学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

「イエズス会宣教師が見た中近世移行期日本の国王と国家」

2013-11-08 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年11月 7日(木)23時03分49秒

>筆綾丸さん
有光友學氏(1941-2012)は戦国期を「上位国家」「下位国家」などと複雑化せず、一元的に捉えていた訳ですね。
すっきりはしますが、いろいろ口を挟みたくなる誘惑にかられますね。

松本和也氏の名前で検索してみたら、同氏の「イエズス会宣教師が見た中近世移行期日本の国王と国家」という論文の「博士学位論文審査要旨」が出て来ましたが、確かに面白そうな研究ですね。
戦国期は宗教関係以外は特に興味がなかったのですが、松本氏の『歴史評論』の論文は読んでみたいと思います。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

某学説の荘厳な残照について 2013/11/07(木) 14:16:36
小太郎さん
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32052.html
『戦国の地域国家』の「? 地域国家のしくみ」(有光友學氏)を読んでみました。
「地域国家」の必要条件は、おおむね、検地、貫高制、家臣等の統制、印判状(判物)、戦国家法などで、要するに、成立時期はバラバラのようですね。

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戦国大名は、その領国の維持や拡大に際して、しばしば「国家」という言葉を用いている。その最も早い例としては、文明年間(一四八〇年前後)に制定されたと思われる「朝倉孝景条々」にみえる「不思議に国を執りしより以来、昼夜目をつながず工夫せしめ、名人の語を耳に挟み、諸卒を下知し、国家つつがなく候」である。ただ、この家訓は後世の作ともいわれている。これに対して確実な文書史料では、今川氏親が、今川氏の旧領である遠江国を守護斯波氏から奪還する過程の、一五〇二年(文亀二)二月に同国高松那智権現社に与えた判物に、神領棟別を新寄進として免除する代償として「国家安全・武運長久」の祈念を命じているのが早い例である。
これらの「国家」という言葉は、「六角氏式目」に付随する家臣の起請文に「親類他人の訴論に限らず、非拠を知りながら執り次ぎ申す儀、諸篇御国御家のためしかるべからず儀、執り申すべからず」とあり、「国と家と、または国と一族と」(邦訳『日葡辞書』)とを指し示す言葉として、これ以降多くの大名のもとで多用されて行くのである。これは戦国大名の領国と当主の家を合わせた語で、いうなれば、大名が現実に掌握している統治領域と当主との間に主従的関係を取り結んで組織されたところの家臣団の掌握とそれらを通じての領域支配との総体を言い表したものといえる。すなわち、中世国家の二元的な支配権である統治権的支配権と主従制的支配権を含意させたものといえる。統治領域については、しばしば国とか分国とか言い表して他国と区別されている。後者については、家風とか家中とか言い表されて主君を頂点とする家臣団の結集体を意味する。こうして、戦国大名は、自らが支配する領域と家臣・給人の総体を国家と意識していたのである(永原慶二・一九九三、勝俣鎮夫・一九九四)。そしてまた、自らの意志を公儀とか大途として権威づけて行くのである。さらに、領民に対しては、北条氏が武田氏の侵攻や豊臣秀吉の攻撃に際して、「そもそもか様の乱世の時は、さりとては、その国にこれある者は、罷り出で、走り廻らずして叶わざる意趣に候」(清水淳三郎氏所蔵文書『戦国遺文 後北条氏編』一三八五)と国家に包摂されているものの義務として緊急動員令を発している。あるいは、家臣に対する軍役令では「そもそも軍法は国家の安危のところなり」(岡本氏古文書写『同右』一四九七)と国家を構成する一員としての自覚と遵守を促している。また、欠落住民に対して「国法に任せて」召し返すべきと、その正当性を強調しているのである。すなわち、領国内のすべての人間に対して国家の一員として、公儀への忠誠と奉仕・負担を強制しているわけである。(152頁~)
(中略)
こうしたことにより、地域国家が並立していた時期においてもそれらを包み込むような形で幕府ないし朝廷を中心とした中央権力によるところの日本国という国家が存在していたという考えも見られるが、幕府は、一五七三(天正元)に完全に解体しているし、朝廷・天皇の存在も単なる権威の根源として王冠的役割しか持たず、実質的権力とは認めがたい。やはり、この時代は、地域国家が日本の国土を分割して統治しようとしていた、客観的には中世国家の分裂した時代であり、末期的現象の時代であったといえよう。(155頁~)
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「地域国家」とはこういうもので、なぜ「領国」ではダメかというと、
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これまで一般に、いわゆる戦国大名の統治した領域およびその支配体制のことは、大名領国あるいは大名領国制と言い表されてきた。しかし、それは歴史具体的な事象名であって、日本の全時代に通底する普遍的な国家概念として捉えようとする時、個々の大名領国を地域国家と捉える場合が多い。(あとがき)
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なのだそうです。どうも、「地域国家論」を「東国国家論」の延長線上に位置づけたいという止みがたい欲求があるらしく、「東国国家」のなれの果てが「地域国家」だ、と言いたいのかもしれません。なれの果てにトドメを刺したのは太閤殿下のようです。
巨人ヴェーバーの概念を借用した某碩学の説は、中世のみならず戦国時代から近世初頭まで、「権門体制論」など色褪せてしまうほどの荘厳な残照の如く「日本国」という国家を被覆しているんだなあ、とあらためて感じました。
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