投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月20日(水)12時03分20秒
ウィキペディアで丹波忠守の項目を見たら、
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『増鏡』著者説
忠守を『増鏡』の著者と比定する説がある。荒木良雄は当代きっての『源氏物語』研究家で歌道に精通していることをもって、忠守著者説を唱える。近年においては『増鏡』著者の有力説とされる二条良基の研究家である小川剛生の見解として、二条良基が『増鏡』成立に深く関わったとしつつも、現役の公家政治家でかつ最終的に持明院統に仕えた良基を直接の筆者とすることの困難を挙げて、「良基監修・忠守筆者」説を唱えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%BF%A0%E5%AE%88
という具合にまとめていますね。
『二条良基研究』の「終章」を読んでも、小川氏の<作者>論は何を言っているのか良く分からず、結局は「良基監修・忠守筆者」で纏めるしかなさそうですね。
さて、前回紹介した「近衛家平の他界」は、同じ摂関家といっても別に互いに仲が良い訳ではないのだから、二条家以外の摂関家の不名誉になる話があっても不思議ではない、という反論が可能かもしれません。
そこで、次に二条良基の曾祖父、師忠(1254-1341)が登場する場面を紹介します。
師忠は後深草院とその異母妹の前斎宮・愷子内親王をめぐる長い話の最後の方に、西園寺実兼とセットになって出てきます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)
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まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
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いったんここで切り、井上氏の訳を見ます。
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さて、文永の初めごろ、伊勢に下向された斎宮(愷子内親王)は、後嵯峨院の更衣の御腹からお生まれになった方である。院がなくなられた後、服喪で斎宮を辞されたが、なお正式の辞任が許されなかったので、その後三年も伊勢にいらっしゃったが、この(建治元年)暮秋のころ上洛されて、仁和寺の辺で衣笠という所にお住まいになる。月花門院の御次にたいへん、だいじに思われた、故後嵯峨院の御意向を、しみじみと思い出されて、大宮院はたいそう懇切にお世話申しあげなさる。女院は亀山殿においでになる。
十月ごろ、斎宮をもお迎え申しなさろうとして、後深草院をもお越しになるようにとお便りがあったので、珍しく思われて御幸があった。その夜は、後深草院が大宮院の御前で昔や今のお話などをのんびりなさる。翌日夕方になって、衣笠殿へ斎宮をお迎えに、内々の形式で、殿上人一、二人、御車二両ほどをさし上げなさる。寝殿の南面におしとね(敷物)などをととのえて(女院・斎宮の)御対面がある。しばらくして後深草院のほうへお便りをさしあげられると、すぐお越しになる。女房に御佩刀を持たせて御簾の中へお入りになる。
大宮院は香色の薄墨色の御衣に香染めの小袖などをお召しになる。斎宮は紅梅の匂いの重袿に、えび染めの御小袿である。御髪がたいへんみごとで、今を盛りのお年ごろで、二十歳を一つ二つ越しておられるだろうとお見えになる。花にたとえていえば、霞の間に咲き匂うかば桜も、このお姿に比べてやはり美しさは劣りそうで、なんともいいようもなく高貴で上品である。
後深草院は、われもこうを乱れ織にした枯野色の御狩衣、その下に薄紫色の小袖を着、紫苑色の御指貫という、心ひかれるような親しみ深い服装で、そこに香を充分にたきしめて、周りになんともいえぬよい薫りを漂わせておられる。斎宮のお供には、位の高そうな女房が、紫の匂いの五つ衣に裳だけをつけて、車に陪乗して参られる。斎宮の伊勢でのお話など、適度にあって、(その後)後深草院が後嵯峨院の御臨終のころの御事を、しみじみとなつかしくお話しなさると、お返事もひかえめではあるが、たいへんかわいらしい。趣のあるお酒、お菓子、強飯などのご馳走で、その夜(の対面のこと)は終った。
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前斎宮・愷子内親王は建長元年(1249)生まれなので後深草院より6歳下ですね。
愷子内親王(1249-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%81%84%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
