The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
今週の“感想文”
11月3日の米大統領選挙については、マーケットはほぼトリプル・ブルーを前提に動いているようだ。つまり共和党カラーの赤に対して、ブルーの民主党が大統領選と上院でも勝利し、既に下院で多数党の民主党による「統合政府(unified government)」が成立すると見込んで動いている、ようだ。
だが、バイデン氏圧勝なら波乱はないようだが、接戦となればトランプ氏側が結果についてクレームをつける可能性が大きいと見込まれている。まして、郵便投票で開票結果発表が遅延するようであれば、トランプ氏側がそれを激しく問題視するだろう。否、州ごとに決まらない可能性もあり、州議会の下院で投票決着するという。このように、当選者が誰か判然としない状態が長引けば、マーケットの不安感・疑心暗鬼が広がり、株価は暴落する余地は十分にある。
株が暴落してもタカが知れている。米大統領は米軍最高司令官でもあることを忘れてはならない。司令官不在では、軍の行動力も限定されたものとなろう。そうなれば南シナ海、東シナ海は保安官不在となり、強盗団の暗躍の場となるのは必至ではないか。そうなれば大問題だ。台湾実効支配の南シナ海の太平島や、日本の尖閣諸島の中国軍の侵出奪取にはまたとない好機だ。それを中国が見過ごすハズがないではないか。
中国には既に尖閣奪取のシナリオがあると聞いた。恐らく、大量の漁船団を派遣してきて、日本側の取り締まりを事実上無能化して、島嶼に上陸し、領有の実効を宣言するというやり方だろう。
船団の背後には正規軍の艦船が控える兵力配備で、それは実施されるはずだ。日本側の巡視船の背後に自衛艦が居るのは当然として、その自衛艦の背後に米空母打撃群が控えていれば十分な防衛力を期待できるが、そうでなければなすがままの侵略となる可能性は高い。
否、米海軍にとっては台湾支援も任務である。なので太平島に対する配備も必要だ。そんな2正面態勢が築けているかどうかが問題だ。恐らく少なくとも尖閣と太平島各1個、計2個空母打撃群とその控えに1個打撃群総計3個打撃群以上は備えなければならない。そんな兵力が用意できているのだろうか。そういう点で攻めるは易く、守るは難し、と言える局面だ。果たして、どうなることやら。大混乱、必至も十分に有り得る。
一方日本の大阪では、都構想に対するは住民投票が11月1日に行われる。今回は、どうやら賛成票が伸びると見込まれており、政令指定都市・大阪は姿を消す可能性は高いようだ。それにしても、何故大阪では“府と市の二重行政”が問題になるのだろうか。地元の兵庫でも、お隣の京都でも、はたまた名古屋でも横浜、福岡、日本中のあらゆる県庁所在地で“二重行政”はそれほど大きな問題になっていない。いわゆる“二重行政”は大阪特有の問題ではないかと思われる。
そこからは府と市の利権が衝突しており、それが政治問題化したというのが真相ではないのか、と読める。どういうことか。都構想それ自体は市と府を比べれば、府に有利に働く仕組みになっている、と分かる。大阪市の税収が府に吸い上げられて、府下に薄く配分される、明らかにそういう仕掛けだと読めるのだ。現大阪市の税収が、現大阪市民の下には戻って来ない、そういう仕組みなのだ。そうなれば、バカを見るのは現大阪市民だけ。それにもかかわらず、維新の会の変な言動に惑わされて都構想に賛成するならば、無知蒙昧としか言いようがない。もうアホなのだ。
現に以前にも言ったが、世界に大きくなった基礎自治体を解体した事例はない。都市は巨大化する一方なのだ。なぜならば、それがそこに住む住民の利益だからだ。その利益を騙されて放棄するそんなアホ住民は世界に居ないのだ。
