。この本の第4章で、空海が20年の唐での留学期間を勝手に短縮して2年で戻った、というより戻れた理由を合理的に推測している。
“空海が青龍寺の門を叩いたのは、延暦24年(805年)の5月の下旬か6月の上旬である。その年の2月10日に遣唐使一行が長安を去ってから、約3カ月、空海は恵果に会おうとしなかったのである。空海が長安に入ってからだと、5カ月にもなる。密教を学びたいのであれば、何は措いてもまず会わねばならぬ恵果に、3カ月以上も会おうとしない空海。それはなぜか・・・・・・?”
空海が密教を学びに入唐したというならば、すぐさま当時密教の最高僧・恵果阿闍梨に会いに行くのが普通であろう。だが、空海はそうしなかった。それは何故かという問いである。
著者は“空海は天竺に行くことを考えていたのだから・・・・・・ということで説明がつく。”と言っている。そして、はっきり司馬遼太郎の“空海の風景”での“演出説”を批判している。
空海の書いた“御請来目録”に恵果が空海に“我、先より汝の来るのを待や久し(そなたのような人物がやって来るのを待っていたよ)”と言ったのは、恵果が空海を一目見て言ったのではなく、2,3日じっくり話し合って判断した結果だったのだろうと推測している。そして相手を傑物と評価したのならば“空海の傑物を評価するものではなく、恵果の傑物を語るものだ。”と断言している。この人物評は当然のこととして ひろさちや氏の慧眼を評価したい。
その上で、“日本においてさえ名の知られていない空海が、長安の都でたった数カ月の「演出」をやってのけたぐらいで、有名人になれるわけがない。”と3カ月以上の空白を空海が作ったのは、その間に名を売るための「演出」をやるための時間だったという無理くりの司馬説批判をしているのだ。ついでに作家の勝手なこの説に学者連中までもが無評価に引きずられてしまっていることも批判している。私も名を売るための「演出」をやるための時間は、どんな“不世出の天才”であっても数年は必要だと考える。数カ月では何の効果も生むまい。
そして“空海の天竺行計画”説を持ち出す。そして、天竺に行くためにサンスクリット語を学ぶ必要があったので、長安に来ていたインド人2人にそれを学びに行ったというのだ。そこで、そのインド人達から“サンスクリット語とバラモン教の哲学を学んでいるうちに、密教がいかなる仏教か、その本質を見抜くことができたのである。”
この解説は極めて合理的であると、私も同感する。サンスクリット語とバラモン教の哲学を数カ月で学ぶというのは、天才には容易だろうと考えられる。またインド人から直接、その考え方背景にある思考モードを引き出せば、異民族には難解な密教思想も容易に理解可能となることは十分に想像できる。
それに引換え“数カ月の「演出」”で恵果への売名を何とかする、というのはいかにも下衆の推測に過ぎる印象だ。あの作家はその程度のレベルの作家なのだ。それを世間は大学者のように扱っている。しかし、歴史的にはそういう評価は長続きはしまい。文豪としてはいずれ消えゆくか、単なる流行小説作家として残る程度であろう。そうでなければ、彼を評価する現在の歴史学者自身が研究者としての評価に耐える存在ではなくなるであろう。
そして、空海は現地天竺(インド)に遠出するのは相当なエネルギーと時間を要するので、理解できた密教が本物かどうかを、次に恵果に会って確認した、というのは十分に合理的である。そしてそのついでに、恵果から空海の人物の高評価を得たということであろう。その上で恵果から後継者として認められ、伝法の“灌頂”を受け、その後密教に関する文物を大車輪でかき集めて、たった2年で帰国するのが可能だったというのが真相だろう。だが、その2年は如何に天才でも相当に多忙だったに違いないのだ。
ついでに、ひろさちや氏は恵果と空海の密教に関する会話や、恵果から伝えられた内容をこの第4章の終わりで大胆に推測している。“われわれは、恵果から空海への密教の伝授が、あまりにも超スピードであったことに驚かされるのであるが、よく考えてみるとこれは当然のことなのだ。なぜなら、空海は、密教がというものが何であるか、すでにその理論を知っていた。理論(教相)をしっかり掴んだ上で、恵果阿闍梨から事相(テクニック)を教わっているからだ。”
“理論は完成しても、行法(修行の方法。テクニック)については、皆目分からない。どのように印を結べばよいか、いかなる真言を唱えるか、本尊をどのように観想するか、については誰かに教わる必要がある。”
“したがって、これは恵果に対してちょっと失礼な言い方になるかもしれないが、教相に関してはむしろ空海が師となって恵果に教え、事相に関してだけ空海が弟子となって恵果から教わる。そういう珍しい師弟関係が展開されていたとも考えられる。”
そして、その空海と恵果の会話を小説風に想像しているのは興味深いので、是非本書を読んでみるべき部分だと思う。司馬氏には当然ながら、ここまでの想像力はなかったのだろう。ここまでやれば、彼の『空海の風景』は私は未だ読んではいないが、もっと高く評価され、もっと売れたに違いあるまい。だが、人物理解が不十分ではそこまで至らなかったのだ。『空海の風景』にそんな限界があると知れば、読む気にもならない。
司馬氏は、幕末の単なる周旋屋の坂本龍馬を不当に持ち上げ、日露戦争の乃木希典将軍を不当に貶め、ここでも空海に不当で下衆な想像を働かせている。このような人物を大思想家のように扱う日本の現代社会の風潮に大いに疑問を感じるのだ。日本社会にホンモノを見抜く力が欠けてしまっていることに大いに危惧を抱くのだ。
