投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月17日(水)13時16分14秒
続きです。(p186以下)
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今日や明日やと時日を撰びける処に、英時、少弐が陰謀の企てを聞いて、「事の実否〔じっぷ〕を伺ひ見よ」とて、長岡六郎を少弐がもとへぞ遣られける。長岡、少弐がもとに行きて、見参すべき由を申しければ、「折節相労〔いたは〕る事あり」とて、対面に及ばず。長岡、力なく少弐が子息、新少弐がもとへ行きて、見参すべき由を云ひ入れて、さりげなきやうにかなたこなたを見るに、ただ今打つ立たんとする粧〔よそお〕ひにて、楯を矯〔は〕ぎ、鏃〔やじり〕を礪〔と〕ぐ最中なり。また、遠侍〔とおさぶらい〕を見るに、蝉本〔せみもと〕白くしたる青竹の御旗竿あり。さればこそ、船上〔ふなのうえ〕より錦の御旗を給はりたりと聞きしが、実〔まこと〕なりけりと思ひて、対面せば、やがて差し違へんずるものをと思ふ所に、新少弐は何心〔なにごころ〕もなげに出で合ひたり。長岡、座席に着くと均〔ひと〕しく、「まさなき人々の謀叛の企てかな」と云ふままに、腰の刀を抜いて、新少弐に飛んで懸かる。新少弐も、あくまで早き者なりければ、傍〔そば〕なる将棋の盤を取つて、突く刀を請け支へ、長岡にむずと組んで、上を下にぞ返しける。やがて少弐が郎従ども、あまた走り寄り、上なる敵を三刀〔みかたな〕差いて、下なる主を助けければ、長岡、本意〔ほい〕を達せずして、忽ちに命を止めてけり。
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「長岡六郎」は脚注によれば「福岡県筑紫野市(筑前国御笠郡長岡郷)の武士か」とのことですが、『太平記』ではこの場面だけに登場する人物ですね。
他方、「新少弐」は少弐頼尚で、建武三年(1336)の多々良浜の戦い、湊川の戦いでは大活躍します。
少弐頼尚(1294-1372)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%BC%90%E9%A0%BC%E5%B0%9A
長岡六郎と少弐頼尚の対決はそれなりにリアルですが、『吾妻鏡』の宝治合戦の場面でも似たような話があったな、とも思います。
ま、『太平記』にしか出て来ないので史実かどうか判断しかねますが、一応の史実に基づいているとしても、相当の脚色を加えた話のような感じがします。
「吾妻鏡入門 宝治元年六月」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm
さて、『太平記』に戻って、続きです。(p187以下)
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(少弐筑後入道、「さては、わが謀叛の企て、早や探題に知られてけり。)今は止む事を得ぬ処なり」とて、大友入道相〔あい〕ともに、七千余騎を卒して、五月二十五日の午刻に、英時の館へ押し寄する。世の末の風俗に、義を重くする者は少なく、利に趨る者は多ければ、ただ今まで付き順ひつる筑紫九国の兵ども、恩を忘れて落ち失せ、名を惜しまで翻りける間、一朝の間の戦ひに、英時つひに打ち負けて、忽ちに自害をしければ、一族郎従三百四十人、続いて腹をぞ切つたりける。
あはれなるかな、昨日は、少弐、大友、英時に従ひて菊池を撃ち、今日はまた、少弐、大友、官軍に属して英時を討つ。「行路の難なること、山にしも在らず、水にしも在らず。唯人の情の反復の間に在り」と、白居易の書きたりし筆の跡、今こそ思ひ知られたり。
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最初の括弧は校注の兵藤裕己氏が流布本で補った部分ですが、西源院本にはこの種の脱落がかなりあります。
以上、第七節「筑紫合戦九州探題の事」を全て紹介しましたが、ここで魅力的な武人として描かれているのは菊池武時・武重父子だけで、大友貞宗と少弐貞経・頼尚父子は散々ですね。
ここだけ読むと、『難太平記』の「この記の作者は宮方深重の者にて」という表現もけっこう説得力があるように思えます。
「現代語訳 太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html
大友家や少弐家の人々にしてみれば、広く人口に膾炙した『太平記』にこんな描き方をされたら堪らなかったはずで、兵藤裕己氏が強調されるように『太平記』が本当に室町幕府の「正史」であり、将軍家の管理下に置かれた作品であったならば、大友・少弐家の関係者は幕府とのあらゆるコネを駆使し、必要ならば賄賂も使って『太平記』の改変を狙ったのではないかと思われます。
しかし、結果的にこのような記述が残った訳で、それは結局のところ『太平記』が幕府の「正史」ではないことの証左ではないかと私は考えます。
『難太平記』には、法勝寺の恵珍上人が「原太平記」を足利直義に提出し、直義が玄恵法印に読ませたところ、間違いが極めて多いことが判明し、直義は修正がなされるまでは公開するなと命じた、とのエピソードが紹介されていますが、そうした幕府からの権力的な介入が一時的にあったにしても、結局は『太平記』は幕府が管理不能な作品であったものと思われます。
なお、今川了俊は『太平記』に今川家の事績が少ないとブチブチ文句を言っていますが、それは足利一門の今川家すら、大友家や少弐家と同様、『太平記』に介入するノウハウを持っていなかったことを示していますね。
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aece715a762d543f9ca38f837fcc1d9b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/47c6bd1d4967878ec86599fa9de5f178
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6a86f4e74cfbb937620d2d97ded8d8b0
和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d91b38bb8daf4d395033ffc3fc7c0702
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その4)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c5aac01c4feef038f70bd203f773f28
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b207d86b7184e03b1c29d7cacb5e2eee
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ab1e18cf46c1428ca5403bc087eeb6e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94556ec0daa839bb62c915888e3cb03f
