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先週号の週刊誌アエラを読んで―特集“憲法の「危機」”?
週刊誌アエラの先週号は、“大特集・憲法の「危機」”を組んでいた。今更の感があるが、“あなたは日本国憲法が好きですか”や“いま「改憲」を語るリスクと語らないリスク”の文字が躍っていて、思わず気になった。と言うのは、自民党による“改憲”には反対なのだが、突き詰めて具体的にどこがどうなのか、ということになると少しいい加減なところがあり、それをこの際整理しておくのも意味のあることだと思い、買ってみることにした。いわば、不十分な思考の整理の手掛かりになるのではないかと思ったのだ。憲法に関する記事は次の通り。
①[対談]緊急対談・姜尚中×佐藤優
②[識者]改憲・10人に聞く10の疑問
③[調査]700人対面調査・自衛戦争と自衛隊 あなたは認めますか?
④[運動]改憲派も「憲法カフェ」ソフト化路線でママを誘引
⑤[沖縄]トランプ出現で試される9条と沖縄
⑥[価値観]自民改憲草案は「個人よりも国家」
⑦[書物]憲法に関する6人の3冊
さて、口火は①の対談。ここでは、政治にかかわる当代の識者と目される姜尚中氏と佐藤優氏の対談だ。口火の口火は、佐藤氏の“いま、憲法について語らないのは非常に危険なんです。”から始まっている。あまりにも特集にぴったりの台詞。やらせ?まぁ、そんなことはどうでも良い。
そして、“ナチスの手口に学んだらどうか”という一昔前なら、この一言で政治生命は終わったのではないかというほど、刺激的な麻生現財務相の言葉を、“本当は深刻な話だったかもしれない。”と言っている。しかし、これは“深刻な話”と受け止めない世間というか社会心理が深刻な状態である、というのが真相で、本当はそう言いたかったのではないのか。もはや佐藤氏ですらズバリ言うことをはばかる社会状況なのだろうか。
それを受けて、姜氏はナチスが独裁体制を築くきっかけとした、ワイマール憲法の“緊急事態”条項へと話題を展開し、自民の同条項を改憲の際 導入するべきという主張の危険性を指摘している。さらに、緊急事態のみではなく、選挙さえ経ればそれで全ての“白紙委任”だとする橋下前大阪市長の主張の危険性も指摘している。
それを受けて、佐藤氏は代議員制国会の問題点の一つを“「民主主義」と「独裁」は相性がいい”と指摘する。国会議員の数を意味がないからと言って、一人ずつ減らしていけば最後には独裁になる、と警告している。これには、私も大いに同感だ。今、“国会議員の数が多すぎる”という議論が、議員定数の是正と共に何の考慮もなく当然のように語られるが、それが実は非常に危険なのだ。
姜氏は“戦後の憲法体制”という政治学者らしい概念を語る。そして、それは安倍氏の言葉によれば“戦後レジーム”になるのだが、それは“憲法”、“日米安保条約”そして“沖縄”の三位一体により成り立っていると指摘する。ところで“沖縄”は何を象徴するのであろうか。姜氏はそれを明示していないが、その存在が日本の政治を語る場合に“かすんでいる”と指摘している。“沖縄”は、絶対的平和の理想を規定する“憲法”と現実的国防を規定する“日米安保条約”の両者の矛盾を体現している存在であり、それを議論の対象とせず“かすんだ存在”として意識外にすることで、面倒を避けるという思考の怠慢を 戦後繰り返して来たのだ。姜氏はこれを“本土平和主義”と呼ぶという。今その矛盾に決着を付けることを、日本の全てのリベラリストに突き付けられているのだろう。そうした“本土平和主義”の“心地よいユートピア”は、先鋭化した左右内外の現実勢力によって、崩壊の淵に追いやられているのだ。
対談記事を読み直してみると、これでほとんどの議論は尽くされているように思える。対談記事は全てで5ページになるが、ここまでの1ページで全てのテーマが出ているのではないか。これ以降“本土平和主義”の“心地よいユートピア”の崩壊の現実を繰り返し確認する議論に終始している。そこには、日本の核兵器保有・使用の是非と言う極め付きの議論も当然含まれる。その問題に言及しているドナルド・トランプ氏の登場もそうだ。そして、⑤の“[沖縄]トランプ出現で試される9条と沖縄”につながる。
冒頭掲載の対談以外では、識者が異口同音でこれらの問題を指摘している。
しかしながら、②の“[識者]改憲・10人に聞く10の疑問”では、ジャーナリスト・青木理氏は安倍首相の反知性的な点を指摘する。その側近は“立憲主義”という言葉すら知らないとツイートしたという、改憲派の情けないエピソードを紹介している。国際的知的水準でみた場合の改憲派の論理レベルの低さ、無教養は覆い隠せない。
