小児アレルギー科医の視線

医療・医学関連本の感想やネット情報を書き留めました(本棚2)。

「親と子の食物アレルギー」(伊藤節子著)

2012年10月24日 23時10分37秒 | 食物アレルギー
講談社現代新書、2012年発行。

著者の伊藤節子先生は小児アレルギー学会の重鎮で、その臨床・研究への真摯な姿勢から尊敬を集める先生です。

多くの怪しい情報に振り回されがちな食物アレルギーについての、正しい知識を得ることができる本です。
食物アレルギーの現況について学会レベルの内容を扱っているにもかかわらず、わかりやすく解説しています。
アレルギー専門医の端くれである私にも参考になるところがたくさんあり、日々の診療で抱く漠然とした疑問が解決して頭の中がスッキリ整理されました。
例えば・・・

・乳児期のアトピー性皮膚炎がステロイド軟膏でよくなってもやめると悪化するのはなぜか。
・ペットが乳児期のアトピー性皮膚炎へ及ぼす影響について。
・食物アレルギーのコントロールが悪い児は将来喘息になるリスクが高い。
等々。

また「除去食中に何を食べたらよいか」という項目が充実しているのが本書の大きな特徴です。
「調理・料理」についての解説は女性ならではで、類書の中で群を抜いていると思います。
同じアレルゲンでも調理法や一緒に調理・加工する食材によりアレルゲン性の変化が異なる事実が確認されたことは、伊藤先生の詳細な研究の成果です。
「○○と○○を除去してください」と医師から言われて途方に暮れるお母さんは、是非お読みください。

一般読者向けにコンパクトにまとめられた新書ですが、臨床現場の医師や、食物アレルギー児が在籍し給食メニューで苦労している保育園の栄養士さんにもお勧めできる良書だと思います。

※ より専門的な内容は、ほぼ同時期に発行された下記書籍に詳しく記載されています。
抗原量に基づいて「食べること」を目指す乳幼児の食物アレルギー(診断と治療社、2012年9月発行)
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「学校に行けない/行かない/行きたくない」(冨田和巳著)

2012年10月11日 23時18分41秒 | 小児医療
副題:不登校は恥ではないが名誉でもない
へるす出版、2008年発行。

最近、「起立性調節障害」に関する書籍を数冊読みました。
皆口を揃えて「起立性調節障害(≒自律神経失調症)」が「不登校」の原因になり得る、本人は学校へ行きたくても体がいうことを聞かないんだ、「怠け」ではないんだ、と説いていました。

一方この本は、「不登校」を「身体疾患」として捉えるよりも「不登校」を「心身症」という視点から捉えて解説し、どう介入すべきかを論じており、私の目に新鮮に映りました。
より大きな「不登校」というくくりから起立性調節障害を含めて俯瞰するという内容であり、起立性調節障害のみを抜き出した前出書と異なります。

著者は「子どもの心の問題」を取り扱う専門医の開拓者とも云うべき人物。
漢方系の研究会にも所属され、そちらでも講演を拝聴したことがあり、興味をもって拝読しました。
30年にわたり数多くの子どもたちを診療してきた臨床経験から発せられる言葉には説得力があります。

「不登校」を扱う多くの治療者や学者が学校に行かない行為に肯定的・好意的な立場を取ることに反対し、「不登校児の心の動きには理解を示しながらも、学校に行かないのは好ましい状態ではない」という立場を取っています。
諸外国には存在しない「不登校」は戦後の教育体制が作り出した日本特有の産物と評し、母性の強い日本社会の欠点を指摘しています。

「無理だったら学校へ行かなくていいんだよ」
と子どもを保護するだけでいいんだろうか、と疑問を投げかけ、やはり適切な登校刺激をして最終目標は社会人としての自立を目指すべきだと主張し、本人のペースに任せたが為に社会参加ができなくなってしまった若者が増加してきたことに警鐘を鳴らしています。

しかし、彼の主張は現在の学会において主流ではないことを自覚しており、自分の主張を「異見」と自虐的に表現している箇所がいくつもありました。

読み進める中で、他の専門家が「不登校」診療の中心に「母性欠如」を置いているのと異なり、冨田先生は「父性」を強調しているように感じました。
最後まで読み終わると、彼の主張の全体像がわかりました。
不登校の根本的原因に「母性の問題」のみならず、「父性の欠如」を指摘しているのでした。
母性に関しては単なる欠如として片付けるのではなく、母性社会日本の特性についても言及し、奥深い考察をされています。
その土台の上に父性の欠如が乗ることにより、不登校の発生を助長しているとの「異見」。