東京市は解体されても繁栄しているとの反論はあるだろう。だが、その繁栄は中央集権の首都だからこそなのだ。中央政府が見捨てずに、惜しまずに国費或いはそれに準じた予算で公共投資をせっせとやってくれるからだ。だから気付けば東京は年々便利になっていると感じる。
大阪には自立が求められるのだ。その数少ないツールが“政令指定都市制度”だったのだ。解体されれば、府に関わっていた利権保有者は伸びるだろうが、大阪市に頼っていた利権保有者は枯れるだろう。その多くは今の大阪市民自身なのだ。大阪市民自身がワザワザ枯れることを選択するのはアホヤでぇ~。
外面的には自共共闘の野合のように見え、それを維新側が攻める点だろうが、自民は理屈抜きの“利権”防衛、他党も利権やしがらみと理屈なのだろう。だが、私はその“理屈”は正しいと見ている。
大阪府民、市民ともに大阪の政治にはアキアキしている。既存の政治家に嫌気が差しているのだ。それが政治の土壌として根強くある。過去には“お笑い”出身の政治家を輩出した。だが、それは決して成功したと言えたものではなかった。むしろ最終的に悲劇的であった事例もあった。
だから、チンケな主張にすら大阪人は“何か”を期待するのだ。これこそホンモノと思い込んでいるフシがある。今や、維新の会の主張は正統派のものではないことを知るべきだ。それは何よりも、最初にそれを主張した本人が政界から身を引いている事実から分かることではないか。もし、それが正しい信念に基づいているのなら、張本人が初志貫徹するべきモノintegrityであるはずだ。それを後任の烏合衆に譲って引退した。それは“人としての真っ当な責任”を放棄している実に不誠実な振舞だ。いわば、大阪庶民の意識を読んだ権力掌握のための詐欺だったことを知るべきだ。彼にはそれをヒトラーから学んだというような発言もあったように覚えている。ヒトラーの政策には中には正しいものが部分的にあったが、全体としてその方向性は間違っていたのだ。だから世界から断罪されている。そうした全体的方向性の間違いというか詐欺内容が明らかになることを予見して最終的責任を負わないために引退したのではないか。今や引退してもなお忘れられないように、マスコミの気を引くような、チンケな発言をして、未だ余禄を稼いでいるのが実態だ。
大阪人はもっと“人”を見るべきではないか。大阪の商売人は“人”を見る伝統を忘れたのであろうか。もうアホは休み休みにしなければならない。
大阪市は解体されれば、住民の活力は減退してしまい、その後活気があった大阪は衰退の一途をたどるだろう。そうなれば、近畿圏も地盤沈下するのではないか。日本の歴史を担ってきた近畿圏が衰退すれば、日本はどうなるのか。近畿圏は首都圏と日本の両輪だから、日本全体の沈没は明確になる。これは、もう考え過ぎと言えるのだろうか。だが、それに気付いたときは手遅れになっている、世の中とはそんなものだ。
三菱重工が国産ジェット旅客機・リージョナルジェットの開発を凍結した、という。米国での型式証明が取れず、もたついている内に新型コロナ・ウィルス禍に見舞われ、航空機そのものの需要が消失してしまったのだ。
型式証明とは何か。単なるペーパーテストであり、安全技術の本質ではない、関係者はそう思っていたのではないのか。ところが、開発のプロセスそのものも問題となる。ISOの精神を知らないと、その辺の勘所が全く分からない。日本側の監督官庁や官僚、技官も、世界最先端のことが分かっていないのだろう。
米国の型式証明の取得、そんなに厳格にもかかわらず、それが取得できたボーイングの生産機体は近年、トラブルが多い。機体に搭載したリチウム電池から発火したり、737MAXは墜落事故を繰り返した。リチウム電池発火事故は、実はボーイングの採用した電気回路の問題だったにもかかわらず、型式証明は取れていた。それは日本の電池メーカーの問題ではなかった。737MAXは操縦システム・ソフトの問題があるにもかかわらず、型式証明は取れていたのだ。だから、実は米国の型式証明も内実は大したことがなく、係官への袖の下も含めてどこかに勘所があるはずなのだ。それが現代航空機開発ノウハウの重要な一部なのだ。日本はそれを軽視しすぎた。
