The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
京都文化博物館の“太田喜二郎と藤井厚二”展鑑賞
どうやら日本経済に暗雲が漂ってきている。3月の景気動向指数が低下し、景気の基調判断が、“悪化”に下方修正された。中国経済の減速で企業の生産が落ち込むなどしたためで、“悪化”となるのは6年2ヵ月ぶりだという。
だが、今後の見方は未だ様々なようだ。株式市場は7日続落があり、千円以上の下げとなった。その後、先週末3日間には上げ下げ上げの繰り返しとなり、下げ止まったかのように見える。そこで7日続落後の反騰に入るとの楽観的見方を言うコメンテータもいるが、根拠は薄弱に見える。
日足による日経平均チャートの一目均衡表は雲の中に入って五里霧中の観。遅行線も雲の中へ入りかけ。これが週足の一目均衡表は様相が一変していた、前年秋より雲の下を低迷している。どう見ても、経過は良くない。あるアナリストは三尊形成完了で、今後は低迷と予測している。
来週明けに1~3月のGDPの発表があるようだ。景気動向指数から見て、マイナスに転化している可能性が強く、中国景気もこれからの悪化が見込まれ、今後はそれこそリーマン・ショック級の不況となるとの見方をする向きもある。従がい、この時期の消費税増税は最悪手だとする。
私はその見方が合理的だと見ていて、GW前にキャッシュ・ポジションを高めている。このため今後の動向を高みの見物としている。どうなることやら。
個人的な話で恐縮だが、今私のPCは壊れている、というより壊してしまった。PCを見ながら、スマホに入れたエクセルで小遣い帳を造っているが、これにその日の金銭出し入れをインプット後、PCの画面を閉じたら、スマホの金属ポケット・フックが噛み込んでいて、PCの画面が大きく損傷。そして使えなくなった。エライことになった。販売店で購入前の情報収集したが、結構多いトラブルのようだ。
まぁWindows7なので、買い替えが必要な時期ではあった。週末、慌てて買いに出た。しかし、ハード面で同じ性能を維持しようと思ったら、結構高い。しかも壊れたのにはTVチューナーがあったが、今回のは時代の流れで入っていないにも係らずだ。今はデフレなのか、インフレなのか。
何だか初期設定やOfficeの立ち上げが面倒らしい。有料サービスでやりますよと販売員が言うが断った。時代が進むにしたがって面倒が増えることは進歩なのだろうか。旧PCからのデータの移行をどうするか。来週は前半で東京にお勉強と観光を楽しみにしていたが、後半はPCの立ち上げ、移管で四苦八苦か。
先週末、京都で午後に研修があったので、例によって折角なので午前に何か見たいと探して、京都文化博物館・開催の“太田喜二郎と藤井厚二—日本の光を追い求めた画家と建築家”展を鑑賞に赴いた。そして昼を“食べログ”で調べると、博物館から歩いて10分程度、方角的には南西方向、蛸薬師通烏丸西入橋弁慶町周辺に和食店が結構あるので計画した。古都京都なばら和食が定番だろう、の貧困な発想だったがお楽しみ。
この2人全く知らないので、ネットで調べてみた。知らない人を知って、知識枠を広げるのは良いことだ。
太田喜二郎(おおた・きじろう)1883年~1951年。大正~昭和・戦後の洋画家。
明治16年12月1日生まれ。黒田清輝(せいき)にまなび,明治41年ベルギーに留学する。大正3年大正博覧会で「赤き日傘」,文展で「帰り路」がそれぞれ2等賞。昭和9年私立紫野洋画研究所創設。25年京都学芸大教授。昭和26年10月27日死去。67歳。京都出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。生涯、日本の柔らかな光を描く方法を模索。
藤井厚二(ふじい こうじ)1888年~1938年。太田喜二郎と同時代(但し、昭和・戦前まで)の建築家・建築学者。
