学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)

2021-03-16 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月16日(火)11時38分42秒

鎮西探題の文芸活動については、川添昭二氏の先駆的な研究以後、殆ど進展がないように見えますが、地方史の書籍・雑誌等で参照すべき文献をご存じの方は御教示願いたく。
さて、ちょっと脱線気味になりますが、『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期はなかなか壮烈なので、少し見ておきたいと思います。
兵藤裕己校注『太平記(二)』の第十一巻第七節「筑紫合戦九州探題の事」から引用します。(p180以下)

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 京都、鎌倉は、すでに高氏、義貞が武功によつて静謐しぬ。今は、筑紫へ討手を下されて、九国の探題英時を攻めらるべしとて、二条大納言師基を太宰帥になされて、すでに下し奉らんとせられける前に、六月七日、菊池、少弐、大友がもとより早馬同日に打つて、「九州の朝敵、残る所なく退治候ひぬ」と奏聞す。
 その合戦の次第を、後に委しく尋ぬれば、主上〔しゅしょう〕未だ船上〔ふなのうえ〕に御座ありし時、少弐入道妙恵、大友入道愚鑑、菊池入道寂阿、三人同心して、御方へ参ずべき由を申し入れける間、綸旨に錦の御旗を添へてぞ下されける。その企て、かれら三人心中に秘して、未だ色に出ださずと云へども、さすが隠れなかりければ、この時、やがて探題英時の方へ聞こえてけり。
 英時、かれらが野心の実否〔じっぷ〕をよくよく伺ひ見んために、先づ、菊池入道寂阿を博多へぞ呼びける。菊池、この使ひに肝付いて、これはいかさま、この間の陰謀露顕して、われを討たんためにぞ呼び給ふらん、さらんに於ては、人に前〔さき〕をせられなば叶ふまじ、こなたより遮つて博多へ打ち寄せて、覿面〔てきめん〕に勝負を決せんと思ひければ、かねての約諾に任せて、大友がもとへ事の由をぞ触れたりける。
 大友は、天下の落居未だいかなるべしとも見定めざりければ、分明〔ふんみょう〕の返事に及ばず。少弐はまた、その比、京都の合戦に六波羅常に勝に乗る由を聞いて、己が咎を補はんとや思ひけん、日来〔ひごろ〕の約を変じて、菊池が使ひ八幡弥四郎宗安を討つて、その頸を探題の方へぞ出だしける。菊池入道、大きに怒つて、「日本一の不覚人どもを憑〔たの〕んで、この一大事を思ひ立ちけるこそ越度〔おちど〕なれ。よしよし、その人々の与力せぬ軍〔いくさ〕はせられぬか」とて、三月十三日の卯刻に、わづかに百五十騎にて、探題の館〔たち〕へぞ押し寄せける。
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いったん、ここで切ります。
『太平記』は菊池武時・大友貞宗・少弐貞経の間に討幕の密約が成立した後、大友・少弐が菊池を裏切ったとしますが、史実はどうだったのか。
この時期の信頼できる史料としては「博多日記」(東福寺僧良覚の日記。角川文庫『太平記(一)』巻末付録)がありますが、同記によれば三月二十日に後醍醐の「院宣」(綸旨)を持った「八幡弥四郎宗安」が鎮西探題の御所の陣内で当該「院宣」を大友貞宗に渡そうとして逮捕され、その際に「八幡弥四郎宗安」は「大友(貞宗)・筑州(少弐貞経)・菊池・平戸・日田・三窪、(に充てられた)以上六通」の「院宣」を「帯持」していたのだそうです。
『太平記』は「八幡弥四郎宗安」を「菊池が使ひ」としますが、この点は「博多日記」と齟齬があります。
まあ、菊池・大友・少弐間の密約が本当にあったのかもしれませんが、それは史料的には裏付けられず、三月十三日、菊池武時は単独で鎮西探題を攻撃し、敗北したということですね。

「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d5dfc5df2b095e05c6da24a62ee1e33

なお、「こなたより遮つて博多へ打ち寄せて」とありますが、「遮」は尊氏から大友貞宗に送られた四月二十九日付書状に登場し、解釈の決め手となる表現でもありますね。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1dd5123eeb460e1b8701cd9cfe6b08a
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe5560701dd33e1fefa4d23a6ebf9f42

『太平記』に戻って続きです。(p182以下)

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 菊池入道、櫛田宮〔くしだのみや〕の前を打ち過ぎける時、軍の凶をや占〔しめ〕されけん、また乗り打ちにしたるをや御咎めありけん、菊池が乗つたる馬、俄かにすくみて、一足も前へ進まず。菊池入道、大きに怒つて、「いかなる神にてもおはせよ、寂阿が軍場〔いくさば〕へ向かはんずる道にて、乗り打ちを咎め給ふ様やある。その儀ならば、矢一つ進〔まいら〕せん。受けて御覧ぜよ」とて、上差〔うわざし〕の鏑〔かぶら〕を抜き出だし、神殿の扉を、二矢までこそ射たりけれ。放つとひとしく、馬のすくみ直りてければ、「さぞとよ」と、あざ笑うて打ち通る。後に社壇を見ければ、二丈ばかりなる大蛇〔おおくちなわ〕、菊池が鏑矢に当たつて死したりけるこそ不思議なれ。
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この部分、創作だろうとは思いますが、南北朝期の人々の宗教観、というか「宗教的空白」の拡がりを感じさせて、非常に面白いですね。
「あざ笑うて打ち通る」とあるように、「宗教的空白」は笑いとともに登場する点も興味深いところです。
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