YS11の開発が終わって以降、日本は弛んだまま世界最先端から立ち遅れてしまったのではないか。自動車産業が世界トップになって、その後、製造業の何を世界最先端に育てるかを考えるのに緊張が緩んでしまったのだ。航空機産業は裾野が自動車より遥かに広いし、深いのでその後の製造業育成には不可欠だったはずだ。
ところがYS11の製造は結果的に経営赤字に陥り、黒字転換は無理と判断され、1971年4月には生産中止が決定された。そのためYS11の開発が終わって以降、ジェット旅客機生産意欲は失われたと言う。だが、本来はその赤字の原因を探り、遅くとも80年代にはジェット旅客機の設計・開発を開始するべきだった。遅くとも90年代には反省が終わっているべきだったが、その90年代には、日本の金融体制の見直しと、製造業の3つの過剰の清算に悩まされていたのではなかったろうか。それらに気を取られている間に日本の製造業の革新は無くなったのだ。三菱リージョナルジェットの発端は、2002年に経済産業省が発表した30~50席クラスの小型ジェット機開発案だというが、如何にも遅い。世界のIT化の動きにも立ち遅れて、この時間の取り返しは付くはずがない。
だが、この期に及んで“完全に手を引いた訳ではない。”と政府方針に背く気はないというのが官制・三菱重工意向のようだ。既に投じた資金は莫大で、国費も相当費消している。だが、それは既にサンク・コストで取り返しは付かない。早々に手を引かなければ、それは会社本体経営に響く大問題となる可能性は高い。“重工”には他にも苦境の事業ばかり、火力発電、原発、客船建造等々多数の問題を抱えているので、早急な整理が必要だろう。“重工”は“三菱”の看板会社で、日本株式会社の代表、そこが怪しいとなると日本も終わる。遅いうえに、優柔不断、これではどんどん遅れる。
“どうしても初志貫徹”というのならば、ブラジルの航空機メーカー・エンブラエルEmbraerか、カナダのボンバルディアBombardier Aerospaceを買収することしかあるまい。時間を金で買うのだ。型式証明取得のノウハウは日本の中には既に無く、自力でやるのは時間と資金の浪費なのだ。買収という政府を挙げての覚悟が無ければ止めた方が良いと考える。
これも20~30年前の判断ミスが響いている一例なのだ。今や大きなツケとなっている。気付いた時はもはや手遅れなのだ。
どうでもエエ話だが、先週のNHK・BSシネマでは、“ボディガード”(1992)と“慕情”(1955)を見た。“慕情”は個人的には重要な気付きを与えてくれた。
“ボディガード”では、ホイットニー・ヒューストンが、自身を彷彿させるスター歌手レイチェルを演じた。その警護役のフランクはケビン・コスナーが演じている。W・ヒューストンが歌っていたのは、カントリー・ソングだったとは全く知らなかった。
“慕情Love Is a Many-Splendored Thing”は1955年公開の香港を舞台にした米映画だったが、確か1965年頃にリバイバルで話題になっていたと記憶している。その時聞いたテーマ曲のメロディが耳に残っていて離れない、正に名曲だ。だが何故だか映画は、これまで見る機会が無く残念に思っていたので、ここぞとBSを見た。65年のリバイバル当時、“素晴らしい恋愛映画”だという評論ばかりだったように覚えていたので、そういう意識で見たが、実はそんな甘い表面的ストーリーではないことがベースにあることを思い知ったのだ。
