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京都伏見の戊申戦跡プチ散策

1週おきのエンタ投稿で、このところの春で浮かれているかのような印象を読者に持たれるかもしれず少々気が引けるが、先日京都伏見の戊申戦跡を散策したので紹介したい。京都、奈良を日帰り散策圏にしている関西在住の強みを最大限生かしていきたいと思っているが、京都の比重が高いのは許容されたい。今回は、ただ単に春に浮かれ出たという訳ではなく、伏見の酒造メーカーの審査に赴いた帰りにそのまま帰るのはもったいないと、立ち寄っただけであった。
神戸方面から伏見というと、大阪から京阪電車でアプローチして中書島で下車するのが普通ではないかと思われ、私はそのようにして審査に赴いた。大阪で京阪電車は何故か中之島で止まってしまっていて、阪神電車と接続していないのは、非常に残念である。このためであろう、京阪中之島線は閑散としている。

伏見観光には一般的には、この中書島から徒歩で北に向かって歩いて、月桂冠の大倉記念館や黄桜のレストラン・カッパカントリーのある所に出るのが普通だ。幕末の尊王攘夷の志士等の活動の舞台となった寺田屋は、そのカッパカントリーの近所だ。この辺りには、私は既に何度か訪れている。その寺田屋は船宿と云うから、その界隈が“伏見港”つまり、伏見の中心であろうか。この町を流れる川は運河か自然の河川なのかよく分からない。大阪からの物資の大半はここで陸揚げしたのであろう。京都都心を流れる高瀬川と淀川の接続地点ともなっている。

審査先に赴くために、この町の地図を改めて眺めていると、右側つまり この伏見市街の東側に 御香宮神社があるのに気が付いた。よく見ると その南側には奉行町とあり、これは薩摩軍と幕軍の激突の場所ではないかと気が付いたのだった。つまり、薩軍は御香宮に大砲を据えて幕府の伏見奉行所を攻撃し、幕軍は奉行所を拠点に応戦、御香宮付近は激戦であったという。それは、あのNHK大河ドラマ“八重の桜”でも激戦地エピソードとして紹介されていたと記憶していたので、その地がどのような地勢であり、現在はどのような雰囲気の街になっているのか知りたく、この機会に是非行ってみたいと思ったのだ。

今回この地を訪れるには、一旦 伏見市街の西方に在る酒造会社で審査して後となるため、その会社から東へ徒歩で向かうことになる。その場合、旧跡の寺田屋やカッパカントリーより約200m北側にある大手筋通が目標になる。この大手筋は西側から進入するとやがて車の入れないアーケードのある商店街になり、京阪電車と踏切交差する。そこは、京阪電車・伏見桃山駅でもある。さらに東進すると近鉄京都線とも交差するが、こちらは高架線となっていて、桃山御陵前駅となっている。この通は アーケード商店街から気付かない程の緩やかな登り坂となっているが、近鉄線をくぐり抜ける辺りから それが明らかに意識できる坂となって登って行かなければならない。少し 商店がまばらになった辺りの左手に結構大きな門構えが見えて来る。そこには、灯篭と昔の高札のような立て看板があるが、それが御香宮神社だった。



その高札には、京都市の解説として次のようにある。
“御祭神は神功皇后、中哀天皇、応神天皇など九柱を祀る。
社伝によれば、貞観四年(862)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、(清和天皇より*)「御香宮」を賜った。
以後、伏見の産土神(うぶすながみ*)として人々の信仰を集めたが、度々の兵乱や天災により荒廃した。文禄年間(1592~96)豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたが、慶長十年(1605)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財)が建立された。表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている。” (*文中筆者注)
なるほど、このためにその前の通を大手筋と云うのだろう。

表門をくぐって境内に入る。なるほど当然だが境内は広い。だが5千もの薩軍兵士を収容できるほどではない。奉行所にある南の方向に砲列を敷くにも塀が在って障害になるように思う。そうなると神社を根拠地として本営を置き、付近に部隊展開したと考えるのが妥当かも知れない。塀は銃撃戦には防護壁として使え、砲列は境内に接する現国道24号付近に配置するのが適当か。果たして、史実は如何に。

参道右手に手水舎があるが、これは“御香水”ではないようだ。本殿拝殿に向かい参拝。本殿周囲を東側から周回。しだれ桜等が満開だった。一周したところで、拝殿左わきにようやく“御香水”の湧き出ている所に出くわす。

ところが、この“御香水”に関しては、明治時代に一旦涸れたとの掲示があり、水が汲めるようにしてある所に“濾過機”を設置したのでその“維持管理費”に“御協賛”をとあり、そばに“賽銭箱”が置かれていた。私もその“濾過機”を通った“香水”を飲んでみたが、ごく普通の水のように感じた。それでも、環境省の「名水百選」に認定されたとある。何だか“政治臭”を感じる水だが、“歴史と由緒があり地場産業である酒造りと結びつきが深く、水量も豊富で保存管理がよい”との注釈によるものらしい。ここは、まぁ それで良しとするべきで、とやかくは言うまい。



