学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

「越後平氏」と信濃和田氏の関係

2016-12-29 | 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年12月29日(木)12時14分53秒

今日になって気づいたのですが、井原氏の「中世善光寺平の災害と開発─開発勢力としての伊勢平氏と越後平氏」は「CiNii」で全文が読めるのですね。

http://ci.nii.ac.jp/naid/120005748273

ただ、A4版で53頁もありますから、参照の便宜のため後深草院二条が登場する部分を適宜こちらでも引用しておきます。
都合三回出てくるのですが、二番目は第四章の最初の方です。(p168以下)

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4 越後平氏諸流による信濃・越後の所領開発

繁雅流平氏・信濃和田氏をめぐる研究史

 鎌倉時代、八条院領東条荘内の和田・高岡郷などを知行した平姓和田氏が、東条荘の成立や鐘鋳川堰の再開発、六ヶ郷用水の部分的開削に関与していたことは前章の検討からあきらかであろう。しかし、この繁雅流平氏・信濃和田氏については不明なことが多く定説がない。
 『吾妻鏡』元暦元年2月30日条は「信濃国東条荘内狩田郷領主職、避賜式部大夫繁雅訖、此所被没収之処、為繁雅本領之由、愁申故云々」と伝える。東条荘が平家没官領となった時、平繁雅は頼朝に「本領」だと愁訴して「領主職」を認められた。彼が早くから頼朝に提訴しうる強縁を持っていたことが本領を回復しえた根拠であった。【中略】
 この平繁雅流と信濃和田氏との関係については、これまで幾つかの諸説が提起され現在も一致した見解をみていない。戦前では、栗岩英治が丸子町霊泉寺阿弥陀仏の胎内文書にみえる「正和四年十一月日前隠岐守平朝臣繁長」(信史4-601)や諏訪大明神絵詞にある「信濃国和田隠岐前司繁有」は、平姓で受領名が一致し、繁を通字とすることから信濃和田氏一族と繁雅流平氏とは同族であると主張した。しかし、市村咸人は東条荘領家職を相伝した平氏と荘司の和田氏とは別人とする説をとった。戦後においても、繁雅流は在地領主であり八条院へ寄進した領家は別に存在したと評価する『中野市誌』『小布施町誌』の説がある一方で、繁雅流を中流貴族の系統で領家だと評価する『上高井誌』や片山正行の諸説が対立している。
 1950年宮内庁で後深草院二条の「とわずがたり」が発見され、正応3年(1290)に彼女が善光寺に参詣し「高岡の石見入道という者」の宅を訪問した記載が注目された。小口倫司はこれを虚構だと主張し、小林計一郎は史実とし、明徳3年高梨朝高注進状写(高梨文書 信史7-228)に「和田郷並高岡」とあることから、その居館跡を長野市東和田・西和田付近に比定した。羽下徳彦は、三浦和田氏の検討から高井時義一門を信濃国高井郡地頭職を名字の地として武士団を形成したと主張した。この説を前提にして、遠藤巌は康永元年(1342)出羽国山本郡幡江郷に和田石見左衛門尉蔵人繁晴(新渡戸文書『秋田県史 資料古代中世』778号)がみえることから、和田石見を名字とする一族が東条荘の信濃和田氏と一致し、この信濃和田氏は「鎌倉初期の三浦和田・高井氏の流れをくむ和田氏とも見受けられる」として平姓繁雅流との系譜関係を否定している。近年、「六条八幡宮造営注文」に「和田肥前入道跡」の存在が紹介されると、三浦和田中条家文書の「桓武平氏諸流系図」にみえる繁雅の弟基繁・繁継をその人物に比定する説が小山丈夫によって提起され、信濃和田氏を平姓繁雅流とする系譜説が復活している。五味文彦はこの繁雅は平頼盛とともに鎌倉に下向し、頼盛領と同じく八条院領東条荘狩田郷を安堵されたものと推定し、繁雅が八条院・平頼盛に仕えるなかで北白河院の後見・乳父の家になり、その一族から文士が搬出したものとした。この平氏一族を「京都に基盤を置く下級貴族」と評価し、鎌倉御家人としての活動や平姓和田氏との関係には言及していない。
 こうした諸説の分立は、平繁雅流一門について鎌倉時代における活動の実態が古記録や古文書によって史料的に確定していないこと、鎌倉御家人は幕府にのみ奉仕し公家政権には参加していないという「暗黙の常識」が史実をみる目を曇らせているためと考える。
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「1950年宮内庁で後深草院二条の「とわずがたり」が発見され」は誤りで、山岸徳平が『問はず語り』を「宮内省図書寮」で「発見」したのは1938年のことです。
そして1950年に「桂宮本叢書」として刊行された、というのが正確な経緯です。
ま、それはともかく、この後、井原氏は平繁雅の子孫の動向を調べるため、『尊卑分脈』とともに三浦和田家文書の中の「桓武平氏諸流系図」に着目して、その信頼性を細かく検証し、

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こうしてみると、「系図」『分脈』にみえる人物の多くが、院政期白河院から鎌倉期の後宇多院の時代までほぼ一貫して存続していたことが、古記録・古文書から確認できる。「系図」にみえる人物は『分脈』にもみえるが、『分脈』にみえない長繁、基繁、繁氏らもその存在が史実として確認される。「系図」は『分脈』以上に信憑性が高いことが判明する。野口実は、この「系図」について「本系図はおそくとも鎌倉時代末までに成立していた桓武平氏諸流の系図に三浦和田氏が自家の系譜を書き継いでいったものではなかろうか」とし、平忠常の乱の関係者について、これまで他の系図や史料に見られない記事が記載されていることに注目している。この系図の原本調査によると野口のいうように三浦和田氏が書き継いでいった原本であるとはいえないが、記載内容は確かに白河院政期から鎌倉末期にいたる記載上の人物が古記録や古文書の記載と合致することは事実である。写本だとしても良質のもので、『分脈』よりも古い典拠資料にもとづいた信憑性の高い系図が含まれているといわざるをえない。
 こうしてみれば、繁賢流越後平氏の一門は白河院庁から鳥羽・後白河・後鳥羽院政の下はもとより、承久の乱の時代を越えて後高倉・後堀川院政・亀山院にいたるまで一貫して諸大夫・北面として存続していたことがわかる。
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と結論づけます。(p173)
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