The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
兵庫県立美術館の富岡鉄斎展―近代への架け橋(生誕180年記念)―を見て
今年のGWは、世間では10連休とのことであったが、そのような世間とは若干ずれた生活をしている。この際は前半幕開けは土日はいつものように過ごし、その後2日は気付けば昼寝して終わってしまい、これではいけないと1冊の親書を2日かけて何とか読んだ。これでGWの大半は費やしてしまった。最後の土日はまたいつものように過ごすことになる。隙間時間で、GW明けに予定される審査準備も為さねばならない。これで今年のGWは終わりとなる。このままでは実も蓋もない。
そこで、世間の休みではない連休の谷間で兵庫県立美術館の“生誕180年記念・富岡鉄斎―近代への架け橋”の展覧会に出かけた。
主催者側のPRは凡そ次の通り。(PR資料やホームページ等の幾つかの表現から引用し、筆者により編集。)
“近代文人画の巨匠、富岡鉄斎(1836―1924)の生誕180年を記念した回顧展です。京都に生まれ、幼いころから国学、儒学、仏教等の学問を広く修め、書画にも親しんだ富岡鉄斎は、幕末の動乱気には勤皇学者として国事に奔走し、明治維新後は神官の公職を経て、89歳で亡くなるまで、文人画家として多くの書画を世に送り出しました。日本各地を踏破して生み出された真景図や仙境図などの山水画、人物画や神仙画、風俗画、花卉・鳥獣画など、奔放な筆致と豊かな色彩で描かれた壮大なスケールの作品は、近代の日本美術史において傑出した存在感を放っています。本展は、清荒神清澄寺・鉄斎美術館所蔵の名品を中心に、約200点の作品、資料により鉄斎の世界観を探り、近年では最大規模の回顧展となります。また、鉄斎に影響を受けた近代の画家たち―梅原龍三郎、中川一政らによる作品と鉄斎をめぐる言説も紹介します。”
富岡鉄斎の絵は若い頃、京都での展覧会に見に行ったことがある。当時、私は同時代人の山岡鉄舟*と誤解して混乱していて、剣豪がこんな絵を描くのかと思ったものだった。見た絵には今から思えば仙人が虎の背中に乗っているのが多く、それが滑稽に見えたものだった。狩野派の描く虎とは全く趣を異にする様子である。眼は丸く大きく鋭い。口には牙があるのだが、全体はトラ猫のような姿なので滑稽な印象を与える。そんな図がいくつも展示してあったが、これが肩ひじ張らない洒脱というものか、と思ったものだった。その後、数年を経てようやく全くの別人と知ったのだった。
*(wikipediaからの引用・編集)江戸に生まれた幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。(1836―1888)江戸無血開城を決定した勝海舟の使者として、単身で官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に入り込み、西郷隆盛と面会・交渉し、勝・西郷会談成功の先駆けとなる。明治政府では勤皇に精励し、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。勝海舟、高橋泥舟と「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であったが、胃癌で亡くなったという。
この3月には(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構主催の“21世紀文明セミナー2015”の芸術分野の学芸員・飯尾由貴子氏による講演“富岡鉄斎―近代への架け橋”を受講していて、その内に展覧会を見ようと思っていた。しかし5月8日で開催終了にもかかわらず、気付けば最早5月となっており、このままでは見逃してしまうことになると慌てて出かけたという側面もある。
講演では、鉄斎は日本の近代文人画家としての第一人者であるとの説明があり、宝塚にある鉄斎美術館と提携して開催したとのこと。文人画とは学者や文人が余技として描く絵画のこと。特に茶を飲みながら描くもののようだ。鉄斎の絵には賛が多く、難解という。“賛”とは本来“鑑賞者によって画中に題した多くは詩文(漢文詩)、賛辞”のこととある。鉄斎の場合、自賛つまり絵の解説として自分で記入しているが、それが難しいという。
特に鉄斎は、明末の董其昌 (とうきしょう/1555-1636) の書画論“万巻の書を読み、万里の路を行きて、以て 画祖となす”に従い、書画技巧よりその教養の豊かさと高踏を重んじ、そこからにじみ出る作品を目指し実践した。このため、幼少より勉学した鉄斎は39歳で東京、東北を経て北海道へ旅行した。40歳で信州に行き、甲州で吉田口から富士山に登頂した。41歳で紀州、十津川の南朝遺跡を調査した、とのこと。富士山には何度も登っているようだ。
