投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月12日(金)11時43分22秒
ちょっとしつこいかもしれませんが、井上著に基づいて、もう少し京極為兼と正親町公蔭を見て行きます。
「第六 頂点から第二次失脚へ─正和期」の「四 為兼の拘引・配流」から少し引用します。(p221以下)
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四 為兼の拘引・配流
十二月二十八日、東使安東左衛門入道重綱上洛。六波羅の軍兵数百人を率いて為兼を召し取った。【中略】
安東左衛門入道重綱は得宗御内の最長老で、弘安の蒙古襲来以後の重大事件に得宗の意を受けて活躍する人物である(筧雅博『蒙古襲来と徳政令』)。重綱が数百人の軍兵を率いて召取りに向かったという点、示威の面もあろうが、幕府が重大視していたからである。【中略】
この拘引についてはさらに「第三」で紹介した史料を再び参看する必要がある。すなわち小川剛生氏の発見・紹介・翻刻にかかる『二条殿秘説』のうちの「条々」である。
「条々」の初めに「正和五年三月四日付之 奉行人<刑部権少輔信濃前司>」とあって(以下、「正和五年三月伏見法皇事書案」または「事書案」と略す)、内容は「一、御治天間事」「一、京極大納言入道間事」「一、執柄還補事」より成り、某(おそらく法皇の近親平経親周辺か)が法皇の意を体して、責任を詰問してきた幕府に対して朝廷の立場を説明し、陳弁し、三月四日幕府の奉行人に付したもののようである。以上のうち、「御治天間事」は短いもので、(「治天」の事に関して大覚寺統側は)六条有房を関東に下したが、それについて幕府は早まった判断をしないように(政権交代など考慮しないように)と訴えたもの。「執柄還補事」は前に述べた(冬平還補の件)。
「京極大納言入道間事」は、安東重綱(すなわち幕府)の申し入れを引きつつ釈明したもので、かなり長文であるが、当面の問題、為兼召し取りの理由について、重綱が実兼を通して奏聞したのは、
入道大納言、永仁罪科により流刑に処せられ了んぬ。今猶先非を悔いず、政道の巨
害を為す由、方々其の聞え有るの間、土佐国に配流すべしと云々。
ということであった。また、為兼の「張行」を法皇が「許容」し、多くの「非拠」が行なわれて政が乱れたと指摘、なお法皇と上皇との間のこと(記述、不和のこと)も触れていたようだが、欠文があってはっきりしない。さらに「執柄還補」の件も、「巨害」に関連して付せられたものであろう。
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京極為兼の経歴を見ていて不思議に思うのは、やはり人生で二度も流罪になっている点ですね。
それも永仁六年(1298)の流罪と正和五年(1315)の流罪の理由が同一、つまり「張行」であって、一度目の失敗を反省する知性と二度目の危機を察知する神経の鋭敏さが欠けているようです。
そして、為兼の「張行」は二度とも伏見院の「許容」によるものですから、当該能力の不足は伏見院にも共通します。
幕府としては、為兼よりむしろ混乱の元凶たる伏見院を流したい、くらいの気分だったかもしれないですね。
国文学の世界では岩佐美代子氏の活躍により京極派の見直しが進み、岩佐氏の著書を読んでいると伏見院が政治家としても卓越した人物のように思えてきますが、実際には伏見院は政治指導者としては無能であり、本人の高い自己評価との落差が混乱を助長したように思われます。
2008年の投稿で、伏見院と京極為兼の関係は、君が莫迦なら臣も莫迦、莫迦同士の水魚の交わりではなかろうか、と書いたことがありますが、私の見方は現在も同じです。
「水魚の交わり」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7c1fd3cc4386b3f8cf93a1c03836948
さて、井上著に戻って「五 為兼失脚の余波」を見て行きます。(p227以下)
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五 為兼失脚の余波
為兼の失脚は、その周辺にはもちろん、政局にも影響を及ぼした。
まず『事書案』を引こう。
京極大納言入道の間の事、関東時議驚き思し食さるるの間、先ず忠兼朝臣に於ては、
所職を解却せられ、勅勘有る所なり。朝恩の所々悉く知行を改めらる。姫宮御扶
持の為、一所預け置かるる也。納言二品、彼の二品の事、永仁、沙汰に及ぶべから
ざるの由、関東申さる。仍て今度も其の沙汰に及ばず。当時の次第此の如し。
とある。次に、正和五年四月一日の伏見院書状(『鎌倉遺文』二五八三〇号。後伏見上皇書状とあるが伏見院と考えられる)には、為基と覚心(為雄)のことを記した後に、「関東は二品〔為子〕并俊言卿と指申〔さしもうす〕の間、是は勿論候」とある。すなわち関東からは忠兼・俊言については処分の指名があったのである。
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いったん、ここで切ります。
「納言二品」というのは為兼の同母姉・為子のことで、永福門院に伺候し、相当の権威があった存在のようです。
「しかし永仁の時には関東から「沙汰」に及ばずともよし、というので、今回もそれに倣ったという」(p228)ことで、再び免責となります。
>好事家さん
ちょっと分かりません。
正直、私も当面は自分の課題で手一杯で、調べる時間もありません。