続きです。(p186以下)
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今日や明日やと時日を撰びける処に、英時、少弐が陰謀の企てを聞いて、「事の実否〔じっぷ〕を伺ひ見よ」とて、長岡六郎を少弐がもとへぞ遣られける。長岡、少弐がもとに行きて、見参すべき由を申しければ、「折節相労〔いたは〕る事あり」とて、対面に及ばず。長岡、力なく少弐が子息、新少弐がもとへ行きて、見参すべき由を云ひ入れて、さりげなきやうにかなたこなたを見るに、ただ今打つ立たんとする粧〔よそお〕ひにて、楯を矯〔は〕ぎ、鏃〔やじり〕を礪〔と〕ぐ最中なり。また、遠侍〔とおさぶらい〕を見るに、蝉本〔せみもと〕白くしたる青竹の御旗竿あり。さればこそ、船上〔ふなのうえ〕より錦の御旗を給はりたりと聞きしが、実〔まこと〕なりけりと思ひて、対面せば、やがて差し違へんずるものをと思ふ所に、新少弐は何心〔なにごころ〕もなげに出で合ひたり。長岡、座席に着くと均〔ひと〕しく、「まさなき人々の謀叛の企てかな」と云ふままに、腰の刀を抜いて、新少弐に飛んで懸かる。新少弐も、あくまで早き者なりければ、傍〔そば〕なる将棋の盤を取つて、突く刀を請け支へ、長岡にむずと組んで、上を下にぞ返しける。やがて少弐が郎従ども、あまた走り寄り、上なる敵を三刀〔みかたな〕差いて、下なる主を助けければ、長岡、本意〔ほい〕を達せずして、忽ちに命を止めてけり。
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「長岡六郎」は脚注によれば「福岡県筑紫野市(筑前国御笠郡長岡郷)の武士か」とのことですが、『太平記』ではこの場面だけに登場する人物ですね。
他方、「新少弐」は少弐頼尚で、建武三年(1336)の多々良浜の戦い、湊川の戦いでは大活躍します。
少弐頼尚(1294-1372)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%BC%90%E9%A0%BC%E5%B0%9A
長岡六郎と少弐頼尚の対決はそれなりにリアルですが、『吾妻鏡』の宝治合戦の場面でも似たような話があったな、とも思います。
ま、『太平記』にしか出て来ないので史実かどうか判断しかねますが、一応の史実に基づいているとしても、相当の脚色を加えた話のような感じがします。
「吾妻鏡入門 宝治元年六月」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm
さて、『太平記』に戻って、続きです。(p187以下)
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(少弐筑後入道、「さては、わが謀叛の企て、早や探題に知られてけり。)今は止む事を得ぬ処なり」とて、大友入道相〔あい〕ともに、七千余騎を卒して、五月二十五日の午刻に、英時の館へ押し寄する。世の末の風俗に、義を重くする者は少なく、利に趨る者は多ければ、ただ今まで付き順ひつる筑紫九国の兵ども、恩を忘れて落ち失せ、名を惜しまで翻りける間、一朝の間の戦ひに、英時つひに打ち負けて、忽ちに自害をしければ、一族郎従三百四十人、続いて腹をぞ切つたりける。
あはれなるかな、昨日は、少弐、大友、英時に従ひて菊池を撃ち、今日はまた、少弐、大友、官軍に属して英時を討つ。「行路の難なること、山にしも在らず、水にしも在らず。唯人の情の反復の間に在り」と、白居易の書きたりし筆の跡、今こそ思ひ知られたり。
-------
最初の括弧は校注の兵藤裕己氏が流布本で補った部分ですが、西源院本にはこの種の脱落がかなりあります。
以上、第七節「筑紫合戦九州探題の事」を全て紹介しましたが、ここで魅力的な武人として描かれているのは菊池武時・武重父子だけで、大友貞宗と少弐貞経・頼尚父子は散々ですね。
ここだけ読むと、『難太平記』の「この記の作者は宮方深重の者にて」という表現もけっこう説得力があるように思えます。
「現代語訳 太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html
大友家や少弐家の人々にしてみれば、広く人口に膾炙した『太平記』にこんな描き方をされたら堪らなかったはずで、兵藤裕己氏が強調されるように『太平記』が本当に室町幕府の「正史」であり、将軍家の管理下に置かれた作品であったならば、大友・少弐家の関係者は幕府とのあらゆるコネを駆使し、必要ならば賄賂も使って『太平記』の改変を狙ったのではないかと思われます。
しかし、結果的にこのような記述が残った訳で、それは結局のところ『太平記』が幕府の「正史」ではないことの証左ではないかと私は考えます。
『難太平記』には、法勝寺の恵珍上人が「原太平記」を足利直義に提出し、直義が玄恵法印に読ませたところ、間違いが極めて多いことが判明し、直義は修正がなされるまでは公開するなと命じた、とのエピソードが紹介されていますが、そうした幕府からの権力的な介入が一時的にあったにしても、結局は『太平記』は幕府が管理不能な作品であったものと思われます。
なお、今川了俊は『太平記』に今川家の事績が少ないとブチブチ文句を言っていますが、それは足利一門の今川家すら、大友家や少弐家と同様、『太平記』に介入するノウハウを持っていなかったことを示していますね。
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aece715a762d543f9ca38f837fcc1d9b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/47c6bd1d4967878ec86599fa9de5f178
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6a86f4e74cfbb937620d2d97ded8d8b0
和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d91b38bb8daf4d395033ffc3fc7c0702
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その4)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c5aac01c4feef038f70bd203f773f28
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b207d86b7184e03b1c29d7cacb5e2eee
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ab1e18cf46c1428ca5403bc087eeb6e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94556ec0daa839bb62c915888e3cb03f
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