鉄斎自身は画家のつもりではなく、学者として神職等に就いていた。それが、鉄斎78歳の折、高島屋が心斎橋店で鉄斎画展を開催し、画家としての才能を世に知らしめたという。その後も高島屋の他店で何度も鉄斎展を開催している。
この講演では当然のことながら、絵を紹介しながらの解説であったはずだが、どういう訳かどんな絵画の紹介があったか全く記憶にない。そういう点でも、展覧会に行く意義は私には大きかった。
ということで、GW中に兵庫県立美術館に出かけた。美術館はJR灘駅、または阪神・岩屋駅からただひたすら南下、神戸のことなので文字通り坂を下れば南下することになるが、一本道を下り、国道2号線を跨ぐ歩道橋を行き、阪神高速をくぐって行き、さらに緩やかな歩道橋を登って道路の対岸に至ると右手に美術館入口へ自ずと至る。歩道橋からなので、そこは美術館の2階。1階へ降りる緩やかなスロープが若干狭くて暗くなっていて、安藤ワールドに引き込まれる。
ここは元は神戸製鋼の製鉄所の敷地であり、かつて阪神電車からは高炉が林立するのが見え、壮観であった。そしてここでは高品質の線材・棒鋼が生産されていた。特に線材は高純度であり繰り返し疲労に耐える自動車用バネ材の高品質原料として使用されたと、学生時代の工場見学で聞いていた。
だが、今や構造不況の90年代以降工場は撤去され、再開発でマンションや文化施設が建設されている。最西端には日赤神戸病院があり、その東に1ブロック遊休地のような空間があり、さらに東に“人と防災未来センター”、JICAと並びそのさらに東に美術館がある。そういった公共施設の並びに道路を隔てて北側にHAT神戸という商業施設や大手電器量販店が軒を並べている。そういったゾーンのさらに東側に居住地域があり、マンション棟が林立している。
兵庫県立美術館は、竣工:2001年、2002年に開館。建築設計:安藤忠雄建築研究所、設備設計:森村設計、敷地面積:19,000m²、建築面積:12,808m²、延床面積:27,461m²。壁面の多くは安藤氏のトレード・マークのコンクリートの打ちっぱなし。それと金属金具の組合せだ。安藤氏の建築物は他でも見過ぎていて、正直少々食傷である。
さて、あまりにも余談が多過ぎた。いざ、作品を見ていくと展示の脇に掲げられた解説文には、鉄斎は先ず賛を読んでから絵を見て欲しいと言っていた、と書かれていた。だが賛は漢字だらけ。漢文、漢詩が多いようで、脇の解説文には読み下し文にしているが、そもそも漢籍の素養が全くない私にはさっぱりで、何だか気分が判ればそれで良しとして次に取り掛かって行った。明治は遠い、という感覚。
鉄斎は写実には全くこだわっていない。むしろ自分のイメージ、酷い場合は先入観そのままで描いているのではないかと思われる。例えば琵琶湖南部の全景図があったが、どこかの湾口のように思える描き方だった。或いは、山水画の巨岩山の絵が多いが、実際にはありえない光景ばかりだ。恐らくだからこそ賛を読んで、絵の背景を理解し、鉄斎のイメージを理解する必要があるのだろう。又だからこそ、描き手も万巻の書を読んで、高い教養を持ってイメージを過たない必要があるのだろう。仙郷のイメージはそうした教養主義が大前提であるのは当然なのだろう。若い時に見た虎も、今回は“猛虎図”が1幅あったが漫画よりマシなトラ、といった趣だった。いずれも、だからと言ってデッサン力が無い訳では決してない。それは鉄斎が想像して描いた肖像画等を見ると分かる。
しかし、何度も登ったという富士山の遠望図の多くは裾野の広いどっしりとした富士の山容ではなく、上に行くほど急な斜面に描いている。悪く言えばヒョロッとした子供の描く富士山に近い姿だ。しかし、その火口図は、結構写実的だったのが印象的だった。複数展示されていたように思う。旅の雑記帳のようなものに描かれていたのでスケッチだったのだろうか。だがパンフレットを見て知ったが、会期の前半で展示されていた富士山図が見れなかったのは残念である。これは富士山図のなかでも極めつけの圧巻と思える。だが宝塚の鉄斎美術館所蔵なので、その気になれば見に行けばよいはずだ。
“近代への架け橋”という副テーマで、終盤に展示されていたのが正宗得三郎、中川紀元、鍋井克之、梅原龍三郎、中川一政、前田寛治の作品だった。特に、梅原龍三郎は“富士山之図”は印象的だった。どこかのホテルからの富士山の風景だと説明が書かれていたようだったが、昔、社会か美術かの教科書で見たように思う。その時、この作風は何処から来たのかと思っていたが、これでようやく謎が解けたような気がした。