主人公ハン・スーインは中国とヨーロッパのハーフの女性。教育は欧米流だったが、考え方や文化は中国人のものを受け入れていて、そこにこそパーソナリティがあることを自覚し、自己を確立させながら育ってきた。今や香港の大病院での勤務医。だがバツイチ。夫は国民党将校で内戦で戦死。それが、米人記者の猛攻により恋に落ちる。映画では、その中での記者との会話のレベルが高く、当意即妙で面白い。中国人の親族と別れてでも、米人記者との結婚をと決意したが、肝心のその記者は朝鮮戦争の従軍記者に派遣されて、戦場で死亡するという悲恋物語だ。それでもなおスーインは中国人の幼い戦災孤児を引受けて生きて行こうとしている。
後から、ネットで映画解説を読んでこれが実話に基づいていることを知った。戦争直後の香港の光景もよく描かれていたように思う。今のような近代的ビルが立ち並ぶ都市ではなく、海には貧しいジャンクがまだまだ多数あった。
印象的なのは主人公が、勤務先の病院から馘首された際、同僚だった男性医師に中国本土に戻ろうと誘われ、断ると“それは民族を裏切る行為だ。”と非難されるシーンだ。しかしスーインは決然と“ならば、何故毎日3千人の中国人が香港に逃げ込んで来るのか。”と事実を挙げて反論するのだった。時として、人は政治的な事件に巻き込まれる判断を下さなければならない場合がある。その時に適切な判断を下さなければ、人生を大きく狂わせる場合があるものだ。
今となってはスーインの判断は全く正しいものと分かるが、当時は“共産主義”には“正義”があるとの見方もあり、簡単に判断できない側面があったことを知るべきだ。戦災孤児を引受けたにもかかわらず、結婚を考えた相手が亡くなってしまったという、明らかに困難な人生を目の前にしてなお、その時代に正しい判断を下すには、日頃から正しいものの見方を研鑽しておかなければならないことを示していたように思ったのだ。その点で英語の原題は意味深長だ。
正しい判断のためには、スーインのようにベースとなる教養が必要なのだ。“磨け!真実を見抜く力!”なのだ。それは生涯の研鑽である。親愛なる大阪人ヨ!くれぐれも誤った選択を下すべきではない、と言いたいのだ。今誤れば、30年後には不幸がやって来るのだ。それからでは遅いのだ!米国ではオバマ氏も同じことを演説している。
以上が今週の、私が思っていた事柄だが、良い話は無かったように感じる。今週は少々短いが、ここらでご勘弁願いたい。

だが、バイデン氏圧勝なら波乱はないようだが、接戦となればトランプ氏側が結果についてクレームをつける可能性が大きいと見込まれている。まして、郵便投票で開票結果発表が遅延するようであれば、トランプ氏側がそれを激しく問題視するだろう。否、州ごとに決まらない可能性もあり、州議会の下院で投票決着するという。このように、当選者が誰か判然としない状態が長引けば、マーケットの不安感・疑心暗鬼が広がり、株価は暴落する余地は十分にある。
株が暴落してもタカが知れている。米大統領は米軍最高司令官でもあることを忘れてはならない。司令官不在では、軍の行動力も限定されたものとなろう。そうなれば南シナ海、東シナ海は保安官不在となり、強盗団の暗躍の場となるのは必至ではないか。そうなれば大問題だ。台湾実効支配の南シナ海の太平島や、日本の尖閣諸島の中国軍の侵出奪取にはまたとない好機だ。それを中国が見過ごすハズがないではないか。
中国には既に尖閣奪取のシナリオがあると聞いた。恐らく、大量の漁船団を派遣してきて、日本側の取り締まりを事実上無能化して、島嶼に上陸し、領有の実効を宣言するというやり方だろう。
船団の背後には正規軍の艦船が控える兵力配備で、それは実施されるはずだ。日本側の巡視船の背後に自衛艦が居るのは当然として、その自衛艦の背後に米空母打撃群が控えていれば十分な防衛力を期待できるが、そうでなければなすがままの侵略となる可能性は高い。
否、米海軍にとっては台湾支援も任務である。なので太平島に対する配備も必要だ。そんな2正面態勢が築けているかどうかが問題だ。恐らく少なくとも尖閣と太平島各1個、計2個空母打撃群とその控えに1個打撃群総計3個打撃群以上は備えなければならない。そんな兵力が用意できているのだろうか。そういう点で攻めるは易く、守るは難し、と言える局面だ。果たして、どうなることやら。大混乱、必至も十分に有り得る。
