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最近見たレンタルDVD3作品

いつもはGWで見るものだが先週、レンタルDVDで3つの映画を見た。それは次の通り。
・ウルフ・オブ・ウォールストリートThe Wolf of Wall Street (2013年)米,マーティン・スコセッシ監督,レオナルド・ディカプリオ
・フューリーFury(2014年)米,デヴィッド・エアー監督,ブラッド・ピット
・ウォルト・ディズニーの約束Saving Mr. Banks (2013年)米・英・豪,ジョン・リー・ハンコック監督,エマ・トンプソン,トム・ハンクス

この内で一番面白かったのは、“ウルフ・オブ・ウォールストリート”だ。セックスと麻薬と札束にまみれる酒池肉林・乱痴気シーンや、社員にがなり立てるような演説をして興奮と陶酔のルツボにさせる場面が多い。また、主人公の妻・ナオミ役の マーゴット・ロビーはオーストラリア出身の女優らしいが極め付けの美人だ。これがアメリカン・ドリーム実現の新興ビジネスマン富裕層の一面であろうか。
ジョーダン・ロス・ベルフォート(Jordan Ross Belfort; 1962年7月9日 ~)という現存する実在人物の回想録『ウォール街狂乱日記 「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生The wolf of Wall Street』を原作とした実話とは知らなかった。しかし麻薬の後遺症に関しての表現が不足しており少々問題あるのではないかとの印象がある。御本人の薬物中毒は現在大丈夫なのだろうか。
ネット(紀伊国屋書店)には、ベルフォートは、“国際モチベーショナル・スピーカー、元株のブローカー。1962年、アメリカ・ニューヨーク出身。投資銀行LFロスチャイルドにてストックブローカーとしてのキャリアをスタートさせる(が、1987年10月19日のブラックマンデーで解雇される。手数料の高いペニー株[ベンチャー企業などの株。ボロ株]の売買を知り、証券会社ストラットン・オークモント社を設立。*)年間5000万ドル以上稼ぎ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート(ウォール街の狼)」との異名をとった。のちに、証券詐欺とマネーロンダリングの罪で起訴され、22カ月間服役。現在は多額の賠償金を返済しながら、経営コンサルタント、セミナー講師として活動中”とある。(*筆者追加修正)
詐欺事件等のからくりは、この映画では全くよくわからない。日本でも2冊の本が翻訳刊行されているので読んでみると面白いのかもしれない。特に、“ウォール街の狼が明かすヤバすぎる成功法則”に書かれているという“どこからでも這い上がれる最高のサクセスツール「ストレートライン・システム」”とはどういうものだろうか。そこにモチベーショナル・スピーカーの真髄があるのだろうか。
映画のラスト・シーンでは収監後釈放された主人公がニュージーランドでセミナー講師として登場し それまでの主人公の姿との落差に驚かされる。そこでは聴衆の1人ひとりに手持ちのペンを示して、“これを私に売ってみてくれ。”と問いかけている。この問いかけへの正解は、この映画の前半の主人公が証券会社を設立するためにメンバーを募る場面に出ている。つまり、買い手に売ろうとするモノの必要性を瞬間的に感じさせその場で買わせるための極意を示している。いわば、株屋の話であって株屋の話ではないのだ。

“フューリー”は第二次大戦のドイツ本土へ攻め込む米軍戦車小隊隊長の話で、主張しなければならない新たなテーマがあるのかと思って見たのだが、特にそういったものは無い印象で何故今この映画なのか、良く理解できない。だが前半では、戦争がいかにむごい悲惨なもので、いかにはなはだしく人心を荒廃させるものかを表現している。
ただ、1台だけ現存する本物のドイツのティゲールTiger戦車を使って戦闘シーンを撮ったということのようだ。4台いた仲間の戦車(M4シャーマン戦車:大戦期後半の米主力戦車)が3台も瞬く間に撃破されるシーンは迫力がある。特に、シャーマン戦車の砲塔がぶっ飛ばされるのはただただすごい。実際もあんな風に破壊されるものだろうか。
ところで、映画の標題“フューリーFury”は主人公の乗る戦車の名前でその砲身に白く書かれていたが、“激怒,憤激”の意味のようだ。しかしそれで映画にして何を訴えたいのか理解できず、少々戸惑っている。

