投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月24日(水)10時54分56秒
昆野伸幸氏『近代日本の国体論』の「序論 国体論研究の視角」には次の指摘があります。(p9以下)
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ここで本書が視座とする皇国史観という用語、概念の孕む問題性について検討しておきたい。これまでこの用語、概念は、近代日本、特に昭和戦前・戦時期における国家と歴史認識との密接な関係を批判的に説明するものとして使用されてきた。そのことは当該期を扱った一般的な書物から専門的研究書まで共通している。そしてこの用語は、単に過去の出来事を説明する場合だけでなく、最近の歴史教科書問題をめぐる報道にも示されるように、現代における国家主義的な歴史認識を呼ぶ場合にも適用されている。様々なメディアを通して、皇国史観という用語には今日既に一定のイメージが付与され、その像がかなりの層において共有されているといってもいいだろう。
(中略)
しかし、資料用語としての「皇国史観」に対する分析自体が十分なされていない以上、歴史的文脈を無視して「皇国史観」をそのまま分析概念として一般化するのは極めて危険である。既に指摘されているように、「皇国史観」は早くても昭和一七(一九四二)年六月頃から、大体は昭和一八(一九四三)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたものである。確かにこの前後の時期には他にも「国体史観」「皇道史観」「天壌無窮史観」「万世一系史観」「中今史観」等々の類似語が氾濫したが、「皇国史観」の場合、第三部第一章で確認するように、当時発表された六国史を継ぐ「正史」編集事業との関連で使われたものであり、他の語とは事情が異なっていた。その意味で「皇国史観」は、他の語以上に本来極めて時事的な、歴史的刻印を帯びた用語なのである。
このような事情を踏まえ、本書では資料用語としての「皇国史観」と分析概念としての<皇国史観>を明確に区別する。文部官僚によって語られた「皇国史観」という用語は、戦後流布した<皇国史観>のイメージを遡及させ、単純に同一視するべきものではなく、まず「皇国史観」それ自体が考察されるべき対象なのである。かかる区別をしておくことこそが、<皇国史観>を具体的に理解する前提としてまず必要なことであろう。
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皇国史観といえば、まず第一に平泉澄の名前が浮かびますが、「文部当局において、極めて早くかつ頻繁に「皇国史観」の語を使用した点で公認イデオローグといえる人物」(p217)である小沼洋夫(1907-66)は東大文学部倫理学科で吉田静致に師事し、後に和辻哲郎にも学んだ人だそうで、平泉澄の弟子でもなんでもないですね。
小沼は平泉に対してはむしろ批判的であり、平泉もまた文部当局が進める「正史」編集事業には乗り気でなく、「皇国史観」という用語は全く使わなかったそうです。(p236)
また、文部省と一体的な存在と思われがちな「国民精神文化研究所」には、「皇国史観」という用語は用いながらも小沼洋夫らの文部省主流派とは一線を画するグループがあって、こちらも平泉には批判的だったそうですね。
ということで、「皇国史観」を資料用語に即して捉えると、平泉は「皇国史観」のリーダーではなくなってしまいますね。
ちなみに後者のグループの中心である吉田三郎(1908-45)は京大文学部史学科国史学専攻卒で、在学中は西田直二郎に師事し、「昭和十年前後は、主に『歴史学研究』や文部省管轄下の国民精神文化研究所の紀要である『国民精神文化』に論文を発表」(p226)していたそうです。
『歴史学研究』と『国民精神文化』に同時期に投稿しているというのはちょっとびっくりですね。
『歴史学研究』に載った論文のタイトルは「外国貿易と大名」(『歴史学研究』2巻3号、1934年7月)といったものだそうですが、気になるので後で内容を確認してみるつもりです。
ちなみに文部省主流派とは異質な吉田三郎を中心とするグループは結局「掃蕩」されて、吉田自身も昭和18年、「興南練成院練成官」としてマニラに赴任し、二年後にアメリカ軍のフィリピン侵攻で死去したそうです。