「不登校児は自分の状態を恥じる必要はないが、自分の立場をあれこれ正当化するようなことを言ったり、したりして欲しくない」
「各自が耳に痛い言葉を聞き、現実を厳しく見つめ、自ら反省し努力する姿勢にこそ、解決の道が開かれる」
というコメントには賛成です。

「不登校」は子育てのつまずきの一つの表現形ではないでしょうか。
思春期を迎えた子どもから「まだ独り立ちできないから手伝って」と親に向けて発せられたシグナルであり、それを四苦八苦して親子でともに乗り切る試練と捉えることもできると思います。


メモ
自分自身のための備忘録。

本書の要旨と筆者の主張

①不登校は本来「経済的・病気などから明らかな理由がなく」「なぜか、行くべき学校へ行けない」神経症的状態を指していたが、現在ではこのような定義に当てはまらないものが増加すると共に、この定義にとらわれず、学校に行かない状態をすべて不登校と呼んでいる。

②現代の不登校は神経症、心身症、精神病、発達障害によるものや、いじめによるもの、何となく休むものなど「何でもあり」の状態、いわば百貨店のようで、適切に分類して考えなければ混乱する。

③不登校は現代日本社会の子どものあらゆる問題の根底にあるもので、「暦年齢に求められる社会集団」に参加できない者が増加した結果であり、「日本の文化」とも呼べる。

④個々に異なった要因が考えられるが、基本的には「自尊心の乏しさ」「認知と表現のつたなさ」からくる「対人関係障害」と捉える

⑤最近の引きこもり・ニート・フリーターなど青年期(ときに中年期)の問題の起源は、ほとんどが中学時の不登校にある。つまり、小児期の問題(不登校)を適切に予防・解決しなければ、青年期に持ち越し、やがて高齢者問題にまで及んでいくのではないかと危惧している。

⑥初期の訴えは「学校に行きたくない」ではなく、腹痛・頭痛や発熱・下痢といった身体症状で、それに対する適切な対応が重要であり、初期対応には医師は重要な役割を担う。しかし、医師は「体を診る」のが主な仕事なので、身体症状にこだわり、背後の不登校を見逃す場合が多く、診断したのちも適切に扱わないこともある(これを残念に思い本書を執筆した)。

⑦不登校は教師・臨床心理士(相談員)・医師(小児科医・精神科医)の三者が主にみるため、それぞれの立場の違いで異なった見解がもたれやすく、種々の意見が出て当然である。違いを認識して意見を聞くようにしないと混乱する。

⑧不登校が増加し世間で認知され、種々の対応が叫ばれながらも減少していないのは、学校の表面的現象を原因にする意見が多いからである。

⑨多くの不登校肯定論(ときに賞賛論)は表面的優しさに溢れているが、長い目でみると子どもの立場には立っておらず、結果的に子ども社会も不幸にしていく。

⑩ここ数年、不登校字数は数字の上では横ばいか、減少している年もあるが、総生徒数が減少しているので、基本的には今も増加している。

⑪不登校の増加について理解が行き届くと「更に増加させていく」面もある。世の中に常にある矛盾(二面性)を考えて対処しなければならない。

⑫都市部では、不登校について相談や治療に種々の方法や期間が出現している。不登校の成因は輻輳しているので、特定の考え方や手段で全てが対応できるものではなく、個々に向き不向きがある。専門家が行う心理治療(種々の技法がある)や薬物療法以外に、特殊な学校に通う、農作業をする、動物を飼うなど、多くの方法があり、ときには専門的治療よりも効果的なことがある。ただ、主宰者側の長所だけを強調した情報で選択すると、取り返しのつかない結果を招く危険性もある。選択に際しては、親子の状況に合わせて専門的視点から選ぶようにする。

⑬子どもの素因・年齢や周囲の環境は個々に異なり、また治療者側の立場も異なるので、治療や指導の教科書的・定石的方法はない。各自が基本にある者を理解し、知識と経験で自分なりに行う。