ここで、ちょっと難しいのは“ウォルト・ディズニーの約束”だった。“メリー・ポピンズ”を実写で映画化しようとするウォルト・ディズニーとディズニー・テイストを嫌う原作者の葛藤を描いていて、それを乗り越えてついにディズニー映画らしくハッピー・エンドで終わるのだが 真相はどうやらそう簡単な話ではないようだ。

この映画はウォルト氏の娘が幼い頃愛読していた“メリー・ポピンズ”を映画化して欲しいとの約束を20年もかけて果たして行くプロセスの映画である。だから映画の標題が“約束”となっているのだと了解できる。
ところが、“メリー・ポピンズ”の原作者は気難しいパメラ・リンドン・トラバース夫人で、基本的に“何でも明るくまとめる”ディズニー映画のテイストに反発し、それでは子供達に“メリー・ポピンズ”の本質が伝わらないとの懸念を抱いていて、映画化の障害となっていたのだ。ところがやがて、この夫人自身も作家活動でスランプに陥り新作が出ず、収入が乏しくなり自宅も手放さなければならない懸念が出て来ていた。原作権利収入を得るべく代理人に説得されてディズニーの本拠地ロサンゼルスに出かける。冒頭のロンドンのトラバース夫人の自宅からロサンゼルスのホテルに投宿するシーン全てが、夫人の気難しさを示す発言満載で、見ている私も気が滅入るほどである。

トラバース夫人がロサンゼルスのホテルに投宿した時たまたまテレビ・スイッチを入れるのだが、そこにウォルト・ディズニーが登場する。それは私が子供の頃毎週金曜日の夜に白黒テレビで放映していた番組・ディズニー・ランドの冒頭を想起させるシーンであった。これから始まる番組の内容をウォルト氏自身が書斎とおぼしき場面で紹介するシーンと同じようだったが、登場した人物はウォルト氏ではない。残念!一体誰か、そうか、これは映画の1シーンでウォルト役のトム・ハンクスだったと分かるまでに少し時間が必要だった。しかし、さすが名優トム・ハンクスだ。違和感があったのはそのシーンだけで、その後の立ち居振る舞いはウォルト・ディズニーそのもので自然に感じた。

ロサンゼルス到着後、トラバース夫人はとりあえずウォルト・ディズニーに会いに行き、映画化の契約書への署名はペンディングにしたまま、実際の映画制作者や作曲家との打ち合わせに入って行く。しかし“メリー・ポピンズ”の映画も見ておらず まして原作も読んでいない私には、この映画のエピソード・シーンには、深く理解できない部分が多々あった。(特にペンギンと踊り歌うシーンを夫人は動画にするのを強く拒否していたが、どうしてペンギン登場なのか私は知らない。)しかし、ウォルト・ディズニーは映画プロデューサーとして気難しい原作者をあの手この手となだめすかして納得させ、何とか皆をハッピーにさせて映画“メリー・ポピンズ”を完成させる。この映画“約束”では、トラバース夫人も“メリー・ポピンズ”が完成する頃にはスランプから脱し、新しい“メリー・ポピンズのお料理教室”の出版の準備に追われ、ロサンゼルスでの“メリー・ポピンズ”の完成試写会には招待されていないにもかかわらず、明るく喜んで駆けつけ試写を見て涙している。まるで人が変わったように描かれていて、ウォルトの魔法にかかったかのようだ。さすがビジネス・プロデューサーとしてもプロのウォルト・ディズニーなのだと、見終わって単純に感激したものだった。本来、この映画を見終わった感想としてはそれで良かったのであろう。