逆に、これらの ひろさちや氏の推測は出色であると思う。この本の第4章は最も大切な部分であろう。
これ以外の部分は概ね、読んだ本でも書かれていたような定説だったように思う。空海の常識を超える他の伝説については解説を避けているように思う。
“空海が青龍寺に恵果を訪ねて行ったのが延暦24年(805年)の5月の下旬。ひょっとすれば6月の上旬であったかもしれない。ところが空海は、
6月13日に・・・・胎蔵界の灌頂を受け、
7月上旬には・・・・金剛界の灌頂を受けている。
さらに驚いたことには、
8月10日には阿闍梨位の伝法灌頂を受けた。”
との事実を紹介している。たった2カ月の完全伝授、まるで死期を悟った恵果が急いだかのようである。“優秀なる弟子に、すべてを伝授した安心感かれであろうか、その年の12月15日に恵果は寂した。享年六十。”
“空海は、恵果から「遍照金剛」といった灌頂名を授かっている。「遍照金剛」とは大日如来の別名である。”しかし、その事実は恐らく空海一人が勝手に主張していることではないかとの、これも下衆の勘繰りをしたくなるものだ。その事実は恐らく空海以外の日本人は見ていないのではあるまいか、と思わざるをえないからだ。
この灌頂名を授かるには、胎蔵界と金剛界の灌頂を受ける度にそれに際して、曼荼羅(まんだら)に向かって樒(しきみ)を投げる儀式があるという。空海の投げた樒は、この2度とも大日如来の上に落ちたという。*恐らく、この事実と空海の天才に恵果は底知れぬ神秘を感じたに違いないのだ。恵果はその感動の中で、「遍照金剛」という尊号を空海に授けたのだろうと、十分想像できるのだ。恐らく、空海には架空話をする必要性はなかったのだろうと、思うべきだろう。
*“恵果は師匠の不空から灌頂を受けたとき、転法輪菩薩の上に落ちたという。それで不空は、弟子の恵果が自分の後継者となって法輪を転じてくれる人物だと、大いに喜んだと伝えられている。”
このように空海についての理解は格段に進んだが、密教に関しては今一つのままであるのは、残念ながら事実だ。
さて、本年のブログ投稿もこれで最後だ。来年はどういう歳になるのか、何だか大きく時代が変化する予兆はあるが、どのように変わるのか、全く読めない。
この変化の時代に身近に現状を変えようと思いきったことをしたが、思惑通りに動かせなかった人を知っている。私も現状を変えようと思って行動には移すまで至らなかったが、その人は行動して上手く行かなかった。そういう思いや行動は大切なことだと思う。昔、私の上司で時々思い出す言葉なのだが、“昨日までの続きで、今日や明日を考えるな”というのがある。これは至言ではあるが、よくよく考えて行動してみると中々むづかしい。
しかし、ひろさちや氏によれば、仏教では“この刹那、今を生きよ”が核心の教えのようだ。そしてそれに言及する時は、キリストの次の言葉も必ず言い添えている。“明日のことまで思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。”その立場からすると、私はまだまだ修行がたりないレベルかもしれない。
だが、私は若い時に“今、何もしなければ、悪いことはほっといてもやって来る。良いことは中々やって来ない。良いことがやって来るように、今準備しなければならない。”と正に“叩けよさらば開かれん”であると覚醒したことがあって、それでこれまで生きて来た。その後に、あの上司の言葉に接して、さらにもう一歩進まねばならぬと思ったものだった。
今、正にそれが試される時代なのだ。“昨日までの続き”に安易に流されるな!だが、思考は“昨日までの延長”でしか考えられないのが実情ではないか。経験に基づかなければ、正確な予測はできない。
ところが、その経験が今や役に立たなくなって来ているような気がするのだ。大きな要素はITがこれまでの経験の価値を貶め始めている。つまり、年寄りの経験の大半は役に立たなくなってきている。だから、若い人はもっと元気になって欲しい。特に、日本の若者は賢く元気になって欲しいと片方では思っている。しかし、どうやら何かに流されているように見える。私の若い時もそうだったのだろうか。否、もう少し世代として元気があったのではないかと反芻している。しかし現状は“草食系男子”が登場して以降、この傾向は変わっていないような気がするのが、気懸りなのだ。
凡夫には娑婆のことを分かろうとすること自体に問題がある、というのが仏教の立場だと、ひろさちや氏は言っている。阿弥陀様や神様の計らいを凡夫の人間が理解できるはずがない。だからこそ、“この刹那、今を生きよ”、現実には今しかないのであり、昨日は過ぎ去ったことで、如何ともしがたい過去であり、明日は未だ来ない未来なのだ。だからキリストも“明日のことまで思い煩うな”と言ったという。
ならば、今を精一杯生きるしかないのであろう。だが、ならば“悪いことは勝手にやって来る。良いことがやって来るように、今準備しなければならない”や、“昨日までの続きで、今日や明日を考えるな”はどうなるのだろう、とこの凡夫の私は思い悩むのだ。
ここは、“今を精一杯生きるしかない”と思い諦めることが大切なのだろうか・・・。来年等今後のことに思い煩うな!!凡夫には無駄な努力なのか・・・・・・。
ところでここで、来年のことを語りますが、普通であれば1月3日は投稿日、ですがいつものように新年正月休みとさせて頂きます。良い御歳を御迎え下さい。

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