一方日本の大阪では、都構想に対するは住民投票が11月1日に行われる。今回は、どうやら賛成票が伸びると見込まれており、政令指定都市・大阪は姿を消す可能性は高いようだ。それにしても、何故大阪では“府と市の二重行政”が問題になるのだろうか。地元の兵庫でも、お隣の京都でも、はたまた名古屋でも横浜、福岡、日本中のあらゆる県庁所在地で“二重行政”はそれほど大きな問題になっていない。いわゆる“二重行政”は大阪特有の問題ではないかと思われる。
そこからは府と市の利権が衝突しており、それが政治問題化したというのが真相ではないのか、と読める。どういうことか。都構想それ自体は市と府を比べれば、府に有利に働く仕組みになっている、と分かる。大阪市の税収が府に吸い上げられて、府下に薄く配分される、明らかにそういう仕掛けだと読めるのだ。現大阪市の税収が、現大阪市民の下には戻って来ない、そういう仕組みなのだ。そうなれば、バカを見るのは現大阪市民だけ。それにもかかわらず、維新の会の変な言動に惑わされて都構想に賛成するならば、無知蒙昧としか言いようがない。もうアホなのだ。
現に以前にも言ったが、世界に大きくなった基礎自治体を解体した事例はない。都市は巨大化する一方なのだ。なぜならば、それがそこに住む住民の利益だからだ。その利益を騙されて放棄するそんなアホ住民は世界に居ないのだ。
東京市は解体されても繁栄しているとの反論はあるだろう。だが、その繁栄は中央集権の首都だからこそなのだ。中央政府が見捨てずに、惜しまずに国費或いはそれに準じた予算で公共投資をせっせとやってくれるからだ。だから気付けば東京は年々便利になっていると感じる。
大阪には自立が求められるのだ。その数少ないツールが“政令指定都市制度”だったのだ。解体されれば、府に関わっていた利権保有者は伸びるだろうが、大阪市に頼っていた利権保有者は枯れるだろう。その多くは今の大阪市民自身なのだ。大阪市民自身がワザワザ枯れることを選択するのはアホヤでぇ~。
外面的には自共共闘の野合のように見え、それを維新側が攻める点だろうが、自民は理屈抜きの“利権”防衛、他党も利権やしがらみと理屈なのだろう。だが、私はその“理屈”は正しいと見ている。
大阪府民、市民ともに大阪の政治にはアキアキしている。既存の政治家に嫌気が差しているのだ。それが政治の土壌として根強くある。過去には“お笑い”出身の政治家を輩出した。だが、それは決して成功したと言えたものではなかった。むしろ最終的に悲劇的であった事例もあった。
だから、チンケな主張にすら大阪人は“何か”を期待するのだ。これこそホンモノと思い込んでいるフシがある。今や、維新の会の主張は正統派のものではないことを知るべきだ。それは何よりも、最初にそれを主張した本人が政界から身を引いている事実から分かることではないか。もし、それが正しい信念に基づいているのなら、張本人が初志貫徹するべきモノintegrityであるはずだ。それを後任の烏合衆に譲って引退した。それは“人としての真っ当な責任”を放棄している実に不誠実な振舞だ。いわば、大阪庶民の意識を読んだ権力掌握のための詐欺だったことを知るべきだ。彼にはそれをヒトラーから学んだというような発言もあったように覚えている。ヒトラーの政策には中には正しいものが部分的にあったが、全体としてその方向性は間違っていたのだ。だから世界から断罪されている。そうした全体的方向性の間違いというか詐欺内容が明らかになることを予見して最終的責任を負わないために引退したのではないか。今や引退してもなお忘れられないように、マスコミの気を引くような、チンケな発言をして、未だ余禄を稼いでいるのが実態だ。
大阪人はもっと“人”を見るべきではないか。大阪の商売人は“人”を見る伝統を忘れたのであろうか。もうアホは休み休みにしなければならない。