「不登校」という用語の時代的変遷
 初期には「学校恐怖(school phobia)」、次いで「登校拒否(school refusal)」と呼び、最近では「不登校(non-atteendance at school)」と呼ぶようになった。時代により社会が変わると、微妙に内容も変化することを表している。
 歴史的には「怠けて学校に行かない」子どもを「怠学(truancy)」と呼んでいたが、その後、彼らと正反対の「学校に不安や恐怖を感じて行けない」子どもが英米で気づかれはじめ、ジョンソンが1941(昭和16)年に「学校恐怖」と命名した。しかし「恐怖」以外の心理もあることが認識され「登校拒否」が登場した。ここでは具体的原因がなく、本人も「行きたい/行かなければならない」と思っているが、なぜか行けない心の状態を重視した。我が国で毎年増加していく現象は種々の論議を呼び、定義そのものも曖昧にされると共に、登校拒否が病名として使われていることへの反発も加わり、最近は「不登校」が好まれて使われるようになった。筆者は義務教育に不適応を起こしている現状に危機感を持つ名称として「学校不適応」が望ましいと考えている。

日本における不登校の現状
 1975年以来、不登校児は毎年増加し、2001年は約14万人。
 世界中で、我が国にのみ不登校が特異的に増加し続けて久しい

不登校肯定派の矛盾
 エジソンやアインシュタインなどの偉人が不登校児だったという内容の本が以前話題になった。私たち大多数の者にとっては、平凡で地味な生活がもっとも好ましいので、有名人がえらく、学校に行かないのがよいとの論理はおかしいと感じた。この本の著者は有名大学にこだわる学歴信仰は捨てるべきと論じながら、有名人がえらいとする意見に矛盾を感じていない点に違和感を覚えた。
 何よりも彼ら少数の成功者の陰に、今や百万人ともいわれる引きこもりをはじめ、不登校が続くために人生で不利を被った者や、社会に出られない者が多数いると気づかなければならない。
 現代日本社会の極端な民主主義の行き過ぎは、少数を殊更に取りあげ、それを肯定しないと良心的でないと糾弾する風潮があり、大多数の一般論が特殊な一部の意見で隠されていく。この結果、物事の本質が見逃される危険性が極めて高い。

どのような性格が不登校を起こしやすいのか
 対人関係にはある意味で少し「図太さ」が必要なので、繊細な子どもは苦痛を感じやすい。
 対人関係は融通が利く、あるいはよい意味での「いい加減さ」が必要で、それができない子どもは対人関係が拙くなり疲れる。この融通が利かない面は、些細なことを深刻に考え、からかいをいじめと受け取るような反応になり、不登校に繋がる場合も多い。
 他人の些細な反応にも過敏になり疲れて不登校になる。
 基本的には自分に自信がないからである。

思春期
 思春期は小学5年生頃から中学生の時期で、精神的には自立の時期である。自立とは、これまでの親に依存し「母性的な温かい抱き込み」状態に安住していた者が、「父性的な厳しい社会」に飛び立つ時期になる。「家庭の優しさ」から「学校の厳しい」場に行けなくなる子どもがいても不思議ではない。今までのように親に依存して「子どものままでいたい」気持ちを、一部の子どもは学校に行かないという形で表現する。
 小学校と中学校の差は母性社会と父性社会の差とも取れる面がある。
 運動会では順位をつけないで一緒にゴールに入るというような極端な結果平等(母性的)の「区別をしない小学校」から、中学校は何か特別が明らかになる。この格差が一部の子どもに不登校や荒れを引き起こしていると筆者は考える。
 ”優しい”治療者は、この「区別」を攻撃して、不登校児の側に立つが、社会に出れば区別や差は学校より大きくなるので、彼らにそれに耐える強さや克服する方法を教えていかなければならない。

自己像低下(自己像脅威論)
 親や大人の言うことをよく聞き、「大人からみてよい子」と高い評価を受けていた子どもが不登校になる場合は、以下のような心の動きがある。
 彼らは親や大人の言うことをよく守る従順な子どもだが、自律の時期(思春期)や自分だけで判断しなければならない時に、大人の助けがないと「どうしてよいかが判らなくなり」混乱し、不安になる。親の指示や判断に従ってよい子になっtので、自分一人ではよい子でいる自信がない。こうして虚像が崩れ、自分の実像を評価される学校から逃げることになる。

自尊心の乏しさ・認知のつたなさ
 自尊心があり、学校で自分の存在を肯定できれば、少々のことがあっても不登校にはならない。自尊心の基本は母親が育てる。不登校を起こしやすい「いじめ」も自尊心の問題に行き着く。
 自尊心と同じく、適切な認知力も母親が育てる。子どもが自分の生存を左右する母親を「信頼に足る」と認知するのが、社会を肯定的にみる出発点になる。

