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首相の米議会演説

先週、安倍首相が米議会上下両院の合同会議で演説を行いどういう内容になるのか注目して実際にテレビ中継を見たが、聞くに耐えない英語であり、見るに耐えない手振り、身振りであった。しかし本来内容に注目していたので深夜の小一時間我慢して注視傾聴したが、ついに何ら感銘を受ける内容も言葉もなく、歯の浮く米国礼賛の修辞に満ちた対米隷属の語り口で終わった。これでは、史上初のセレモニーも台無しであり、非常に恥ずかしい印象を受けた。
同行した夫人が、演説の内容に聞き飽きたとして練習をしていた首相とは別の部屋で寝たというのも、十分にうなづけるものであった。

英語は私も全く得意ではなく海外での生活の経験もついに持てていないが、安倍氏は米国での留学・生活の経験もあるはずなのでもっとできるものと思っていたが、あの程度であったのは非常に驚きである。
ネットによれば、“1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学*への入学許可が出され1978年に入学。政治学を専攻し春・夏・秋学期を履修した後、1979年に中退したとされる。ただし南カリフォルニア大学の広報部によると、安倍が同大学で取得したコースの中に政治学は含まれていないという。この点について、安倍事務所は「政治学は履修したが、途中でドロップアウトしたため、記録が残っていないだけ」とコメントしている。”とある。どうやらまる2年のお勉強。
その後、“1979年(昭和54年)4月に帰国し、神戸製鋼に入社。ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した。”とあり、その後“神戸製鋼に3年間勤務”とされているので、恐らく少なくとも計3年弱もの滞米経験があるということだろう。それにもかかわらず高校生の日常会話程度の英語力というのは、何ともしがたい印象だ。

*南カリフォルニア大学は、映画芸術学部が世界的に有名でジョージ・ルーカス ロバート・ゼメキス ロン・ハワード ブライアン・シンガー ジョン・カーペンターなどの著名な監督を輩出した全米最古のフィルムスクールである。この大学でわざわざ“政治学”を学ぶのにどんな意義があったのであろうか。まさにお坊ちゃまの“遊学”だったのだろうか。

さて、表現力についてはともかく歴史に残る演説とするためには、その内容とそれを象徴する言葉が重要だが、その点でどうであったろうか。あの演説での肝は何であったのか。
ネット上の産経ニュースによれば、“題名は「希望の同盟へ」。戦後70年の節目に、敵対国から同盟関係となった日米の「心の紐帯(ちゅうたい)」を訴え、日米同盟の発展が世界の平和と安定に貢献するという「未来志向」の考えを前面に打ち出した。/ 演説で首相は、強圧的な海洋進出を図る中国を念頭に「太平洋からインド洋にかけての広い海を、自由で法の支配が貫徹する平和の海にしなければならない」と訴えた。同時に集団的自衛権の行使容認を含む安全保障法制について「夏までに成就させる」と約束。/ 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉については「経済的利益を超えた長期的な安全保障上の大きな意義がある」として、交渉合意に不可欠とされる米国の大統領貿易促進権限(TPA)法案の成立と交渉妥結に協力を呼びかけた。/ 先の大戦については「戦後の日本は痛切な反省を胸に歩みを刻んだ。アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない」と言及。ただ、韓国が戦後70年の安倍首相談話に求める「侵略」「植民地支配」「お詫(わ)び」の文言は使用しなかった。”と要約している。