大阪市は解体されれば、住民の活力は減退してしまい、その後活気があった大阪は衰退の一途をたどるだろう。そうなれば、近畿圏も地盤沈下するのではないか。日本の歴史を担ってきた近畿圏が衰退すれば、日本はどうなるのか。近畿圏は首都圏と日本の両輪だから、日本全体の沈没は明確になる。これは、もう考え過ぎと言えるのだろうか。だが、それに気付いたときは手遅れになっている、世の中とはそんなものだ。
三菱重工が国産ジェット旅客機・リージョナルジェットの開発を凍結した、という。米国での型式証明が取れず、もたついている内に新型コロナ・ウィルス禍に見舞われ、航空機そのものの需要が消失してしまったのだ。
型式証明とは何か。単なるペーパーテストであり、安全技術の本質ではない、関係者はそう思っていたのではないのか。ところが、開発のプロセスそのものも問題となる。ISOの精神を知らないと、その辺の勘所が全く分からない。日本側の監督官庁や官僚、技官も、世界最先端のことが分かっていないのだろう。
米国の型式証明の取得、そんなに厳格にもかかわらず、それが取得できたボーイングの生産機体は近年、トラブルが多い。機体に搭載したリチウム電池から発火したり、737MAXは墜落事故を繰り返した。リチウム電池発火事故は、実はボーイングの採用した電気回路の問題だったにもかかわらず、型式証明は取れていた。それは日本の電池メーカーの問題ではなかった。737MAXは操縦システム・ソフトの問題があるにもかかわらず、型式証明は取れていたのだ。だから、実は米国の型式証明も内実は大したことがなく、係官への袖の下も含めてどこかに勘所があるはずなのだ。それが現代航空機開発ノウハウの重要な一部なのだ。日本はそれを軽視しすぎた。
YS11の開発が終わって以降、日本は弛んだまま世界最先端から立ち遅れてしまったのではないか。自動車産業が世界トップになって、その後、製造業の何を世界最先端に育てるかを考えるのに緊張が緩んでしまったのだ。航空機産業は裾野が自動車より遥かに広いし、深いのでその後の製造業育成には不可欠だったはずだ。
ところがYS11の製造は結果的に経営赤字に陥り、黒字転換は無理と判断され、1971年4月には生産中止が決定された。そのためYS11の開発が終わって以降、ジェット旅客機生産意欲は失われたと言う。だが、本来はその赤字の原因を探り、遅くとも80年代にはジェット旅客機の設計・開発を開始するべきだった。遅くとも90年代には反省が終わっているべきだったが、その90年代には、日本の金融体制の見直しと、製造業の3つの過剰の清算に悩まされていたのではなかったろうか。それらに気を取られている間に日本の製造業の革新は無くなったのだ。三菱リージョナルジェットの発端は、2002年に経済産業省が発表した30~50席クラスの小型ジェット機開発案だというが、如何にも遅い。世界のIT化の動きにも立ち遅れて、この時間の取り返しは付くはずがない。
だが、この期に及んで“完全に手を引いた訳ではない。”と政府方針に背く気はないというのが官制・三菱重工意向のようだ。既に投じた資金は莫大で、国費も相当費消している。だが、それは既にサンク・コストで取り返しは付かない。早々に手を引かなければ、それは会社本体経営に響く大問題となる可能性は高い。“重工”には他にも苦境の事業ばかり、火力発電、原発、客船建造等々多数の問題を抱えているので、早急な整理が必要だろう。“重工”は“三菱”の看板会社で、日本株式会社の代表、そこが怪しいとなると日本も終わる。遅いうえに、優柔不断、これではどんどん遅れる。
“どうしても初志貫徹”というのならば、ブラジルの航空機メーカー・エンブラエルEmbraerか、カナダのボンバルディアBombardier Aerospaceを買収することしかあるまい。時間を金で買うのだ。型式証明取得のノウハウは日本の中には既に無く、自力でやるのは時間と資金の浪費なのだ。買収という政府を挙げての覚悟が無ければ止めた方が良いと考える。