ちょっとしつこいかもしれませんが、井上著に基づいて、もう少し京極為兼と正親町公蔭を見て行きます。
「第六 頂点から第二次失脚へ─正和期」の「四 為兼の拘引・配流」から少し引用します。(p221以下)
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四 為兼の拘引・配流
十二月二十八日、東使安東左衛門入道重綱上洛。六波羅の軍兵数百人を率いて為兼を召し取った。【中略】
安東左衛門入道重綱は得宗御内の最長老で、弘安の蒙古襲来以後の重大事件に得宗の意を受けて活躍する人物である(筧雅博『蒙古襲来と徳政令』)。重綱が数百人の軍兵を率いて召取りに向かったという点、示威の面もあろうが、幕府が重大視していたからである。【中略】
この拘引についてはさらに「第三」で紹介した史料を再び参看する必要がある。すなわち小川剛生氏の発見・紹介・翻刻にかかる『二条殿秘説』のうちの「条々」である。
「条々」の初めに「正和五年三月四日付之 奉行人<刑部権少輔信濃前司>」とあって(以下、「正和五年三月伏見法皇事書案」または「事書案」と略す)、内容は「一、御治天間事」「一、京極大納言入道間事」「一、執柄還補事」より成り、某(おそらく法皇の近親平経親周辺か)が法皇の意を体して、責任を詰問してきた幕府に対して朝廷の立場を説明し、陳弁し、三月四日幕府の奉行人に付したもののようである。以上のうち、「御治天間事」は短いもので、(「治天」の事に関して大覚寺統側は)六条有房を関東に下したが、それについて幕府は早まった判断をしないように(政権交代など考慮しないように)と訴えたもの。「執柄還補事」は前に述べた(冬平還補の件)。
「京極大納言入道間事」は、安東重綱(すなわち幕府)の申し入れを引きつつ釈明したもので、かなり長文であるが、当面の問題、為兼召し取りの理由について、重綱が実兼を通して奏聞したのは、
入道大納言、永仁罪科により流刑に処せられ了んぬ。今猶先非を悔いず、政道の巨
害を為す由、方々其の聞え有るの間、土佐国に配流すべしと云々。
ということであった。また、為兼の「張行」を法皇が「許容」し、多くの「非拠」が行なわれて政が乱れたと指摘、なお法皇と上皇との間のこと(記述、不和のこと)も触れていたようだが、欠文があってはっきりしない。さらに「執柄還補」の件も、「巨害」に関連して付せられたものであろう。
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京極為兼の経歴を見ていて不思議に思うのは、やはり人生で二度も流罪になっている点ですね。
それも永仁六年(1298)の流罪と正和五年(1315)の流罪の理由が同一、つまり「張行」であって、一度目の失敗を反省する知性と二度目の危機を察知する神経の鋭敏さが欠けているようです。
そして、為兼の「張行」は二度とも伏見院の「許容」によるものですから、当該能力の不足は伏見院にも共通します。
幕府としては、為兼よりむしろ混乱の元凶たる伏見院を流したい、くらいの気分だったかもしれないですね。
国文学の世界では岩佐美代子氏の活躍により京極派の見直しが進み、岩佐氏の著書を読んでいると伏見院が政治家としても卓越した人物のように思えてきますが、実際には伏見院は政治指導者としては無能であり、本人の高い自己評価との落差が混乱を助長したように思われます。
2008年の投稿で、伏見院と京極為兼の関係は、君が莫迦なら臣も莫迦、莫迦同士の水魚の交わりではなかろうか、と書いたことがありますが、私の見方は現在も同じです。
「水魚の交わり」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7c1fd3cc4386b3f8cf93a1c03836948
さて、井上著に戻って「五 為兼失脚の余波」を見て行きます。(p227以下)
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五 為兼失脚の余波
為兼の失脚は、その周辺にはもちろん、政局にも影響を及ぼした。
まず『事書案』を引こう。
京極大納言入道の間の事、関東時議驚き思し食さるるの間、先ず忠兼朝臣に於ては、
所職を解却せられ、勅勘有る所なり。朝恩の所々悉く知行を改めらる。姫宮御扶
持の為、一所預け置かるる也。納言二品、彼の二品の事、永仁、沙汰に及ぶべから
ざるの由、関東申さる。仍て今度も其の沙汰に及ばず。当時の次第此の如し。
とある。次に、正和五年四月一日の伏見院書状(『鎌倉遺文』二五八三〇号。後伏見上皇書状とあるが伏見院と考えられる)には、為基と覚心(為雄)のことを記した後に、「関東は二品〔為子〕并俊言卿と指申〔さしもうす〕の間、是は勿論候」とある。すなわち関東からは忠兼・俊言については処分の指名があったのである。
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いったん、ここで切ります。
「納言二品」というのは為兼の同母姉・為子のことで、永福門院に伺候し、相当の権威があった存在のようです。
「しかし永仁の時には関東から「沙汰」に及ばずともよし、というので、今回もそれに倣ったという」(p228)ことで、再び免責となります。
>好事家さん
ちょっと分かりません。
正直、私も当面は自分の課題で手一杯で、調べる時間もありません。
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