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堺の文化に触れる散策

大阪の南、大和川を渡るとそこに堺市がある。その都市名の語源は大坂南の“サカイにあるサカイ”ではなかったか、と思って堺市のホームページを見てみた。すると“摂津・河内・和泉の3国の境界に位置することから”とあった。私の記憶はあまりにも大坂中心の発想で、都市としては堺の方が先に成熟していたことに思い至ると、恐らく正しくはない。そう言えば、堺東の近くに三国ヶ丘という地名が残っている。
5月下旬、大阪の堺筋本町での催事に参加後、堺東にてあるセミナーに参加することとなった。堺筋本町は大坂に巨城が築かれた時に秀吉が堺商人を呼び寄せた街といわれる。折角の堺行きなのにその後そのまま帰るのも味気ない。事前に何かないかと探したら“さかい利晶の杜”があり、その近くに“利休屋敷跡”があるという。しかも、ほぼ1年前に見に行こうとして果たせなかった与謝野晶子文芸館は“2015年2月28日で閉館し、「さかい利晶の杜」にその一部の「与謝野晶子記念館」として移設”したともあった。めったに出向くことのない所なのでこれは“行くべし”とばかり、出かけた。

“さかい利晶の杜”は宿院交差点の近くにあり、位置関係は下図のようである。私は図の中央に縦に走るフェニックス通を堺東から上へ歩いて来た。実はこの大通、容易に分かるものと思っていたが、地図の位置関係では東西南北がほぼ斜め45度に傾いているため、自己ポジショニングに戸惑い不覚にも迷ってしまった。海岸方向に西行きのつもりが本来は北西でなければならず、それに気付くと実際には南に向かっていたのである。晴れていて太陽の位置確認で気付いたのだ。方向音痴ではないつもりの自信が返って惑わせる結果となって残念な気分となった。



“宿院”は、“室町期から見える町名で、当地にある、住吉大社の頓宮(お旅所)を宿院といったことに由来するといわれ、また昔、このあたりは寺社が多く、宿坊(宿院)がたくさんあったことに由来するともいわれる”、とある。確かにフェニックス通を歩いていると左手に神社があった。
これが宿院頓宮であった。ネットによれば“古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた。明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国和泉国両一宮の頓宮となった。現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。神社としては、大正期に境内へ遷座された「波除住吉神社」と「大鳥井瀬神社」の二社がある。堺大空襲による焼失以前は二社殿が並んでいたが、以降は一社殿にて合わせ祀られている。”とあった。

宿院交差点を阪堺線路面電車の宿院駅ホームを左手に見つつ軌道を横切って、次の辻を左に入り込めば、そこにいかにも和風の囲いと門があったが如何にも作り立て。やはり、そこが利休屋敷跡であった。恐る恐る中に入ると黄色い帽子と上着をきたボランティアのおじさんが利休の略歴の説明をしてくれた。利休屋敷はこの敷地の数倍はあったと推定され、井戸は利休の時代のものが今日に至っていて、現在はそれを左手の汲み取り口へとポンプアップしている、との由だった。井戸の左側に石碑があり、碑文は受けた説明と重複するが簡潔な表現なので以下に紹介する。

千利休(1522-1591)
室町時代後期の大永二年(1522)納谷衆田中与兵衛の長男として堺今市町のこの地で誕生幼名は与四郎のちに宗易・抛筌斎と号す 八代将軍足利義政の同朋衆であった祖父千阿弥は里見義親の血統をひく はじめ 堺の長老北向道陳について茶を学び 次いで武野紹鴎につき 織田信長の時には今井宗久 津田宗及と共に茶堂として仕え 三宗匠と称される 特に 豊臣秀吉の時代になると天下一の茶人として賞賛され珠光に始まった草庵茶をわび茶として大成させる 天正十三年(1585)には秀吉の禁中茶会に際して正親町天皇から利休居士号を勅賜されたとされる しかし 大徳寺山門に寄進した金毛閣に木像を掲げたことや朝鮮出兵に関して秀吉の怒りにふれ天正十九年二月二十八日自刃して果てる 享年七十歳であった



屋敷跡の門から外に出ると向かいが“さかい利晶の杜”であった。裏口かとも思ったが、とにかく中に入ってみた。
すると先ず目に付いたのが結構細密なジオラマであった。よく見ると宿院交差点付近の戦前の一時期の風景のようであった。阪堺線のチンチン電車が宿院交差点で現在の本線の通りから浜に向かって直角に支線が出ているのが分かる。しかも、宿院頓宮方面に向かう通りには大鳥居がある。道路幅は概ね現在より狭い印象だ。ジオラマの縁には、その時期の風景スケッチが載せられていたり、人々の日常的会話が再生されたりする仕掛けが為されていて面白い。