しかし、実はこの映画の原題は、“Saving Mr. Banks”となっている。さてMr. Banksとは誰か。“メリー・ポピンズ”を全く知らない私には難しい問いだが、ネットで調べて直ぐにメリー・ポピンズがベビー・シッターとして加わった一家の主人であり、謹厳な銀行員だと分かった。そして、どうもこのバンクス氏をトラバース夫人は自身の父親になぞらえているらしいことも分かったのだ。実は、この映画では度々トラバース夫人の子供の頃の主に父親との思い出のフラッシュ・バック場面が多々出てくる。トラバース夫人は少女時代父親に非常に可愛がられたが、銀行員としては上手く行かずついに解雇され、それが原因かアル中のようになって健康を害し、若くして亡くなってしまう、つらく悲しい年少時の思い出である。そしてその思い出シーンで父親が亡くなる寸前、母親も自殺を考える程生活のきりもり不能となり、その支援におばさんが登場し一家の窮状を救う。この映画ではその姿を“メリー・ポピンズ”そっくりにして、そのモデルであることを示唆している。
さて、ではこの“Saving Mr. Banks”とはどういう意味なのか。若くして思いを遂げずに亡くなった夫人の父親を追悼することであろうか。この映画ではウォルト氏がトラヴァース夫人が不幸な少女時代を送ったことを知り、ウォルト氏は父親に厳しく育てられ自身も少年時不幸だったことを明かし、夫人に“哀しい思い出を抱き続けて生きていくのは辛いことだ。でもそれはもう終わりにしよう。”と心のわだかまりを解こうとする。そして“メリー・ポピンズ”では、ラストは解雇されたバンクス氏が銀行に重役として復帰するハッピー・エンドとした、ということのようだ。しかし、どうやら原作の8作の“メリー・ポピンズ”シリーズ(内日本語翻訳は4作品のみ)にはいずれもそのような場面はないようで、ディズニー映画のハッピー・エンドのように思える。

果たしてトラバース夫人にとって映画“メリー・ポピンズ”の制作で父親への哀悼になったのであろうか。基本的に“何でも明るくまとめる”ディズニー映画のテイストでは“メリー・ポピンズ”の本質が伝わらないと思っていた夫人は実際はどう思ったのだろう。人は過去の不幸にどのように向き合うべきなのか、脚色してでも明るく終わらせてしまうウォルト氏が良いのか、過去にそのまま向き合い哀しみ続けるトラバース夫人が良いのか、どうなのだろうか。ウソ話は良くないのだろうが、仏陀は幼子を亡くして哀しむ若い母親に過去は戻らないと言って慰めていたはずだ。
この映画では、“メリー・ポピンズ”が仕上がった頃に、トラバース夫人はスランプから脱し“メリー・ポピンズのお料理教室”を刊行するまでになっているが、この本の出版は1975年であり映画“メリー・ポピンズ”は1964年の公開となっていて、時期がずれている。事実ではあっても実際は少し異なるカットをそっと挿入している巧妙さは、いかがなものか。
またトラバース夫人が亡くなり異議を申し立てられなくなってから、ディズニーの後継者が“何でも明るくまとめる”映画を作ったことは真に夫人を追悼することになるのだろうか。否、私がこの映画を見て当初感じたようにディズニー映画の素晴らしさを商業的にPRしようとしたものだろうか。
それにしても、このDVDケースのデザインは映画ポスターにもなったのだろうか、秀逸である。というのは左にウォルト氏、右にトラバース夫人が立ちこちらへ向かって来る図柄だが、その2人の影がそれぞれ、ミッキーとメリー・ポピンズになっていて実に意味深長である。
ネット上で映画の背景を調べてみると当初の印象とはかなり違った実相が分かって来て難解な映画だったと感じてた。

この記事に3作品の感想を一挙に盛り込んでしまい大変申し訳ありません。いつものように思わず饒舌、テンコ盛り。誤解している部分があるかも知れないが思い込みも含めて私の心象風景を正直に載せると こういうことになってしまって、スミマセン。“イャー、やっぱり映画はいいですネ。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ・・・”次は何を見ョーかな。SFかなぁー・・・・

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