母性社会日本の家庭の問題
 世界で一番母性の働くのが日本で、母性優位の家庭がつくられ優しく情緒的・平和的な特徴がある一方で、父性の乏しさが厳しさや客観性を欠き、父親像を希薄にさせる。子どもを我が胸に抱きしめ離さない母性の強さは、そこから飛び出して厳しい社会に出るために必要な父性の弱さを生むので、子どもの社会化が遅れて不登校に繋がりかねない。我が国に不登校が多い最大の理由である。

「できちゃった婚」の功罪
 できちゃった婚は、社会的親になるための自覚や覚悟や儀式(通過儀礼)を書いている点に注意すべきである。通過儀礼を通じて親子共に成長していかねばならないのに、それが欠落しているために、動物が本能的に持つ母性や父性も発現しないことがあり、時には動物にも劣る雌雄でしかない。彼らに子どもの社会性など育てられないから、学校という小社会で子どもが困難を感じ、不登校になるのは自然の成り行きとも云える。

世界的に母親は母性が乏しくなってきている
 男女を対立的に捉えるフェミニズムイデオロギー(生物的性差は認めるが社会的性差は認めない思想)が、母性の欠落した母親を増やす作用が大きいのは、アメリカの家庭や子どもの惨状をみればすぐに判る。ただ種々の文化的要因があり、アメリカでは不登校は少なく、被虐待児・発達障害・子どものうつ病・自殺・少年凶悪事件が多くなっている。この点から考えれば、不登校の多い我が国の方が幸せとも云える。

日本は母子関係が強すぎる
 日本の母親は夫より子どもとの結びつきが強く、これが子育てに良くも悪しくも作用していく。よい面は、我が国の子どもは世界で一番かわいがられて育つので、アメリカで深刻な問題になっている被虐待児などが比較的少ない。
 しかし、父親が家庭から阻害され、父親と子どもの関係が希薄になり、その分母子関係が強くなると、子どもの自立が難しく分離不安が出現する。不登校は自立の障害・分離不安によるので、我が国で多くなって当然である。

日本の戦後教育の致命的三大欠点
1.母国の伝統・歴史・文化を断罪・蔑視・無視
 我が国では愛国心(patriotism)と国家(国粋)主義(nationalism)が混同して使われている。政府は国益を第一に考えた外交が求められるので国家主義をとらなければならないが、国民は自然に自分の国に愛国心を持つのが世界の常識で、人間の自然感情である。残念ながら我が国では、政府が戦前も戦後も冷徹な国家主義を持たないので、まともな外交ができず、戦後は愛国心を国家主義と混同して危険と叫ぶマスコミや知識人が多すぎる。
2.「教師は聖職ではなく労働者」なる宣言と実行
 教員組合がイデオロギー的に聖職を否定し「資本家(国家)から搾取される労働者である」と1951年に宣言し、「偉い人」から教わる教育の基本を崩壊させた問題も大きい。現在の、何かあればマスコミから叩かれ、親子から信用されない教師受難時代とも云える「学校や教師を尊敬しない困った風潮」は、実は教員組合自身が50年以上かけて作り上げたものなのである。
3.欧米の民主主義を絶対視する
 戦後教育の掲げる民主主義は本来、父性社会・個人主義の欧米で言われ始めたものである。「厳しく個を認めた上で、責任や義務、秩序に価値を置く」精神が、母性社会の日本に入ると「権利/自由」ばかりが強調され、秩序をなくした平等が言われ、「気に入らないと学校を休む」のが平気な社会になってしまった。

不登校は日本の文化
 基本に母性社会、勤勉な民族性、西欧発祥の民主主義の三者があり、そこから出現した物質文明の隆盛という現象が加わり、この四要因の複合が不登校を出現させ、我が国にのみ急増している。

■ 日本独自の「自然共存文化」
 日本の国土は基本生活を営むために必要な自然に恵まれ、外敵からは四面が海という強固な要塞で守られている。自然は恵みを与える一方で、台風や地震という天災ももたらした。これらが日本の民族性を造り、最大の特徴は自然共存文化となり、そこから母性社会が芽生えた。この特性が農耕民族をつくった。農耕は適当な土地があれば複数の家族が集団を造り生活するのに適しており、個人よりも調和が優先される集団主義になる。
 一方西洋では、自然は恵みを与えないが天災も少ない。これが自然征服・父性社会に向かい狩猟民族を作り上げた。狩猟は野山を駆けまわり、他人のいない、知らない場所を探して獲物を捕るので、全体の調和よりも個人の利益が優先される個人主義になる。