ジオラマを一通り堪能して、振り返ると入館受付があった。そこで館内を一通り観覧できる入場券を購入。中の写真撮影は、撮影禁止のものには表示があるので注意して欲しく、それ以外は可とのこと。
利休の部(利休茶の湯館)の中に入ると、何故か大きなヨーロッパ大航海時代の帆船模型が展示されていた。“リーフデ号模型”とあり、かつて学んだ日本史のかすかな記憶が甦る。しかし、どういう事件だったかはすっかり忘却。説明文を読むと、“約300トンのカラベル(小型ガレオン)型の帆船で、ロッテルダム海事博物館の元学芸員が製作”とあった。“1600年に豊後に来航し、当時大阪城にいた徳川家康の命令で堺に回航しています。船員だったウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステンは、家康の信頼を得て江戸幕府の外交・貿易を助けました。リーフデ号の来航が、その後、江戸時代を通じて長崎の出島でおこなわれることになるオランダとの貿易、交流の発端になりました。”とある。
その後、堺の町の歴史、商人の活躍についての説明展示があり、その中で利休の活動に続いて行く。また堺の町域の地図もあり、赤く色付けされた部分が慶長20年(1615年)頃の輪郭だということ。現在の地図上に示されているので、宿院がどの部分にあったのか容易に分かる。しかも電車道が町の幹線道路であったことも分かり、ここは昔から堺の都心であったことが理解できる。
堺を“東洋のベニス”と宣教師たちは言っていたようだが、ベニスのように封建領主から独立を守れず、信長に矢銭を収めて屈したのだが、それは交易量の規模が小さく資本蓄積が不十分だったことが原因なのだろう。
利休の茶室の再現コーナーもあり、茶会で出されたレシピの再現も展示されている。写真の左上:鮒膾、右隣:串鮑、左下:飯、その右隣:ミソヤキ汁、とあり、右側の菓子は上:フノヤキ、下:シイタケ、との説明が表示されていた。



映像展示では、茶室に関して“市中の山居”がキィ・ワードとして解説がなされていた。即ち、当時都心の利休屋敷で“都会にいながらにして山里の風情を味わう”茶について、その庭は深山幽谷の風情を表す構成とし、茶室のしつらえとしたと理解できる。こうした“草庵の茶”は、“15世紀の人物で一休宗純に参禅した村田珠光から、堺の町衆である武野紹鷗(16世紀前半)を経て、その弟子の千利休(16世紀後半)に至って大成された”ということだ。
その後には、実際の大きさに再現した庭と茶室も戸外に設定してあった。

そこから、2階に移動して“与謝野晶子記念館”に移動。先ず、そこには元財務大臣・与謝野馨氏の挨拶文があった。

“「さかい利晶の杜」開館に寄せて”
「さかい利晶の杜」の与謝野晶子記念館名誉館長に就任することとなりました。
晶子の生誕地、ここ堺市にこのように立派な与謝野晶子記念館がオープンし、何十年経っても晶子が人々に忘れられないでいただけることは、人間として幸せなことです。
晶子は堺の生んだ天才であり、堺という町から生まれた人であると考えています。死後も社会からご評価をいただいているのは、大変名誉なことだと思っています。
今回の記念館オープンに際し、市長をはじめ多くの皆様のご尽力に敬意を表します。
記念館が多くの晶子ファン・短歌愛好家・文学を愛する人々にご来場・ご見学賜れれば親族の一人としても大変に嬉しく光栄なことです。
平成27年3月20日



中には与謝野晶子の遺品の展示や、書斎の再現がある。そこには、書斎で火鉢に当たる晶子と三男・麟の写真や晶子自筆の百首屏風が飾られていた。中には好きなキィ・ワードを含む晶子の歌の検索ができるコーナーもあった。そこには、“他人の指導に盲従してはならない”という晶子のことばがあった。さすがに自己主張の人である。現代日本人に与える言葉としても未だ有意義のような気がする。
最後には晶子の生家の菓子屋・駿河屋を再現した場所もあった。晶子の雑誌“婦人くらぶ”投稿記事(明治42年10月)“おさなき日”一説の紹介もある。“私は明治十一年の十二月の七日に、和泉国の堺という市街の、甲斐町の大道の角に、二階だけが西洋づくりで、土でこしらえた時計が屋根の上にあって、下には紺のれんのいっぱい吊ってある家で生まれました。私の家は、駿河屋といって、練羊羹をおもに売る菓子屋で、饅頭もこしらえておりました。”
駿河屋と言えば一瞬京都伏見の本店を思い起こしたが、堺は和歌山に近く南海電車で容易に行けるので、紀州の駿河屋の流れを組む店だと思われる。歴史の因縁は錯綜するものだ。

ここまでで、大分疲れており、“茶室お点前体験”へと進む。しかしながら こういう日本の文化に触れる時、茶道の教養がないのがもどかしい。下品に振る舞いたくなく最低の所作は守りたいが、何が下品になるのかすら知らないのは恥ずかしい。しかも うかつにも、茶を飲んでしまってから写真に撮ることを忘れていたことを思い出して、茶碗だけを撮るハメとなってしまった。



今度は“さかい利晶の杜”の正面から出て行こうとして、入口ホールの床一面に堺市街の古地図のタイルが敷き詰められているのに気付く。気になる部分を写真に撮ったが、撮った部分はあまりにも拡大し過ぎたものとなっていてあまりにも細部の写真となってしまったので掲示していない。しかし、この古地図から今の電車道はそのまま古くからの堺のメイン・ストリートであり宿院から大阪寄りに与謝野晶子の駿河屋があり、そこからさらに大阪寄りに奉行所の跡地があったことが分かる。このように“堺”を通じて茶の湯文化も含め、日本の重厚な歴史を改めて思い知った気がした。

その電車道に戻り、宿院から阪堺電車に乗った。路面電車はモータリゼーション下では邪魔者だったが、今やLRTともてはやされている。そんな時代の風雪に耐えた“チンチン電車”が大和川を渡る光景には何故か何とも言えないものを感じる。それに私の母校の高校は当時の上町線沿線だったので、懐かしさでそのまま天王寺方面に向かい、一旦 万代池で降り、そこから高校まで付近を散策した。しかし、あまりにも長い御無沙汰だったので、風景の変貌ぶりにはただただ驚くばかりだった。

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