これも20~30年前の判断ミスが響いている一例なのだ。今や大きなツケとなっている。気付いた時はもはや手遅れなのだ。
どうでもエエ話だが、先週のNHK・BSシネマでは、“ボディガード”(1992)と“慕情”(1955)を見た。“慕情”は個人的には重要な気付きを与えてくれた。
“ボディガード”では、ホイットニー・ヒューストンが、自身を彷彿させるスター歌手レイチェルを演じた。その警護役のフランクはケビン・コスナーが演じている。W・ヒューストンが歌っていたのは、カントリー・ソングだったとは全く知らなかった。
“慕情Love Is a Many-Splendored Thing”は1955年公開の香港を舞台にした米映画だったが、確か1965年頃にリバイバルで話題になっていたと記憶している。その時聞いたテーマ曲のメロディが耳に残っていて離れない、正に名曲だ。だが何故だか映画は、これまで見る機会が無く残念に思っていたので、ここぞとBSを見た。65年のリバイバル当時、“素晴らしい恋愛映画”だという評論ばかりだったように覚えていたので、そういう意識で見たが、実はそんな甘い表面的ストーリーではないことがベースにあることを思い知ったのだ。
主人公ハン・スーインは中国とヨーロッパのハーフの女性。教育は欧米流だったが、考え方や文化は中国人のものを受け入れていて、そこにこそパーソナリティがあることを自覚し、自己を確立させながら育ってきた。今や香港の大病院での勤務医。だがバツイチ。夫は国民党将校で内戦で戦死。それが、米人記者の猛攻により恋に落ちる。映画では、その中での記者との会話のレベルが高く、当意即妙で面白い。中国人の親族と別れてでも、米人記者との結婚をと決意したが、肝心のその記者は朝鮮戦争の従軍記者に派遣されて、戦場で死亡するという悲恋物語だ。それでもなおスーインは中国人の幼い戦災孤児を引受けて生きて行こうとしている。
後から、ネットで映画解説を読んでこれが実話に基づいていることを知った。戦争直後の香港の光景もよく描かれていたように思う。今のような近代的ビルが立ち並ぶ都市ではなく、海には貧しいジャンクがまだまだ多数あった。
印象的なのは主人公が、勤務先の病院から馘首された際、同僚だった男性医師に中国本土に戻ろうと誘われ、断ると“それは民族を裏切る行為だ。”と非難されるシーンだ。しかしスーインは決然と“ならば、何故毎日3千人の中国人が香港に逃げ込んで来るのか。”と事実を挙げて反論するのだった。時として、人は政治的な事件に巻き込まれる判断を下さなければならない場合がある。その時に適切な判断を下さなければ、人生を大きく狂わせる場合があるものだ。
今となってはスーインの判断は全く正しいものと分かるが、当時は“共産主義”には“正義”があるとの見方もあり、簡単に判断できない側面があったことを知るべきだ。戦災孤児を引受けたにもかかわらず、結婚を考えた相手が亡くなってしまったという、明らかに困難な人生を目の前にしてなお、その時代に正しい判断を下すには、日頃から正しいものの見方を研鑽しておかなければならないことを示していたように思ったのだ。その点で英語の原題は意味深長だ。
正しい判断のためには、スーインのようにベースとなる教養が必要なのだ。“磨け!真実を見抜く力!”なのだ。それは生涯の研鑽である。親愛なる大阪人ヨ!くれぐれも誤った選択を下すべきではない、と言いたいのだ。今誤れば、30年後には不幸がやって来るのだ。それからでは遅いのだ!米国ではオバマ氏も同じことを演説している。
以上が今週の、私が思っていた事柄だが、良い話は無かったように感じる。今週は少々短いが、ここらでご勘弁願いたい。

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