不登校初期の「行きしぶり」
 最初は登校に間に合う時間までに朝起きにくくなる。朝起きられない原因を起立性調節障害睡眠リズムの乱れといった身体病編に下人を求める意見もある。前者は確かに不登校とかなり結びつきが強いが、後者は不登校状態が引き起こした結果によるものである。

子どもには「学校に所属したい」という欲求がある
 子どもは最大の安心感を与える家庭に所属の欲求をもっているが、同時に学校の何年何組に所属する欲求も強く持っている。学校を休むことで失う所属の欲求を補填するために登校刺激を穏やかに与えていくのが基本的治療となる。

子どもの心を扱う医療体制
 ある精神科医は「診れば赤字になるので不登校は診ない」と正直に述べている。「全ての医師は心も診られるように」と叫ぶ割りには、我が国の医療制度は本質的には心因性疾患に何らの対応もしていないのが現状である。
 子どもに役立つ制度や人材は、長期的展望の上に立って整備していかなければならないが、政府が行う場合は、常に現場の生の声からではなく、マスコミや一般から「文句を言われないように」だけを考えて行うので「仏作って魂入れず」になってしまう。

根本的な解決が難しい場合には
 不登校の治療は親子を常識の世界に連れ戻す営みである。
 根本的問題が解決しなくても当面の問題が片付くと、不登校を脱して学校での生活を送ることにより、子どもは成長していく場合が多い。人生には解決しない問題を背負ったまま行く道もあり、実際にはその方が多い。

不登校の行く末
 引きこもり(不登校青年版)は160万人(2005年)、準引きこもりを含めると300万人以上(NHK福祉ネットワークの調査)。
 フリーター(和製英独語「フリーランス・アルバイター」の略称)は200万人強(2005年、厚労省調査)。
 ニート(NEET, Not currently engaged in Employment, Education or Training)はイギリスの内閣府社会的排除防止局が作成した調査報告書に由来する言葉。推定62万人(2005年、厚労省調査)。

子どものうつ病と不登校
 最近、子どものうつ病が増加していると一部で盛んに言われているが、筆者の臨床からは認められない現象で、新しいものを見つけたい学問の負の面と、文化差を無視したアメリカ追従思考に、製薬会社の思惑の三者が合体した困った現象と考える。
 いわゆる「落ち込んでいる」という神経症的鬱状態はあっても、内因性うつ病は我が国ではほとんどない。

心身症と不登校
 心身症は器官(臓器)がその人の気持ちを語っているので「器官言語」と呼ばれるように「学校へ行けない/行きたくない」悩みを器官(気管支・腸・皮膚・筋肉など)が病気になり表現していると考えられる。特に本人は、ストレスをあまり自覚していない失感情症の状態にあるので、本人も親も心の悩みに目が向かわず、身体に固執する。

精神病と不登校
 不登校の初期は一般に身体症状を訴える場合がほとんどであるのに、小学校高学年くらいで、「なぜか、学校へ行けない」と、当初から神経症的症状を訴える場合には、精神病の可能性も考え、子どもとの会話で何らかの違和感を持てば疑い、専門医の診療を受けるようにする。
 一方、閉じこもり・うつ状態・幻聴・幻覚など精神病を思わせる症状を訴えても、不登校状態が長引いた結果出現する場合も多い。この場合、了解できるような幻覚・幻聴(隣の人・級友が悪口を言うなど)の場合が多く、精神病による了解不可能なものと異なっている。

いじめと不登校
 学級でのいじめの始まりは、多くが「ちょっかいやいたずら」であり、加害者側には「ふざけや笑い」の要素が多い。仲間内のいたずらやふざけは、感受性の強い被害者にとっては苦しく、いじめと感じているが、教師や他の級友からは、ふざけ合っているように見えるので、適切に捉えられない。
 筆者は、いじめは加害者にも被害者にも自尊心が乏しいから出現すると考えている。自尊心のある者は、いじめのような卑劣な行為に喜びを感じなければじっこうすることはなく、仮にいじめられても自尊心があれば、適切に対応していく。