安倍首相は、欧米ではウルトラ・ナショナリストとして評価され、一部では嫌悪さえ感じられているようだ。したがい恐らく、それをある程度払拭する意図もあったかも知れない。しかし、そういったことには一切触れず回避してつまらない美辞麗句で対米隷従の国際的表明となってしまった。恥ずかしい限りである。
普通このような状況では、それを“誤解”として解くための言葉を用意するものだろう。例えば2013年12月26日の靖国参拝の真意とその背景にある信条を、心を打つ名文で表明するべきだったと強く思う。もしその信条に寸毫も邪心や虚偽がないならば、そして普遍的な社会正義に反していなければ、その前提から説き起こせば、そこにこそある“誤解を恐れず、連帯を求める”真摯な姿勢に少なからずの米国、否世界の人々の琴線に触れることが可能だったと思うのだ。まさに、安倍首相が小泉元首相と交わした“信なくば、立たず”の言葉の実践である。そして政治家として立っているのならば、特に欧米社会から“誤解”を受けていることを承知しているのならば、日本の代表として首相として米国の議場演壇に立つ千載一遇の機会に必ずその“誤解”を解くのが“義務”ではなかったのか。

そればかりではない。折からニュー・ヨークで開催されている核拡散防止条約の再検討会議に絡めて、姜尚中教授は戦時中の広島・長崎への原爆投下に触れなかったのを問題にしていた。安倍氏がナショナリストであるならば触れるべき問題ではないのか、と。確かにあれは明らかにジェノサイドであり“人道に対する罪”である。しかも米国は原爆投下の効果について日本人で人体実験したのは歴史的事実である。戦後、米国は効果確認のため被爆者を治療することはなかったのは紛れもない事実だった。

米国に言うべきことは決然として申し述べる。それが“確かな国家観を持った者”の為すべきことではなかったか。言うべきことを言うべき時に主張し、その上で初めて“恩讐を越えて”協力するのが“真の友”の為すべきことではないか。
それにもかかわらず、安倍氏はその“義務”を回避してしまった。彼には、自らの信条を語る論理がないのではないか。だから千載一遇の機会からわざわざ“逃げた”のだ。そして、つまらない対米隷属の演説を行った。
これを“永続敗戦論”の白井聡氏は新聞紙上で“背景には、米側が示した首相の歴史認識に対する懸念がある。首
相は、もはや政策だけでなく歴史認識においても、米側の意向を忖度せずに発言することはできないことを自ら示した。対米隷属の態度を内外に表明し続けることで、安倍首相は自らの身動きと思考を封じている。”と見透かした。
つまり、自らのかつての言葉“戦後レジームからの脱却”とは裏腹の、対米隷属の“戦後レジームの強化”へと演説を仕上げたのである。このパフォーマンスを日本の民族派・右派の人々は何と評価するのであろうか。否、あの靖国参拝は一体何のためであったのか。“あの、痛恨の極み”と言わしめたのは、一体何であったのか。この人の信条は那辺に在りや。“信なくば、立たず”は“ウソの極み”であったのか。彼は“平気でウソをつく人”なのであろうか。

また、こういう論理展開をどれほどの報道が解説したであろうか。ここで指摘したようなキィ・ワードを外して無味乾燥の“解説”を繰り返すばかりではないか。骨のある言論人はほとんど全て死に絶えたのが、日本の実情と思って良いのではないか。
我々はこのような情けない政治家を代表として選んでいることを恥じなければならない。それを良いことに米国はその国益実現に彼を利用しているのだ。こういう安倍氏を、日本の真の民族派・右派の人々は何と呼称するべきなのだろうか。
演説後、米国のバイデン副大統領が日本のマスコミのインタビューにわざわざ応じて真剣な表情で“良かった。”と言っていた。これを見て何だか、事前に演説原稿を検閲して添削した結果のような印象を持ってしまったが、考え過ぎだろうか。

では一体、安倍氏は何をしたいのであろうか。対米隷従にどんな正義や国益があるのだろうか。南シナ海での中国の覇権に対抗して自衛隊を派遣することでどんな国益を守ろうとしているのだろうか。南シナ海でのシーレーンの確保がそれほど重要な国益なのであろうか。外交的にどんなメリットがあるのだろうか。日本の財政にそんな余裕はあるのだろうか。少なくとも、そういう総合的な見地での議論を尽くした結果とは言えない。それで日本の民主主義の正義は守れるのだろうか。

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