明治21年12月8日生まれ、広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学建築学科卒後、竹中工務店入社約7年在籍。「朝日新聞大阪本社(1916年)」及び「村山龍平邸和館(1917年)」、「明海ビル(1921年)」などを設計。その後、京都帝国大学教授就任。その研究成果として、真に日本の気候風土に適合した住宅の在り方を科学的に環境工学の点から考察した「日本の住宅(1928年)」を著す。設計した京都府大山崎町の実験住宅「聴竹居(1928年)」は重要文化財として有名。昭和13年7月17日死去。
主催者・京都文化博物館はHPで2人を次のような意味の事を書いて紹介している。
“近代京都の洋画家・太田喜二郎と、近代京都の建築家・藤井厚二。本展は、絵画と建築というジャンルの異なる二人について、その交流を通じ紹介することで、日本の近代文化の一側面に光をあてる。・・・京都帝国大学(現・京都大学)建築学科でデッサンを教える講師として招かれた太田は、同じ頃に講師として着任した藤井と知り合う。やがて、太田は自邸の設計を藤井に任せ、また二人は茶事などを通じて交流を深めていった。本展は、そんな太田と藤井の仕事を、新発見の資料などを踏まえて、絵画と建築をクロスさせた新たな視点から紹介する。”
実際に文化博物館に行ってみると、初めに“京のまつり―京都を彩るまつりの展示”として、“祇園祭―函谷鉾(かんこほこ)の名宝”を展示していた。“このゾーンでは、京都の特色あるまつりを紹介します。特に平安時代以来、脈々と受け継がれてきた祇園祭に焦点をあて、山鉾町に伝わる数々の名品を中心に、様々な資料を展示”とあった。
さらにその前段階で、京都の町の歴史の概要の説明パネル展示もあった。知識の整理には好都合である。ほぼ平安京開設からスタート。当初は千本丸太町に宮中・大極殿を置き、真南の九条千本付近に羅城門を置いて、朱雀大路を貫いた。その後、京都はその朱雀大路の東側の左京で発展。西側は桂川等あり湿地帯だったと聞いたような気がする。左京北側の上京に貴族が住み、南側の下京に庶民が住んだ。そして、今の繁華街もその下京が元になっているようだ。火災等あり宮中御所も当初から南東へ移転。里内裏として転々、紆余曲折を経て現在の場所に落ち着いたという。平氏は鴨川を越えて六波羅に館を構え、足利氏の室町幕府は北山殿、東山殿と街域外へ出た。秀吉は聚楽第を右京側に建設。徳川もその後その近くに二条城を建設して京の市域を結果として拡げて行った。乱暴に言えば、まぁ大略こんなとこ。
“函谷鉾”を飾る絨毯や織物の展示。これらは南西アジア、ペルシャやインドでの生産物。京都の町衆の勢いが知れる。三井の原点だ。
これを見終わってようやく、太田喜二郎の洋画展示場となる。多数の作品が展示されている訳ではないが、概ね作風変化が分かるようになっている。“おとなしい性格の人にはフランス・パリより、ベルギーの方が良い”と師匠に言われたとか。私も高校選びで、同じようなことを言われたのを思い出す。まぁ分からないことではないが、それで正解かどうかは永遠に分からないこと。
大変失礼な言い方かもしれないが、取り分け全てにデッサンがしっかりしていると感じる。それをベースに光を描いている。当初留学でベルギーの先生から、印象派の点描を学び時々刻々変化する光を捉えるため、素早く描くことを求められたそうだ。サンピエール寺院の風景画3点はほぼ同じ方向から夏の朝、冬の朝、夕陽の中を描いていて、光の捉え方が興味深い。
帰国後は点描から転換するが、光の捉え方は厳しく研鑚したようだ。日本風印象派を確立した人と言って良いのではないか。“夏の昼”は大作で、既に点描から脱していて図柄に力がある。晩年の作、“雪晴れの港”は彦根市松原の風景とのこと。一見あっさり描かれているように見えるが、日本風に計算され尽くした結果なのだろう。印象派は結局こういう画風に行き着くものだろうか。