入館後2時間少々経っていた。後は、歯医者さんの予約時刻に追われて、急いで会場を後にせざるを得なかった。絵を見るだけだったが、理解できない漢文の読み下しを読んだためか非常に疲れた。もっとゆっくり休憩しながら見るべきだったかも知れない。
そこで、世間の休みではない連休の谷間で兵庫県立美術館の“生誕180年記念・富岡鉄斎―近代への架け橋”の展覧会に出かけた。
主催者側のPRは凡そ次の通り。(PR資料やホームページ等の幾つかの表現から引用し、筆者により編集。)
“近代文人画の巨匠、富岡鉄斎(1836―1924)の生誕180年を記念した回顧展です。京都に生まれ、幼いころから国学、儒学、仏教等の学問を広く修め、書画にも親しんだ富岡鉄斎は、幕末の動乱気には勤皇学者として国事に奔走し、明治維新後は神官の公職を経て、89歳で亡くなるまで、文人画家として多くの書画を世に送り出しました。日本各地を踏破して生み出された真景図や仙境図などの山水画、人物画や神仙画、風俗画、花卉・鳥獣画など、奔放な筆致と豊かな色彩で描かれた壮大なスケールの作品は、近代の日本美術史において傑出した存在感を放っています。本展は、清荒神清澄寺・鉄斎美術館所蔵の名品を中心に、約200点の作品、資料により鉄斎の世界観を探り、近年では最大規模の回顧展となります。また、鉄斎に影響を受けた近代の画家たち―梅原龍三郎、中川一政らによる作品と鉄斎をめぐる言説も紹介します。”
富岡鉄斎の絵は若い頃、京都での展覧会に見に行ったことがある。当時、私は同時代人の山岡鉄舟*と誤解して混乱していて、剣豪がこんな絵を描くのかと思ったものだった。見た絵には今から思えば仙人が虎の背中に乗っているのが多く、それが滑稽に見えたものだった。狩野派の描く虎とは全く趣を異にする様子である。眼は丸く大きく鋭い。口には牙があるのだが、全体はトラ猫のような姿なので滑稽な印象を与える。そんな図がいくつも展示してあったが、これが肩ひじ張らない洒脱というものか、と思ったものだった。その後、数年を経てようやく全くの別人と知ったのだった。
*(wikipediaからの引用・編集)江戸に生まれた幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。(1836―1888)江戸無血開城を決定した勝海舟の使者として、単身で官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に入り込み、西郷隆盛と面会・交渉し、勝・西郷会談成功の先駆けとなる。明治政府では勤皇に精励し、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。勝海舟、高橋泥舟と「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であったが、胃癌で亡くなったという。
この3月には(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構主催の“21世紀文明セミナー2015”の芸術分野の学芸員・飯尾由貴子氏による講演“富岡鉄斎―近代への架け橋”を受講していて、その内に展覧会を見ようと思っていた。しかし5月8日で開催終了にもかかわらず、気付けば最早5月となっており、このままでは見逃してしまうことになると慌てて出かけたという側面もある。
講演では、鉄斎は日本の近代文人画家としての第一人者であるとの説明があり、宝塚にある鉄斎美術館と提携して開催したとのこと。文人画とは学者や文人が余技として描く絵画のこと。特に茶を飲みながら描くもののようだ。鉄斎の絵には賛が多く、難解という。“賛”とは本来“鑑賞者によって画中に題した多くは詩文(漢文詩)、賛辞”のこととある。鉄斎の場合、自賛つまり絵の解説として自分で記入しているが、それが難しいという。
特に鉄斎は、明末の董其昌 (とうきしょう/1555-1636) の書画論“万巻の書を読み、万里の路を行きて、以て 画祖となす”に従い、書画技巧よりその教養の豊かさと高踏を重んじ、そこからにじみ出る作品を目指し実践した。このため、幼少より勉学した鉄斎は39歳で東京、東北を経て北海道へ旅行した。40歳で信州に行き、甲州で吉田口から富士山に登頂した。41歳で紀州、十津川の南朝遺跡を調査した、とのこと。富士山には何度も登っているようだ。
鉄斎自身は画家のつもりではなく、学者として神職等に就いていた。それが、鉄斎78歳の折、高島屋が心斎橋店で鉄斎画展を開催し、画家としての才能を世に知らしめたという。その後も高島屋の他店で何度も鉄斎展を開催している。