昆野伸幸氏『近代日本の国体論』の「序論 国体論研究の視角」には次の指摘があります。(p9以下)
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ここで本書が視座とする皇国史観という用語、概念の孕む問題性について検討しておきたい。これまでこの用語、概念は、近代日本、特に昭和戦前・戦時期における国家と歴史認識との密接な関係を批判的に説明するものとして使用されてきた。そのことは当該期を扱った一般的な書物から専門的研究書まで共通している。そしてこの用語は、単に過去の出来事を説明する場合だけでなく、最近の歴史教科書問題をめぐる報道にも示されるように、現代における国家主義的な歴史認識を呼ぶ場合にも適用されている。様々なメディアを通して、皇国史観という用語には今日既に一定のイメージが付与され、その像がかなりの層において共有されているといってもいいだろう。
(中略)
しかし、資料用語としての「皇国史観」に対する分析自体が十分なされていない以上、歴史的文脈を無視して「皇国史観」をそのまま分析概念として一般化するのは極めて危険である。既に指摘されているように、「皇国史観」は早くても昭和一七(一九四二)年六月頃から、大体は昭和一八(一九四三)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたものである。確かにこの前後の時期には他にも「国体史観」「皇道史観」「天壌無窮史観」「万世一系史観」「中今史観」等々の類似語が氾濫したが、「皇国史観」の場合、第三部第一章で確認するように、当時発表された六国史を継ぐ「正史」編集事業との関連で使われたものであり、他の語とは事情が異なっていた。その意味で「皇国史観」は、他の語以上に本来極めて時事的な、歴史的刻印を帯びた用語なのである。
このような事情を踏まえ、本書では資料用語としての「皇国史観」と分析概念としての<皇国史観>を明確に区別する。文部官僚によって語られた「皇国史観」という用語は、戦後流布した<皇国史観>のイメージを遡及させ、単純に同一視するべきものではなく、まず「皇国史観」それ自体が考察されるべき対象なのである。かかる区別をしておくことこそが、<皇国史観>を具体的に理解する前提としてまず必要なことであろう。
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皇国史観といえば、まず第一に平泉澄の名前が浮かびますが、「文部当局において、極めて早くかつ頻繁に「皇国史観」の語を使用した点で公認イデオローグといえる人物」(p217)である小沼洋夫(1907-66)は東大文学部倫理学科で吉田静致に師事し、後に和辻哲郎にも学んだ人だそうで、平泉澄の弟子でもなんでもないですね。
小沼は平泉に対してはむしろ批判的であり、平泉もまた文部当局が進める「正史」編集事業には乗り気でなく、「皇国史観」という用語は全く使わなかったそうです。(p236)
また、文部省と一体的な存在と思われがちな「国民精神文化研究所」には、「皇国史観」という用語は用いながらも小沼洋夫らの文部省主流派とは一線を画するグループがあって、こちらも平泉には批判的だったそうですね。
ということで、「皇国史観」を資料用語に即して捉えると、平泉は「皇国史観」のリーダーではなくなってしまいますね。
ちなみに後者のグループの中心である吉田三郎(1908-45)は京大文学部史学科国史学専攻卒で、在学中は西田直二郎に師事し、「昭和十年前後は、主に『歴史学研究』や文部省管轄下の国民精神文化研究所の紀要である『国民精神文化』に論文を発表」(p226)していたそうです。
『歴史学研究』と『国民精神文化』に同時期に投稿しているというのはちょっとびっくりですね。
『歴史学研究』に載った論文のタイトルは「外国貿易と大名」(『歴史学研究』2巻3号、1934年7月)といったものだそうですが、気になるので後で内容を確認してみるつもりです。
ちなみに文部省主流派とは異質な吉田三郎を中心とするグループは結局「掃蕩」されて、吉田自身も昭和18年、「興南練成院練成官」としてマニラに赴任し、二年後にアメリカ軍のフィリピン侵攻で死去したそうです。
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