藤井厚二のブースは作品展示はできない。図面と写真と模型の展示。個人宅の図面が玄関や台所、居間等部屋の配置に注意すると面白い。二人の関係から太田の個人宅の図面もある。アトリエは2階。立ててから増築もしたようだ。
もう少し、朝日新聞大阪本社や明海ビルジングのようなビル建設の資料展示があっても良いように思った。
“聴竹居”は山崎の天王山の麓、国鉄の駅のすぐ上の広大な土地に竹藪を切り開いて建設した自分の家。“風でそよぐ竹の音を聴く家”という意味の命名。様子が分かるように丘陵の敷地全体の敷地の模型があった、丘陵敷地の一番上部に25m×6mのプールを設置し、井戸からくみ上げた水を給水、順次下へと水を流す設計になっている。テニス・コートも1面設置するという体。これでは当時は国鉄の駅も我が物顔だろう。地図で確かめると、今のサントリーの蒸留所の東側、大山崎山荘美術館より麓側。つまりJR山崎駅に一番近い便利な場所。どうやら見学会も催されているようだ。10年ほど前にサントリー見学に行ったことがあり、久しぶりなので、一度行ってみたい。
会場から出て、階下へ行くエスカレータに乗ろうとしたら、モニター受像機でその“聴竹居”を映像紹介していた。模型や図面で見るよりは、こうした実写映像の方が分かり易く有難い。床下に土管を埋め、風通しの良い庭の木陰から室内の通気口に外気を直接送り込む工夫の紹介もあった。
思わず見入っていたが、気付くと11時20分近く。慌てて昼食に向かうべく外へ出るべく席を立つ。人気店ならばもう行列ができていて、午後の研修予定に間に合わなくなる。
橋弁慶町の通りに着いて、時計をみると丁度11時半だったが、お目当て一番の店が暖簾を出しておらず、未だ開店前なのか休店なのか、とにかく残念。通りをほんの少し引き返して、“京菜味のむら・烏丸本店”に向かう。以前一度、この店の前に来たことがあるが、行列ができていた記憶がある。観光客が減っているのか、あっさり店内へ入れる。そう言えば今回も阪急電車で来たが、いつも目立つ中国人が全く目立たなかった。やはり、米中対立で経済不況へ突入しているのだろうか。観光客減少はその影響だろうか。今後、要観察だ。
店で、“1人”を告げると、坪庭に向かったカウンター席を案内される。“御一人様”にはテーブル席より気楽か。
店先に看板で示していた“おばんざいセット”を頼むと、ご飯をどうするか聞いてきたので、慌てる。ウェイトレス思わず苦笑。確か、“白米”、“雑穀”、“湯葉丼”があって、“湯葉丼”は値段が少し高くなる。折角なので“湯葉丼”を注文。するとさらに、6つの小鉢を選べと迫って来た。あっそうや、と思いつつ、20種弱の“おばんざい”を並べたショウ・ケースへ。急ぎ直感で好きなものを選ぶ。四角いお盆に並んだ“おばんざい”を持って、席に戻る。作り置きを主体として、経営的には巧く考えたものだ。どおりで朝から営業可能なのだ。
主役のご飯の登場まで、暇なので少し坪庭を眺めるが、石と白洲で良い趣き。しかし見上げると、近所の家の窓、壁で少々残念。この店の工夫の限界、当然だが仕方ない。しかしとにかく工夫は良い事。近くのカウンターに陣取る女性、スマホを見ていたので、私もスマホ。株価、この日午前は大幅値上がりで、一安心。
どうしてか、どうもガツガツと食べるスタイルとなってしまった。午後までの時間はあるにもかかわらず兎に角、夢中で食べた。まぁ間違った姿勢ではないのではないか。結果、今の私には適量、満足。
12時前に店を出られてひと安心。未だ開店前なのか休店なのか気をもんだ店の前を行くと、今度は暖簾を出していた。来たのが早過ぎと分かった。今度はまた来よう。