この講演では当然のことながら、絵を紹介しながらの解説であったはずだが、どういう訳かどんな絵画の紹介があったか全く記憶にない。そういう点でも、展覧会に行く意義は私には大きかった。
ということで、GW中に兵庫県立美術館に出かけた。美術館はJR灘駅、または阪神・岩屋駅からただひたすら南下、神戸のことなので文字通り坂を下れば南下することになるが、一本道を下り、国道2号線を跨ぐ歩道橋を行き、阪神高速をくぐって行き、さらに緩やかな歩道橋を登って道路の対岸に至ると右手に美術館入口へ自ずと至る。歩道橋からなので、そこは美術館の2階。1階へ降りる緩やかなスロープが若干狭くて暗くなっていて、安藤ワールドに引き込まれる。
ここは元は神戸製鋼の製鉄所の敷地であり、かつて阪神電車からは高炉が林立するのが見え、壮観であった。そしてここでは高品質の線材・棒鋼が生産されていた。特に線材は高純度であり繰り返し疲労に耐える自動車用バネ材の高品質原料として使用されたと、学生時代の工場見学で聞いていた。
だが、今や構造不況の90年代以降工場は撤去され、再開発でマンションや文化施設が建設されている。最西端には日赤神戸病院があり、その東に1ブロック遊休地のような空間があり、さらに東に“人と防災未来センター”、JICAと並びそのさらに東に美術館がある。そういった公共施設の並びに道路を隔てて北側にHAT神戸という商業施設や大手電器量販店が軒を並べている。そういったゾーンのさらに東側に居住地域があり、マンション棟が林立している。
兵庫県立美術館は、竣工:2001年、2002年に開館。建築設計:安藤忠雄建築研究所、設備設計:森村設計、敷地面積:19,000m²、建築面積:12,808m²、延床面積:27,461m²。壁面の多くは安藤氏のトレード・マークのコンクリートの打ちっぱなし。それと金属金具の組合せだ。安藤氏の建築物は他でも見過ぎていて、正直少々食傷である。
さて、あまりにも余談が多過ぎた。いざ、作品を見ていくと展示の脇に掲げられた解説文には、鉄斎は先ず賛を読んでから絵を見て欲しいと言っていた、と書かれていた。だが賛は漢字だらけ。漢文、漢詩が多いようで、脇の解説文には読み下し文にしているが、そもそも漢籍の素養が全くない私にはさっぱりで、何だか気分が判ればそれで良しとして次に取り掛かって行った。明治は遠い、という感覚。
鉄斎は写実には全くこだわっていない。むしろ自分のイメージ、酷い場合は先入観そのままで描いているのではないかと思われる。例えば琵琶湖南部の全景図があったが、どこかの湾口のように思える描き方だった。或いは、山水画の巨岩山の絵が多いが、実際にはありえない光景ばかりだ。恐らくだからこそ賛を読んで、絵の背景を理解し、鉄斎のイメージを理解する必要があるのだろう。又だからこそ、描き手も万巻の書を読んで、高い教養を持ってイメージを過たない必要があるのだろう。仙郷のイメージはそうした教養主義が大前提であるのは当然なのだろう。若い時に見た虎も、今回は“猛虎図”が1幅あったが漫画よりマシなトラ、といった趣だった。いずれも、だからと言ってデッサン力が無い訳では決してない。それは鉄斎が想像して描いた肖像画等を見ると分かる。
しかし、何度も登ったという富士山の遠望図の多くは裾野の広いどっしりとした富士の山容ではなく、上に行くほど急な斜面に描いている。悪く言えばヒョロッとした子供の描く富士山に近い姿だ。しかし、その火口図は、結構写実的だったのが印象的だった。複数展示されていたように思う。旅の雑記帳のようなものに描かれていたのでスケッチだったのだろうか。だがパンフレットを見て知ったが、会期の前半で展示されていた富士山図が見れなかったのは残念である。これは富士山図のなかでも極めつけの圧巻と思える。だが宝塚の鉄斎美術館所蔵なので、その気になれば見に行けばよいはずだ。
“近代への架け橋”という副テーマで、終盤に展示されていたのが正宗得三郎、中川紀元、鍋井克之、梅原龍三郎、中川一政、前田寛治の作品だった。特に、梅原龍三郎は“富士山之図”は印象的だった。どこかのホテルからの富士山の風景だと説明が書かれていたようだったが、昔、社会か美術かの教科書で見たように思う。その時、この作風は何処から来たのかと思っていたが、これでようやく謎が解けたような気がした。
入館後2時間少々経っていた。後は、歯医者さんの予約時刻に追われて、急いで会場を後にせざるを得なかった。絵を見るだけだったが、理解できない漢文の読み下しを読んだためか非常に疲れた。もっとゆっくり休憩しながら見るべきだったかも知れない。
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