ウィキペディアで丹波忠守の項目を見たら、
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『増鏡』著者説
忠守を『増鏡』の著者と比定する説がある。荒木良雄は当代きっての『源氏物語』研究家で歌道に精通していることをもって、忠守著者説を唱える。近年においては『増鏡』著者の有力説とされる二条良基の研究家である小川剛生の見解として、二条良基が『増鏡』成立に深く関わったとしつつも、現役の公家政治家でかつ最終的に持明院統に仕えた良基を直接の筆者とすることの困難を挙げて、「良基監修・忠守筆者」説を唱えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%BF%A0%E5%AE%88
という具合にまとめていますね。
『二条良基研究』の「終章」を読んでも、小川氏の<作者>論は何を言っているのか良く分からず、結局は「良基監修・忠守筆者」で纏めるしかなさそうですね。
さて、前回紹介した「近衛家平の他界」は、同じ摂関家といっても別に互いに仲が良い訳ではないのだから、二条家以外の摂関家の不名誉になる話があっても不思議ではない、という反論が可能かもしれません。
そこで、次に二条良基の曾祖父、師忠(1254-1341)が登場する場面を紹介します。
師忠は後深草院とその異母妹の前斎宮・愷子内親王をめぐる長い話の最後の方に、西園寺実兼とセットになって出てきます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)
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まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
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いったんここで切り、井上氏の訳を見ます。
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さて、文永の初めごろ、伊勢に下向された斎宮(愷子内親王)は、後嵯峨院の更衣の御腹からお生まれになった方である。院がなくなられた後、服喪で斎宮を辞されたが、なお正式の辞任が許されなかったので、その後三年も伊勢にいらっしゃったが、この(建治元年)暮秋のころ上洛されて、仁和寺の辺で衣笠という所にお住まいになる。月花門院の御次にたいへん、だいじに思われた、故後嵯峨院の御意向を、しみじみと思い出されて、大宮院はたいそう懇切にお世話申しあげなさる。女院は亀山殿においでになる。
十月ごろ、斎宮をもお迎え申しなさろうとして、後深草院をもお越しになるようにとお便りがあったので、珍しく思われて御幸があった。その夜は、後深草院が大宮院の御前で昔や今のお話などをのんびりなさる。翌日夕方になって、衣笠殿へ斎宮をお迎えに、内々の形式で、殿上人一、二人、御車二両ほどをさし上げなさる。寝殿の南面におしとね(敷物)などをととのえて(女院・斎宮の)御対面がある。しばらくして後深草院のほうへお便りをさしあげられると、すぐお越しになる。女房に御佩刀を持たせて御簾の中へお入りになる。
大宮院は香色の薄墨色の御衣に香染めの小袖などをお召しになる。斎宮は紅梅の匂いの重袿に、えび染めの御小袿である。御髪がたいへんみごとで、今を盛りのお年ごろで、二十歳を一つ二つ越しておられるだろうとお見えになる。花にたとえていえば、霞の間に咲き匂うかば桜も、このお姿に比べてやはり美しさは劣りそうで、なんともいいようもなく高貴で上品である。
後深草院は、われもこうを乱れ織にした枯野色の御狩衣、その下に薄紫色の小袖を着、紫苑色の御指貫という、心ひかれるような親しみ深い服装で、そこに香を充分にたきしめて、周りになんともいえぬよい薫りを漂わせておられる。斎宮のお供には、位の高そうな女房が、紫の匂いの五つ衣に裳だけをつけて、車に陪乗して参られる。斎宮の伊勢でのお話など、適度にあって、(その後)後深草院が後嵯峨院の御臨終のころの御事を、しみじみとなつかしくお話しなさると、お返事もひかえめではあるが、たいへんかわいらしい。趣のあるお酒、お菓子、強飯などのご馳走で、その夜(の対面のこと)は終った。
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前斎宮・愷子内親王は建長元年(1249)生まれなので後深草院より6歳下ですね。
愷子内親王(1249-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%81%84%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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