その結果の集大成が自民党改憲草案であるが、それは⑥の“[価値観]自民改憲草案は「個人よりも国家」”に紹介されている。ここでは、憲法がどういうものなのかという、国際的に了解されている“常識”を改憲派が、如何に理解していないかを端的に示している。憲法とは国家権力の横暴から国民を守るために規定するものであることが、理解できていないのだ。イギリスではマグナカルタや、権利の請願、権利の章典が慣習法の実質的憲法となっていて、これを大陸諸国が憲法として成文化したのが、“憲法”の歴史的背景である。マグナカルタや、権利の請願、権利の章典は、国王の横暴を抑制するために国王と取り交わした国民側の権利を示している。自民改憲派はこうした“常識”を知らない無知蒙昧派なのだ。
改憲案前文の主語が、“国家は”になっている。これに対し現行憲法は“国民は”である。憲法の主体は国民であり、その国民にどのような権利があるのかを明示するのが、憲法制定の目的なのだが、主客転倒なのだ。
現憲法第13条は“すべて国民は、個人として尊重される。”とあるが、改憲案では“個人”が“人”に置換された。“個人”と“人”は、どう違うのか。記事では“人の反対語は「動物」や「モノ」。一方、個人の反対語は「団体」。全く別の概念だ。”と言っている。
自民改憲派は、個人主義が嫌なので家族主義を改憲案の24条に掲げたという。“家族は、互いに助け合わなければならない”と規定。そんなに“家族”はありがたい、暖かいものなのか。一部の“幸せな人々の”の偏見に基づいた人間観ではないのか。下重暁子氏の“家族という病”に、その悲惨さが書かれているのではないか。歴史的には、あの信長が家族それも実母と戦って、実兄を自分の手で殺している。信玄も父親との確執を乗り越えている。血族は血のつながりがあるだけに、切るに切れない残酷さがある。家族から解放されることで、ようやく自分を取り戻すことができる人々も大勢いるのは現実だ。家族主義で生きるか、個人主義で生きるか、それは人それぞれの自由である。その自由を奪う権利が、国に有ってはならない。こんな規定を憲法に掲げれば、国連やアムネスティからクレームがつくのは目に見えている。自民党の御歴々の頭の中は、知性に欠け18世紀以前のアナクロニズムで満ち満ちている。社会保障を家族主義でごまかそうとでもしているのだろうか。
改憲案21条には“公益及び公の秩序”を自由に優先させる規定を設けた。これにより“公益及び公の秩序”とは何かを政府が恣意的に設定できる余地を残している。自由はこれにより絶対ではなく、いくらでも制限できることになる。
現憲法が“押しつけ憲法”であるとの議論に対し、ドキュメンタリー作家・鈴木昭典氏は“芦田修正”を指摘する。衆院帝国憲法改正小委員会は、9条2項に“前項の目的を達するため”という文言を入れたという。この委員会の委員長は芦田均氏であった。“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する”も日本人の草案がルーツだと紹介している。これは、ロールズの正義論にも通じる考え方ではないか。しかし、護憲派も こうした細部だけにこだわって議論するのではなく、全体の成立過程をも含めて、押しつけか否かの議論が必要だろう、と思う。
この件に関しては、⑦の“憲法に関する6人の3冊”の推奨本が挙げられている。白井聡氏は“樋口陽一、小林節・共著『「憲法改正」の真実』集英社新書”、“古関彰一・著『日本国憲法の真実』岩波現代文庫”、“矢部宏治・著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル”を推奨している。申し訳ない、というか残念ながら私は未だ読んでいない。
今、日本人に求められているのは、その最も苦手とする“原理的思考”を忍耐強く重ねることだが、専門家の学者ですらそれを避けようとしているのではないだろうか。エネルギー政策ですら、原子力をどうするのか一向に向き合う覚悟がない。“原理的思考”を支えるのは哲学だ。単なる思い付きではなく体系化された強靭な思考と論理の連鎖だ。今、日本には残念ながら体系化された哲学がない。
“われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。”は、御題目にして唱えるだけではだめなのだ。今や、平和を絵空事でなくどうやって体現するか徹底的に考え、身を持って示す覚悟が必要なのだ。でなければ、国際社会から“名誉ある地位”は与えられることはない。想像を絶する巨大な構想力を必要とする困難な道だが、それを避けては日本の国際的地位は向上しないのではないか。
①[対談]緊急対談・姜尚中×佐藤優
②[識者]改憲・10人に聞く10の疑問
③[調査]700人対面調査・自衛戦争と自衛隊 あなたは認めますか?