これで、午前の京都プチ観光は予定通り無事完結した。余った時間は、資金供給のため銀行で預金をおろし、大丸でウィンドウ・ショッピングして、午後の予定を待った。
だが、今後の見方は未だ様々なようだ。株式市場は7日続落があり、千円以上の下げとなった。その後、先週末3日間には上げ下げ上げの繰り返しとなり、下げ止まったかのように見える。そこで7日続落後の反騰に入るとの楽観的見方を言うコメンテータもいるが、根拠は薄弱に見える。
日足による日経平均チャートの一目均衡表は雲の中に入って五里霧中の観。遅行線も雲の中へ入りかけ。これが週足の一目均衡表は様相が一変していた、前年秋より雲の下を低迷している。どう見ても、経過は良くない。あるアナリストは三尊形成完了で、今後は低迷と予測している。
来週明けに1~3月のGDPの発表があるようだ。景気動向指数から見て、マイナスに転化している可能性が強く、中国景気もこれからの悪化が見込まれ、今後はそれこそリーマン・ショック級の不況となるとの見方をする向きもある。従がい、この時期の消費税増税は最悪手だとする。
私はその見方が合理的だと見ていて、GW前にキャッシュ・ポジションを高めている。このため今後の動向を高みの見物としている。どうなることやら。
個人的な話で恐縮だが、今私のPCは壊れている、というより壊してしまった。PCを見ながら、スマホに入れたエクセルで小遣い帳を造っているが、これにその日の金銭出し入れをインプット後、PCの画面を閉じたら、スマホの金属ポケット・フックが噛み込んでいて、PCの画面が大きく損傷。そして使えなくなった。エライことになった。販売店で購入前の情報収集したが、結構多いトラブルのようだ。
まぁWindows7なので、買い替えが必要な時期ではあった。週末、慌てて買いに出た。しかし、ハード面で同じ性能を維持しようと思ったら、結構高い。しかも壊れたのにはTVチューナーがあったが、今回のは時代の流れで入っていないにも係らずだ。今はデフレなのか、インフレなのか。
何だか初期設定やOfficeの立ち上げが面倒らしい。有料サービスでやりますよと販売員が言うが断った。時代が進むにしたがって面倒が増えることは進歩なのだろうか。旧PCからのデータの移行をどうするか。来週は前半で東京にお勉強と観光を楽しみにしていたが、後半はPCの立ち上げ、移管で四苦八苦か。
先週末、京都で午後に研修があったので、例によって折角なので午前に何か見たいと探して、京都文化博物館・開催の“太田喜二郎と藤井厚二—日本の光を追い求めた画家と建築家”展を鑑賞に赴いた。そして昼を“食べログ”で調べると、博物館から歩いて10分程度、方角的には南西方向、蛸薬師通烏丸西入橋弁慶町周辺に和食店が結構あるので計画した。古都京都なばら和食が定番だろう、の貧困な発想だったがお楽しみ。
この2人全く知らないので、ネットで調べてみた。知らない人を知って、知識枠を広げるのは良いことだ。
太田喜二郎(おおた・きじろう)1883年~1951年。大正~昭和・戦後の洋画家。
明治16年12月1日生まれ。黒田清輝(せいき)にまなび,明治41年ベルギーに留学する。大正3年大正博覧会で「赤き日傘」,文展で「帰り路」がそれぞれ2等賞。昭和9年私立紫野洋画研究所創設。25年京都学芸大教授。昭和26年10月27日死去。67歳。京都出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。生涯、日本の柔らかな光を描く方法を模索。
藤井厚二(ふじい こうじ)1888年~1938年。太田喜二郎と同時代(但し、昭和・戦前まで)の建築家・建築学者。