これで一渡り御香宮を見て満足。表門をくぐって、通に出る。坂を少し降りようと右手(西方向)へ下ると観光案内地図があった。奉行所の所在を確認したが、羊羹発祥の駿河屋との意味の表示もあって そこへも行ってみることにした。
とにかく、表門から通に出て次の辻を南下、まさに坂を下る。やがて少し雰囲気の違う場所に出る。酒蔵風なのか江戸時代をイメージしたのか、洒落たアパートと塀があり、そこに奉行所跡の碑があった。こうした雰囲気の違いに微妙に気付かなければ、通り過ぎてしまうような場所だ。



その一帯は京都市営の桃陵団地と呼ばれる京都初の“由緒正しい”団地のようだ。西側の空間は元々何があったかは知らぬが、今は巨大マンションの建設中のようで、囲いの中は建設機械が唸りを挙げていて、ダンプ・トラックも行き来していた。そばにある“桃陵団地の歴史”とある京都市の掲示板には次のように解説されていた。
“伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地帯であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城*を築き、城下町と伏見港を整備してからである。
江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に富田信濃野守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃陵団地の敷地で伏見城の跡地への入口と港を監視する位置にある。
明治維新の時(1868)幕軍のたてこもる伏見奉行所は、官軍の攻撃により焼け落ちた。明治時代以降、陸軍の土地となり、工兵隊の基地になっていた。第二次世界大戦終了後、米軍に接収されていたが日本に返還された後、市営住宅が建設され、今日にいたっている。”

*伏見城跡は地図によればこの地点より約1.5㎞北東のさらに高い丘陵にある。その南に明治帝陵があり、さらにその南に乃木神社がある。御香宮の前の通をさらに登って行けば、JR奈良線・桃山駅に差し掛かり、これらの史跡にもたどり着けるようだ。

伏見奉行所の位置は伏見市街地からは東の小高い所にあり、恐らく昔は伏見の街全体を見下ろせる場所であったと思われるが、逆に御香宮からは見下ろされる場所なので、そこに陣取った薩軍からの攻撃には不利であるのは明白だ。標高差は20m以上はあるのではないか。薩軍がそこに陣取る前にそれを阻止するべきではなかったかと思われる。急変する政治的混乱の中で、指揮系統が不明確な間に気付けばそうなっていた、というのが実態だろうか。薩摩の戦略的成功だが、幕府には危機対応のマネジメントが重要だったことになる。果たして、史実は如何に。

さて次に、羊羹発祥の店を探しに歩き始める。東西に走る魚屋通に戻り、近鉄線をくぐって次の辻を北へさらに戻る。やがて、右手に“総本家駿河屋”のひっそりとした看板が目に付く。背景の鉄筋コンクリートのマンションに多少違和感を覚えるが仕方ない。
その真向いに魚三楼(うおさぶろう)という京料理の料亭があり、そこに伏見戦での銃撃戦の弾痕が残っている。ここも観光名所になっているようで、店頭に店主敬白の説明板がある。そこには“幕末の慶応4年1月3日4日に此処伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍が大激戦をくりひろげました。・・・・この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼け野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失を免れました。”とある。激戦のさなか、付近の住民達はどこかに避難していたのであろうか。



ここで翻って、改めて駿河屋へ。店に出ていた女性に話を聞くと正確に何年前に創業と説明してくれていたが、残念ながら、今それを覚えていない。そこでホームページを参照すると次のようである。
“寛正2年(1461) 初代岡本善右衛門が、船戸庄村(現在の京都伏見の郊外)に「鶴屋」の屋号で饅頭処の商いを始める。天正17年(1589) 蒸羊羹を改良して作られた「伏見羊羹」別名「紅羊羹」を発売。秀吉の大茶会で諸侯に引き出物として用いられ絶賛される。元和5年(1619) 徳川頼宜公(初代)紀州にお国替え。鶴屋(現 総本家駿河屋)は紀州家御用菓子司に任命される。(和歌山に御用本店、伏見に総本家を置く)
万治元年(1658) 煉羊羹の材料選別、配合具合、炊き上げ方法など工夫し、寒天と和三盆糖を用いて完全な煉羊羹の製法を確立した。”
となると創業は500年以上前で応仁の乱(1467)以前となる。また私の中では羊羹発明と創業を混同していたが、創業後128年に煉羊羹の前身を発明し、その39年後に完成させたことになる。話の中で、また女性店員は“ここ(総本家)以外は、分家または別家になる”とも説明していた。戊申の役ではこの店も巻き込まれたのだろうが、実際にどのように対処していたのであろうか。しみじみと、真向いの魚三楼を眺めながら、サービスのお茶と羊羹を頂く。
私は、夜の梅と古代伏見羊羹を買った。この古代伏見羊羹は、“昔ながらの手流しの製法により、京都伏見本舗でのみ販売している限定品”とあるが、佐賀の小城羊羹と同じようなものだろうか。勿論、こちらが大先輩ではあるのだろうけれど。

審査後の小1時間で済んだプチ観光であったが、帰りの京阪特急では不覚にも京橋まで意識不明だった。

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