④[運動]改憲派も「憲法カフェ」ソフト化路線でママを誘引
⑤[沖縄]トランプ出現で試される9条と沖縄
⑥[価値観]自民改憲草案は「個人よりも国家」
⑦[書物]憲法に関する6人の3冊
さて、口火は①の対談。ここでは、政治にかかわる当代の識者と目される姜尚中氏と佐藤優氏の対談だ。口火の口火は、佐藤氏の“いま、憲法について語らないのは非常に危険なんです。”から始まっている。あまりにも特集にぴったりの台詞。やらせ?まぁ、そんなことはどうでも良い。
そして、“ナチスの手口に学んだらどうか”という一昔前なら、この一言で政治生命は終わったのではないかというほど、刺激的な麻生現財務相の言葉を、“本当は深刻な話だったかもしれない。”と言っている。しかし、これは“深刻な話”と受け止めない世間というか社会心理が深刻な状態である、というのが真相で、本当はそう言いたかったのではないのか。もはや佐藤氏ですらズバリ言うことをはばかる社会状況なのだろうか。
それを受けて、姜氏はナチスが独裁体制を築くきっかけとした、ワイマール憲法の“緊急事態”条項へと話題を展開し、自民の同条項を改憲の際 導入するべきという主張の危険性を指摘している。さらに、緊急事態のみではなく、選挙さえ経ればそれで全ての“白紙委任”だとする橋下前大阪市長の主張の危険性も指摘している。
それを受けて、佐藤氏は代議員制国会の問題点の一つを“「民主主義」と「独裁」は相性がいい”と指摘する。国会議員の数を意味がないからと言って、一人ずつ減らしていけば最後には独裁になる、と警告している。これには、私も大いに同感だ。今、“国会議員の数が多すぎる”という議論が、議員定数の是正と共に何の考慮もなく当然のように語られるが、それが実は非常に危険なのだ。
姜氏は“戦後の憲法体制”という政治学者らしい概念を語る。そして、それは安倍氏の言葉によれば“戦後レジーム”になるのだが、それは“憲法”、“日米安保条約”そして“沖縄”の三位一体により成り立っていると指摘する。ところで“沖縄”は何を象徴するのであろうか。姜氏はそれを明示していないが、その存在が日本の政治を語る場合に“かすんでいる”と指摘している。“沖縄”は、絶対的平和の理想を規定する“憲法”と現実的国防を規定する“日米安保条約”の両者の矛盾を体現している存在であり、それを議論の対象とせず“かすんだ存在”として意識外にすることで、面倒を避けるという思考の怠慢を 戦後繰り返して来たのだ。姜氏はこれを“本土平和主義”と呼ぶという。今その矛盾に決着を付けることを、日本の全てのリベラリストに突き付けられているのだろう。そうした“本土平和主義”の“心地よいユートピア”は、先鋭化した左右内外の現実勢力によって、崩壊の淵に追いやられているのだ。
対談記事を読み直してみると、これでほとんどの議論は尽くされているように思える。対談記事は全てで5ページになるが、ここまでの1ページで全てのテーマが出ているのではないか。これ以降“本土平和主義”の“心地よいユートピア”の崩壊の現実を繰り返し確認する議論に終始している。そこには、日本の核兵器保有・使用の是非と言う極め付きの議論も当然含まれる。その問題に言及しているドナルド・トランプ氏の登場もそうだ。そして、⑤の“[沖縄]トランプ出現で試される9条と沖縄”につながる。
冒頭掲載の対談以外では、識者が異口同音でこれらの問題を指摘している。
しかしながら、②の“[識者]改憲・10人に聞く10の疑問”では、ジャーナリスト・青木理氏は安倍首相の反知性的な点を指摘する。その側近は“立憲主義”という言葉すら知らないとツイートしたという、改憲派の情けないエピソードを紹介している。国際的知的水準でみた場合の改憲派の論理レベルの低さ、無教養は覆い隠せない。
その結果の集大成が自民党改憲草案であるが、それは⑥の“[価値観]自民改憲草案は「個人よりも国家」”に紹介されている。ここでは、憲法がどういうものなのかという、国際的に了解されている“常識”を改憲派が、如何に理解していないかを端的に示している。憲法とは国家権力の横暴から国民を守るために規定するものであることが、理解できていないのだ。イギリスではマグナカルタや、権利の請願、権利の章典が慣習法の実質的憲法となっていて、これを大陸諸国が憲法として成文化したのが、“憲法”の歴史的背景である。マグナカルタや、権利の請願、権利の章典は、国王の横暴を抑制するために国王と取り交わした国民側の権利を示している。自民改憲派はこうした“常識”を知らない無知蒙昧派なのだ。
