学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

赤橋種子と正親町公蔭(その6)

2021-03-12 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月12日(金)14時55分7秒

前回投稿で引用した部分の後、為子についての説明が八行ほどありますが、省略して忠兼に関する部分のみ引用します。(p229以下)

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 忠兼は『公卿補任』元徳二年(一三三〇)の尻付によると、正和四年八月蔵人頭となったが、「十二月廿八日東使為兼卿を召し取りの時同車、但即ち赦免と云々、同五正十一頭を止む(宣下)。其の後辺土に籠居す」とある。『事書案』と考え合せると、忠兼は為兼が毘沙門堂の邸で召取られて六波羅に移送された時に同車していたが、六波羅に着いた折に赦免(放免)され、拘束はされず、次いで蔵人頭はやめさせられ(「所職解却」)、のちに辺土(京の郊外)に籠居したのであった。これは「勅勘」に依ってであろう。所領はすべて没収されたが、姫宮の扶持のため一ヵ所のみ預けられたという。忠兼の姉は三条局(東御方)として伏見院に寵愛されていたが、その所生の姫君であろうか。この三条局はのち後伏見院に寵愛され、多くの皇子を生んでいる。家柄からいっても忠兼は他の猶子と違ってやや格の高い存在であったようだ。なおしばらく籠居していたようだが、やがて復活することは次章に述べる。
 俊言は幕府からその処置を指名されていた。文保元年出家(『公卿補任』)。おそらく出仕を停められ、所領も没収されたのであろう。消息は全く不明である。
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「やがて復活することは次章に述べる」とありますが、この部分は既に紹介しました。

赤橋種子と正親町公蔭(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17cd878a675a47c28624985d51301d63
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/588e84f3ea3f9104df0529410ddf29c0

消息不明の俊言に較べれば、「勅勘」によって蔵人頭を罷免されたものの、所領一ヵ所を一応確保できた忠兼は幸運といえそうです。
しかし、その所領もあくまで「姫宮御扶持の為」ですから、経済的には非常に厳しい状態に置かれた訳で、赤橋種子はこうした時期の、職もなければ財産もない忠兼と結婚したことになります。
ところで、井上氏は「辺土(京の郊外)」とされますが、中世でも「辺土」には、

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1.「へんぢ」に同じ。
出典徒然草 二二〇「何事もへんどはいやしく、かたくななれども」
[訳] 何事につけても片いなかは粗末で、粗野であるけれども。
2.郊外。近郊。都に近い片いなか。

https://kobun.weblio.jp/content/%E8%BE%BA%E5%9C%9F

という二つの用法があって、井上氏は後者と解されている訳ですね。
『徒然草』第220段の用例を見ると、「何事も辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」と始まっていて、辺土の具体例は天王寺です。
そして、小川剛生氏の『新版徒然草 現代語訳付き』(角川文庫、2015)で「辺土」に付された脚注には「片田舎。特に都の近郊を指す」とあり(p204)、『徒然草』の用例だけ見たら「辺土」もせいぜい畿内か、という感じもします。
しかし、『とはずがたり』には、善光寺参詣の場面で、

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 所のさまは眺望などはなけれども、生身の如来と聞き参らすれば、頼もしくおぼえて、百万遍の念仏など申して、明かし暮らすほどに、高岡の石見の入道といふ者あり。いと情ある者にて、歌つねによみ管弦などして遊ぶとて、かたへなる修行者・尼にさそはれてまかりたりしかば、まことにゆゑある住まひ、辺土分際には過ぎたり。かれといひこれといひて慰むたよりもあれば、秋まではとどまりぬ。

http://web.archive.org/web/20150909222831/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-9-zenkoji.htm

とあります。
つまり信州・善光寺も「辺土」とする用例が確実に存在する以上、『公卿補任』元徳二年(一三三〇)の尻付だけから「辺土(京の郊外)」とは断定できず、鎌倉や九州の可能性も全くゼロではないと思います。
ただ、忠兼は「姫宮」の世話はしなければならない立場ですから地方を遊び歩いている訳にも行かず、やはり京都近郊に住んでいた可能性が一番高いのでしょうね。
とすると、赤橋種子は鎌倉ではなく、京都近郊で忠兼と一緒に暮らしていたことになりそうです。
なお、『とはずがたり』に登場する「辺土分際」については、以前筆綾丸さんと少し議論したことがあります。

「辺土分際には過ぎたり」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8715
「小川綱志氏の教示を得た」(by 井原今朝男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5857d52945dbdc49cff8a0a9e87c568
小京都「長野」(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8718
「京方御家人という新しい概念」(井原今朝男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9cb3c3a7e9c1428619ab2310a22e9ee7
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