明治21年12月8日生まれ、広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学建築学科卒後、竹中工務店入社約7年在籍。「朝日新聞大阪本社(1916年)」及び「村山龍平邸和館(1917年)」、「明海ビル(1921年)」などを設計。その後、京都帝国大学教授就任。その研究成果として、真に日本の気候風土に適合した住宅の在り方を科学的に環境工学の点から考察した「日本の住宅(1928年)」を著す。設計した京都府大山崎町の実験住宅「聴竹居(1928年)」は重要文化財として有名。昭和13年7月17日死去。
主催者・京都文化博物館はHPで2人を次のような意味の事を書いて紹介している。
“近代京都の洋画家・太田喜二郎と、近代京都の建築家・藤井厚二。本展は、絵画と建築というジャンルの異なる二人について、その交流を通じ紹介することで、日本の近代文化の一側面に光をあてる。・・・京都帝国大学(現・京都大学)建築学科でデッサンを教える講師として招かれた太田は、同じ頃に講師として着任した藤井と知り合う。やがて、太田は自邸の設計を藤井に任せ、また二人は茶事などを通じて交流を深めていった。本展は、そんな太田と藤井の仕事を、新発見の資料などを踏まえて、絵画と建築をクロスさせた新たな視点から紹介する。”
実際に文化博物館に行ってみると、初めに“京のまつり―京都を彩るまつりの展示”として、“祇園祭―函谷鉾(かんこほこ)の名宝”を展示していた。“このゾーンでは、京都の特色あるまつりを紹介します。特に平安時代以来、脈々と受け継がれてきた祇園祭に焦点をあて、山鉾町に伝わる数々の名品を中心に、様々な資料を展示”とあった。
さらにその前段階で、京都の町の歴史の概要の説明パネル展示もあった。知識の整理には好都合である。ほぼ平安京開設からスタート。当初は千本丸太町に宮中・大極殿を置き、真南の九条千本付近に羅城門を置いて、朱雀大路を貫いた。その後、京都はその朱雀大路の東側の左京で発展。西側は桂川等あり湿地帯だったと聞いたような気がする。左京北側の上京に貴族が住み、南側の下京に庶民が住んだ。そして、今の繁華街もその下京が元になっているようだ。火災等あり宮中御所も当初から南東へ移転。里内裏として転々、紆余曲折を経て現在の場所に落ち着いたという。平氏は鴨川を越えて六波羅に館を構え、足利氏の室町幕府は北山殿、東山殿と街域外へ出た。秀吉は聚楽第を右京側に建設。徳川もその後その近くに二条城を建設して京の市域を結果として拡げて行った。乱暴に言えば、まぁ大略こんなとこ。
“函谷鉾”を飾る絨毯や織物の展示。これらは南西アジア、ペルシャやインドでの生産物。京都の町衆の勢いが知れる。三井の原点だ。
これを見終わってようやく、太田喜二郎の洋画展示場となる。多数の作品が展示されている訳ではないが、概ね作風変化が分かるようになっている。“おとなしい性格の人にはフランス・パリより、ベルギーの方が良い”と師匠に言われたとか。私も高校選びで、同じようなことを言われたのを思い出す。まぁ分からないことではないが、それで正解かどうかは永遠に分からないこと。
大変失礼な言い方かもしれないが、取り分け全てにデッサンがしっかりしていると感じる。それをベースに光を描いている。当初留学でベルギーの先生から、印象派の点描を学び時々刻々変化する光を捉えるため、素早く描くことを求められたそうだ。サンピエール寺院の風景画3点はほぼ同じ方向から夏の朝、冬の朝、夕陽の中を描いていて、光の捉え方が興味深い。
帰国後は点描から転換するが、光の捉え方は厳しく研鑚したようだ。日本風印象派を確立した人と言って良いのではないか。“夏の昼”は大作で、既に点描から脱していて図柄に力がある。晩年の作、“雪晴れの港”は彦根市松原の風景とのこと。一見あっさり描かれているように見えるが、日本風に計算され尽くした結果なのだろう。印象派は結局こういう画風に行き着くものだろうか。