改憲案前文の主語が、“国家は”になっている。これに対し現行憲法は“国民は”である。憲法の主体は国民であり、その国民にどのような権利があるのかを明示するのが、憲法制定の目的なのだが、主客転倒なのだ。
現憲法第13条は“すべて国民は、個人として尊重される。”とあるが、改憲案では“個人”が“人”に置換された。“個人”と“人”は、どう違うのか。記事では“人の反対語は「動物」や「モノ」。一方、個人の反対語は「団体」。全く別の概念だ。”と言っている。
自民改憲派は、個人主義が嫌なので家族主義を改憲案の24条に掲げたという。“家族は、互いに助け合わなければならない”と規定。そんなに“家族”はありがたい、暖かいものなのか。一部の“幸せな人々の”の偏見に基づいた人間観ではないのか。下重暁子氏の“家族という病”に、その悲惨さが書かれているのではないか。歴史的には、あの信長が家族それも実母と戦って、実兄を自分の手で殺している。信玄も父親との確執を乗り越えている。血族は血のつながりがあるだけに、切るに切れない残酷さがある。家族から解放されることで、ようやく自分を取り戻すことができる人々も大勢いるのは現実だ。家族主義で生きるか、個人主義で生きるか、それは人それぞれの自由である。その自由を奪う権利が、国に有ってはならない。こんな規定を憲法に掲げれば、国連やアムネスティからクレームがつくのは目に見えている。自民党の御歴々の頭の中は、知性に欠け18世紀以前のアナクロニズムで満ち満ちている。社会保障を家族主義でごまかそうとでもしているのだろうか。
改憲案21条には“公益及び公の秩序”を自由に優先させる規定を設けた。これにより“公益及び公の秩序”とは何かを政府が恣意的に設定できる余地を残している。自由はこれにより絶対ではなく、いくらでも制限できることになる。
現憲法が“押しつけ憲法”であるとの議論に対し、ドキュメンタリー作家・鈴木昭典氏は“芦田修正”を指摘する。衆院帝国憲法改正小委員会は、9条2項に“前項の目的を達するため”という文言を入れたという。この委員会の委員長は芦田均氏であった。“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する”も日本人の草案がルーツだと紹介している。これは、ロールズの正義論にも通じる考え方ではないか。しかし、護憲派も こうした細部だけにこだわって議論するのではなく、全体の成立過程をも含めて、押しつけか否かの議論が必要だろう、と思う。
この件に関しては、⑦の“憲法に関する6人の3冊”の推奨本が挙げられている。白井聡氏は“樋口陽一、小林節・共著『「憲法改正」の真実』集英社新書”、“古関彰一・著『日本国憲法の真実』岩波現代文庫”、“矢部宏治・著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル”を推奨している。申し訳ない、というか残念ながら私は未だ読んでいない。
今、日本人に求められているのは、その最も苦手とする“原理的思考”を忍耐強く重ねることだが、専門家の学者ですらそれを避けようとしているのではないだろうか。エネルギー政策ですら、原子力をどうするのか一向に向き合う覚悟がない。“原理的思考”を支えるのは哲学だ。単なる思い付きではなく体系化された強靭な思考と論理の連鎖だ。今、日本には残念ながら体系化された哲学がない。
“われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。”は、御題目にして唱えるだけではだめなのだ。今や、平和を絵空事でなくどうやって体現するか徹底的に考え、身を持って示す覚悟が必要なのだ。でなければ、国際社会から“名誉ある地位”は与えられることはない。想像を絶する巨大な構想力を必要とする困難な道だが、それを避けては日本の国際的地位は向上しないのではないか。
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