家庭内暴力と不登校
 家庭内暴力は「夫が妻に、親が子どもに加える暴力」を指すのが世界の常識であるが、我が国では逆で、子どもが親に暴力を振るう場合を指す。そのため、外国でいう家庭内暴力をわざわざDV(domestic violence)と英語で言って区別するおかしさである。このように「子どもが親に暴力を振るう」現象の多いのは我が国に特有であり、子どもを大事にしすぎる母性社会の特性が極端になり、迎合に行き着いた結果である。
 暴力は子どもの一つの表現方法であり、これまで子どもの表現を親が適切に受け止めてこず、子どもに表現能力が育たなかったのが基本的原因であり、暴力を振るう相手(多くは母親)に、子どもが強く依存していると気づかなければならない。
 小さい頃から子どもの表現に親は適切に対応してこなかった/無視してきたので、遅まきながらも「我が子の暴力なら痛くない」の覚悟をもち、真剣で揺るぎない毅然たる態度で「暴力で何を訴えているのか」を理解するように心がけ、治療者は親がそのような態度を取れるように援助する。

引きこもりと不登校
 不登校の初期に「自主性が育つのを待つ」「登校刺激を与えない」と、無為で怠惰な生活を家庭で送るのを肯定する二昔前の論が、心理・カウンセラー領域を席巻していることが引きこもりを増加させていると筆者は考える。未熟な子どものわがまま気ままを個性・自由・権利と尊重し、それぞれの年齢で備えるべき義務・責任や、守るべき秩序を教えなかった戦後教育の負の成果が根底にある。自分の思い通りにならないと我慢ができず、すぐに逃げる子どもが、暖かな母性的優しさに溢れた家庭に引きこもり、豊かな時代はそれを許し認めるので、その状態がいつまでも続き、気づけばそれが”普通”になって引きこもりになるのである。

欧米と日本の比較
 欧米に不登校も引きこもりも少ないのは、父性社会の厳しさに加え、家庭が冷たいからという推測が成り立つ。逆説的だが、不登校児や引きこもりの多い日本社会は、子どものうつ病、青少年の自殺、少年凶悪犯罪が桁違いに多いアメリカより、幸せなのは確かである。子どもが引きこもれる温かい家庭のない欧米は、子どもにとって不幸なのでは、とさえ思えてくる。

不登校の予防~強い心を育てる~
 不登校は「行けない/行かない/行きたくない」の違いがあっても、基本は「心」の歪みで出現する。少々のことに動じない、嫌いなことも我慢してできるような心を育てるのが究極の予防となる。
 不登校は「学校に行かない」行動で自分の心を表現していると考えると、この最初の表現に対応しなかった結果が、誤った表現を子どもがとる、とも解釈できる。
 学校で適切な対人関係を持てるようになるためには、母子関係がその出発点と云える。赤ちゃんの泣き声をおろそかにしてはならない。母の胸に抱かれ、哺乳する満足感・心地よさは情動(情緒)の芽生えに繋がり、「生まれてきてよかった」という自己肯定感、すなわち自信であり、自尊心に繋がっていく。これらは母子関係が親密であることから芽生え、相手を信頼する対人関係の基本となる。この信頼関係ができると、子どもは母親の存在を良いものと認知し、世界を肯定的に捉え、その後も物事をよいように見る認知力が育っていく。
 不登校は、自信がなかったり、級友や教師を信頼できなかったりすることから起こる対人関係の障害が主な原因なので、身辺の出来事を肯定的に捉えるよりも「歪んで」認知した結果と考えられる。
 学校で心の教育といったような意味不明の言葉を叫ぶより、母親による育児を軽んじるフェミニズムイデオロギーを学校教育に取り入れる愚に目を向けなければならない。

躾の重要性
 人が適切な社会性を得ていく必要条件は誕生直後から無条件にかわいがられることで、十分条件はその後の躾になる。子どもは、かわいがり、厳しく育てるという当たり前のことを、戦後教育や物の豊かな時代が焼失させた。
 昔の子育ては「お天道様がみていますよ」「そのようなことをすると『恥ずかしい』よ」が主流になっており、世界的にも日本の子どもへの躾は優れていた。しかし、義務や責任を伴わない個性・自由・権利だけを尊いものと教える戦後教育で育った親は、「自ら恥ずかしい」ことをしても平気で、子どもに教えるどころか、モンスターペアレントと呼ばれるまでになってしまった。


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「うちの子が朝起きられないにはワケがある」(森下克也著)

2012年10月11日 23時17分09秒 | 小児医療
メディカル・トリビューン、2012年発行。
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