藤井厚二のブースは作品展示はできない。図面と写真と模型の展示。個人宅の図面が玄関や台所、居間等部屋の配置に注意すると面白い。二人の関係から太田の個人宅の図面もある。アトリエは2階。立ててから増築もしたようだ。
もう少し、朝日新聞大阪本社や明海ビルジングのようなビル建設の資料展示があっても良いように思った。
“聴竹居”は山崎の天王山の麓、国鉄の駅のすぐ上の広大な土地に竹藪を切り開いて建設した自分の家。“風でそよぐ竹の音を聴く家”という意味の命名。様子が分かるように丘陵の敷地全体の敷地の模型があった、丘陵敷地の一番上部に25m×6mのプールを設置し、井戸からくみ上げた水を給水、順次下へと水を流す設計になっている。テニス・コートも1面設置するという体。これでは当時は国鉄の駅も我が物顔だろう。地図で確かめると、今のサントリーの蒸留所の東側、大山崎山荘美術館より麓側。つまりJR山崎駅に一番近い便利な場所。どうやら見学会も催されているようだ。10年ほど前にサントリー見学に行ったことがあり、久しぶりなので、一度行ってみたい。
会場から出て、階下へ行くエスカレータに乗ろうとしたら、モニター受像機でその“聴竹居”を映像紹介していた。模型や図面で見るよりは、こうした実写映像の方が分かり易く有難い。床下に土管を埋め、風通しの良い庭の木陰から室内の通気口に外気を直接送り込む工夫の紹介もあった。
思わず見入っていたが、気付くと11時20分近く。慌てて昼食に向かうべく外へ出るべく席を立つ。人気店ならばもう行列ができていて、午後の研修予定に間に合わなくなる。
橋弁慶町の通りに着いて、時計をみると丁度11時半だったが、お目当て一番の店が暖簾を出しておらず、未だ開店前なのか休店なのか、とにかく残念。通りをほんの少し引き返して、“京菜味のむら・烏丸本店”に向かう。以前一度、この店の前に来たことがあるが、行列ができていた記憶がある。観光客が減っているのか、あっさり店内へ入れる。そう言えば今回も阪急電車で来たが、いつも目立つ中国人が全く目立たなかった。やはり、米中対立で経済不況へ突入しているのだろうか。観光客減少はその影響だろうか。今後、要観察だ。
店で、“1人”を告げると、坪庭に向かったカウンター席を案内される。“御一人様”にはテーブル席より気楽か。
店先に看板で示していた“おばんざいセット”を頼むと、ご飯をどうするか聞いてきたので、慌てる。ウェイトレス思わず苦笑。確か、“白米”、“雑穀”、“湯葉丼”があって、“湯葉丼”は値段が少し高くなる。折角なので“湯葉丼”を注文。するとさらに、6つの小鉢を選べと迫って来た。あっそうや、と思いつつ、20種弱の“おばんざい”を並べたショウ・ケースへ。急ぎ直感で好きなものを選ぶ。四角いお盆に並んだ“おばんざい”を持って、席に戻る。作り置きを主体として、経営的には巧く考えたものだ。どおりで朝から営業可能なのだ。
主役のご飯の登場まで、暇なので少し坪庭を眺めるが、石と白洲で良い趣き。しかし見上げると、近所の家の窓、壁で少々残念。この店の工夫の限界、当然だが仕方ない。しかしとにかく工夫は良い事。近くのカウンターに陣取る女性、スマホを見ていたので、私もスマホ。株価、この日午前は大幅値上がりで、一安心。
どうしてか、どうもガツガツと食べるスタイルとなってしまった。午後までの時間はあるにもかかわらず兎に角、夢中で食べた。まぁ間違った姿勢ではないのではないか。結果、今の私には適量、満足。
12時前に店を出られてひと安心。未だ開店前なのか休店なのか気をもんだ店の前を行くと、今度は暖簾を出していた。来たのが早過ぎと分かった。今度はまた来よう。
これで、午前の京都プチ観光は予定通り無事完結した。余った時間は、資金供給のため銀行で預金をおろし、大丸でウィンドウ・ショッピングして、午後の予定を待った。
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